演
奏会当日
ここは大分県立芸術短期大学の練習室である。
急
に演奏会に出ることになったはいいものの、練習場所の確保や楽器の手配などで難関だらけの千秋達のために女将が学長にかけ合ってくれた。
R☆S
メンバーは学長の好意により、時間ぎりぎりまでここで練習をさせてもらえることになったのだ。
昨晩の菊池の入院騒ぎで夜がかなり遅く
なってしまったにもかかわらず、早朝から叩き起こされたので皆眠そうだ。
ふわあっと峰が欠伸をしながら文句を言う。
「あ
〜、ねみい〜。こんな朝早くから練習しなくても大丈夫だって。初見でリハぐらいいけるって〜。
………って………なんだよ、千秋その
顔」
「………眠る暇がなかったんだよ」
千秋の顔は徹夜で総譜と格闘した跡があり、一晩で憔
悴しやつれきっていた。
朝から顔を当たる暇もなかったのか、うっすらと無精ヒゲも生えているし、目にはクマが出来ていた。
「お
前……山ごもりでもしてたみたいだな」
「うるさい。とりあえずスコアのコピーを配るから見てくれ」
そ
う言って千秋は大量に書き込みをした総譜のコピーを全員に配って回った。
「これ、一晩で仕上げたの?千秋くん」
「す
ごい書き込みの量……」
「……オレの凱旋講演の時のために昔からとっておいた大事な大事な総譜なのに……」
大
河内が悲しそうに嘆く。
大河内から総譜を借りた際に、全部楽譜を書き換える時間がなかったので千秋は「大河内、汚すぞ」と宣言して、
彼の所有していた総譜に直接書き込みをしたのだった。
それぞれの旋律に「舞子」とか「オレ」とか各パートの名前を書き込み、必要な部
分に音符を書き込んだり要らないところをばっさり×印で消したりしているので総譜は書き込みだらけであった。
そ
れを翌朝、全部コピーして、皆に配ったのだった。
「……それにしてもオケスコアを少人数制にするってけっこう時
間がかかるだろうに……」
昨日の夜は千秋は与えられた旅館の一室ではなく、地元の学生時代に大河内が使っていた
という実家の私室を借りることとなった。
そこにならピアノも音楽関連の文書もそろってるし、インターネットもつながっているからだ。
誰
にも邪魔されない閉ざされた空間で、もくもくと編曲作業にとりかかる千秋。
いつものように楽譜以外は何も目に入っておらずただ自分の
世界に没頭し続けた。
途中で女将が気をきかせて夜食を持っていったのだが、譜面に集中していてそれに気づくこともなかった。
「お、
おい、千秋」
大河内が手をあげる。
書き込みを見て思わぬところで自分の名前を見つけたらし
い。
「大河内→ピッコロって書いてあるけどて……オレ、ピッコロなの?」
「お前、前にピッ
コロが得意だって言ってただろう」
「そ、それはそうだけど……」
実は大河内は、専門が指揮
者でありながら趣味でピッコロをやっていた。(キャラクターBOOKにものっている)
そういえばいつかの飲み会でそんなことを話した
な覚えがあるようなないような……。
「すげーな、千秋。そんなことまで覚えてるのか」
峰
が感心したように言う。
「まあ、確かにこの『ペルシャの市場にて』ではピッコロが結構活躍するのよね」
「大
河内くん、目立つわよ!!」
女性達におだてられたので結構その気になりふんぞり返ってはっはっはと笑う大河内。
「そ、
そう?
まいったな……人手が足りないっていうんなら、それは、しょうがないよな……。うん……しょうがないしょうがない。
オレは本業は指揮者なんだけど……仕方ないから指揮は千秋に譲ってピッコロをやってやるよ!!」
そんな大河内を
千秋がちらりと見る。
「ー何言ってるんだ、大河内。お前にも1曲、指揮をやってもらうんだぞ」
「え……
ええーっっ!!」
「まあ、短い奴だがな。『くるみ割人形の金平糖の精の踊り』。もしアンコールがあった時のために用意しとく」
「そ
の曲の間、千秋くんはどうするの?」
「チェレスタをピアノで置き換えて弾く」
「ふ、ふん、どどどどうしてもって
いうならやってやるぞ」
「………なんで声が震えてるのよ。あ〜わかった!」
真澄がポンッと
手を叩く。
「定期公演で急にシュトレーゼマンの代役をやらされて失敗したこと思い出したんでしょう!!。
なーんかあんたって突発事態には弱そうだもんね〜」
「う、うるさい!!」
大河内は図星をつ
かれて怒鳴り返した。
「ー
ちょっと待って……千秋くん」
高橋があることに気づき千秋に問いかける。
「こ
の部分にある『歌う』って書き込みは何?」
「文字通りの意味だが、それが何か?」
「「「「………え?」」」」
「こ
の曲には男性合唱の部分がある。乞食の物乞いのシーンだ。そこをここにいる男全員が歌う」
「ええーーっっ!!歌まで歌うのか
よ!!。」
峰が頭を押さえて叫ぶ。
「そんなに驚くことか?お前ら一応
声楽もやってるんだろ?」
「いや〜でもそれにしたってまさかこんなところで歌うなんて思ってねーよ!」
「そこま
で本格的にやらなくっても……」
「私、そんな低い声で歌うの恥ずかしいわ……」
と頬を染め
るのは真澄。
皆、突然の成り行きに非難囂々、ブーイングの嵐だった。
そんなどうにも歯切れの悪い男性陣を見かね
たように大河内がだんっと机を叩いた。
「何を躊躇してるんだよ、お前ら!!そんなことで大分県人が納得すると
思ってるのか!?」
なんだかよくわからない理由だ。
地元出身の大河内にとってこの曲はとて
も思い入れのある曲らしい。
「歌がない『ペルシャの市場にて』なんて僕の居ない桃ヶ丘と一緒だ!」
「じゃ
あ、要らないんじゃないかしら!?」
さくっと瞬殺する真澄。
「……千
秋さまならまさしくその通りですけれど。ねぇ?ち・あ・き・様!」
「ひぃいいっ!」
「………それはともかく、俺
がやると言ったからには絶対にやるからな」
千秋が声にドスをきかす。
「ち……
千秋くん…?」
「これは命令だ」
彼は最初から皆の意見を聞く気などなかった。
こ
のオーケストラにとって鬼指揮者の発言は絶対なのだ。
皆はいっせいにため息をついた。
「千
秋……完璧主義者だからな……」
そ
んな周りのブーイングは無視して千秋は清良の方を向く。
「清良……ヴァイオリン曲の編曲の方は」
「こ
ちらも出来たわよ。かなり荒っぽいけどね。後は実際に演奏しながら判断していくしかないわ。問題は……」
清良は
峰をちらりと見てため息をつく。
「龍は癖が強いから……二人でうまく合わせられるかどうかってことなのよ
ね……」
「個性強いと言ってくれ。あ、難しい部分は清良で良いぞ!」
「龍……(涙)」
急
なやっつけ仕事で清良もあまり寝てないのだろう。
目の下に少しくまができている。
そんな彼女の苦労もどこふく風
で、いつも通りマイペースでからからと笑う峰だった。
「高音部の滑りは、お前の方が良いんじゃないか!?」
「龍
はどこ弾くっていうの!!」
「あ、俺重音は得意得意!!」
千秋は清良から手渡された「サラ
サーテ カルメン幻想曲 作品25」にざっと目を通す。
R☆Sオケのニューイヤーコンサートで清良が演奏したヴァイオリン協奏曲だ。
あ
の時は清良の情熱的なヴァイオリンに会場にいた観客がうっとりと魅了されたが……今回はどうなのだろうか。
「……
この曲をやるのか」
「なまじ他の曲を今からとりかかるよりはいいと思って……」
「龍ちゃんはこの時、オケで伴奏
部弾いてたのよね」
真澄が楽譜を覗き込みながら言う。
峰も一応はあの時第二ヴァイオリンと
して演奏に参加していたのだった。
「ああ〜。でもさ、伴奏だけじゃストレス溜まるから、家に帰ってソロの所を練
習してたんだぜ」
「『清良!教えてくれ〜!!』ってあの忙しい時期にもうしつこくてしつこくて……。あれだけ教えたんだから当然ある
程度、主旋律も弾けるわよね」
「おお!ばっちりだぜ!!。なんなら伴奏部教えてやろうか?清良」
「いい。覚えて
るから」
あくまで軽い感じの峰に清良がきっぱりと言う。
「後は最後の
ピアノ曲だよね。……結局、恵ちゃんは弾けなくなったから千秋くんが弾くの?」
「ああ」
黒
木の言葉に返事をしながら千秋は一瞬、病院で菊池のそばについているであろうのだめのことを考えた。
途端に言葉にならないもやもやと
した気持ちがこみあがってくる。
ー今は、それどころじゃない。
千秋は心の中で懸命に自分にそう言い聞かせるとの
だめに弾かせる筈だった楽譜を握りしめた。
「『ショパンのピアノソナタ第3番』か。……甘く優美だけど、それで
いて決然とした曲だよね」
「なんかある意味千秋くんにぴったりって感じかもね」
「おい!時間がないんだ。練習は
じめるぞ!!」
千秋が借り物の指揮棒を手にパンパンっと手を叩く。
その時、楽譜の旋律に書
き込まれたそれぞれのパートをじっと見ていた峰が、何かに気づいた。
「……千秋、これは、"みね"なのか?"み
き"なのか?……えらい字がひん曲がってるけど……」
「………みね、だ」
「つーか何でひらがな?」
「………」
「お
前そうとう眠かったんだろ〜」
手を口に当ててぷっと笑う峰に、千秋の肩がぷるぷると怒りに震えた。
ど
うやら図星だったらしい。
「うるせえっっっ!!。なんで俺がこんなに苦労しなきゃいけないんだ!!くっ
そーーーっっ!!」
「手
術とかしなくて良かったデスね」
先ほど処置を終えたばかりの菊池に付き添って病室へ帰ってきたのだめは、菊池が
車椅子からベッドに戻る介助をしながらそう言った。
「うん。でも2ヶ月はギブスで固定だって。まあ、もう一晩入
院して、明日は皆と一緒に東京に帰れそうだから良かったよ」
「でも無理は禁物ですヨ?」
「は〜〜い」
菊
池は子供のように笑いながら素直に返事をする。
菊池が入院した部屋は6人部屋の窓際だった。
清潔そうな白いシー
ツが敷かれたベッドの上に横たわって菊池はのだめの様子をうかがう。
「……のだめちゃん」
「ハ
イ?なんですか?」
「もうすぐ、千秋くん達の演奏会が始まるよね」
「え……うわわ!!」
ガッ
シャーンッッ!!
ベッド脇に置かれていたコップが下に落ちて割れた。
「あっ……
ごめんなサイ!!」
慌てて欠片を拾いにかかるのだめ。
必死に拾い集めるその顔は俯いて下を
見たままなのでその表情はわからない。
菊池はそんなのだめを微妙な表情で見つめる。
「……
僕の方はもう大丈夫だから……見に行って来たら?」
「今から行っても邪魔になるだけデスよ。
皆、今が一番の正
念場だから必死でやっているだろうし。
それに……」
「それに?」
「……千秋先輩だって、
今は演奏会のことだけしか頭にないから……のだめが行っても視界にはいらないんじゃないかと思いマス」
まあ確か
に。
あの音楽バカは目の前の演奏をいかに完璧に終わらせるかということしか考えてないだろう。
菊池は本人が聞い
たら目を吊り上げて怒りそうなことを思った。
「でも、それはいつものことでしょう」
「………」
「そ
ういえばのだめちゃん、R☆Sオケのコンサートは見たことあるの?」
菊池が突然話を変える。
の
だめはとまどいながらも、
「ハイ。初公演は見に行きました。千秋先輩からチケットもらったんですヨ。一番いい
席」
菊池の顔を見てへらっと得意げに笑った。
「へえ……どうだった」
「み
んなのやる気と情熱がビンビン伝わってきて……その迫力に圧倒されました。
心臓が破裂するんじゃないかと思ったくらいドキドキし
て……。
そしてまたみんな……すごくいい顔してるんデスよね。
音楽をとても楽しんでやっているのがよくわか
りましタ」
「僕の演奏、どうだった?」
「すごくよかったデスよ!とても格好よかったデス!!」
「あ
りがとう」
「……千秋先輩も」
「………」
「……もちろん背中しか見えなかったデスけど……
すごく生き生きしてましタ。
もう、本当に水を得た魚のようでしたから……。
ああ、千秋先輩は……とうとう自
分の居場所を見つけたんだな……ってその時、思いましタ」
「………」
「……でも、それと同時に思ったんデ
ス……」
「何を?」
「……どうしてのだめはこの中にいないんだろうって……」
「………」
「………」
「の……」
「菊池くんの足、早く直ると良いですネ〜」
何かを言いかけた菊池の言葉を遮るようにし
て、のだめは立ち上がった。
そして、菊池のたったいま巻かれたばかりの足のギブスの上にそっと手を乗せる。
「菊
池くん、知ってマスか?手当てって、こうやって患部に手を当てることなんデスよ。
子供のお母さんとかがよくやってるじゃないデス
か。
掌には目には見えないすごい力があるんデスよ。
こうやって悪いところに手を当てて、治れ治れって一生懸
命念じていると本当に治りが早くなるんデスって」
「……なんだかそれ、宗教くさくない?すっごく怪しいけど……」
「そ
んなことないデスよ」
そう言ってのだめは笑った。
「昔からの知恵をあ
などってはいけませんヨ!。
菊池くんの足はのだめがこうやって治してみせますからね」
そ
ういうとのだめは目を閉じギブスに手を当てたまま「治れ……治れ……」と呪文のように呟き出した。
菊池はのだめの横顔をそっと見る。
瞳
は閉じられていて長い睫毛が上を向いている。
言葉を呟くその唇は桜色でとても艶やかで。
肌は透き通るように白く
て。
その顔はとても真剣だった。
どうして彼女は他人なんかのためにどうしてそんなに一生懸
命になれるんだろう。
本当に反則だと菊池は思った。
「のだめちゃん」
「ハ
イ?」
「……キスしてもいい?」
ばっきいいいいいいっっっ!!
のだめ
の右ストレートが菊池の右頬にめり込んだ。
「だ、だ、だ、駄目に決まってるじゃないデスかーーっ!!」
「は
はは、殴られちゃった〜」
「殴られちゃったじゃないデス!」
頬を真っ赤にして抗議するのだ
めを見て、菊池はまだ可笑しそうにくすくす笑ったままだ。
「のだめちゃん」
「も、もう、か
らかうのなしデスよ!」
のだめはまた何かからかわれるのではないかと身構える。
「演
奏会」
「え?」
「行っておいでよ」
「……菊池くん……」
「ここにいた
ら僕から襲われちゃうかもしれないよ」
「……怪我人が何言ってるんデスか」
「まあ、足が使えないなら使えないで
ね…いろいろと、やり方はあるんだよ」
そう言って菊池はニヤリと笑う。
菊池の大胆な発言
に、のだめは耳まで真っ赤になって口をぱくぱくさせながらも何も言うことができない。
「まあ……冗談は置いとい
て」
菊池はゆっくりとのだめに向き直った。
「……追いかけるんだ
ろ?」
「え?」
「どこまでも、どこまでも追いかけるんだろう?」
「………」
「だっ
たら一瞬でも目を逸らしたら駄目だ。迷って立ち止まったりしてたら駄目だよ」
「菊池くん……」
「ー自分で決めた
んだろ?」
「………」
「………」
「……でも……」
「僕のことなら気に
しなくていいから」
そこへ、病室のドアがガラリと開いた。
入ってきた人物を見てのだめは驚
きで目を見開く。
「あ……あなたは……」
そ
こへ入ってきたのは……菊池に怪我をさせた張本人である、いずみの夫だった。
昨日のどこか一本切れたような思い詰めた様子はもうどこ
にもなく、どこかおどおどした表情で二人を見つけると申し訳なさそうに頭を下げた。
しばらく呆然として彼を見つめていた二人だった
が、はっと先にのだめが我に返った。
「あ、あなた、何をしに来たんデスか!!」
きっ
と睨み付けて身構える。
「菊池くんにこれ以上何かをしようっていうのなら許しませんヨ!!」
男
はびくっとしながらも一生懸命会話しようと試みる。
「あ、……いや……その、謝りたいと思って……」
「謝
る?今更何を言ってるんデスか!。
菊池くんは足を骨折したんデスよ!!。
もし……もし、これが指とかだった
ら……手を骨折して、菊池くんがチェロを弾けなくなったらどうするつもりだったんデスか!!」
のだめの顔が紅潮
して彼女にしては珍しく興奮している。
あまりの剣幕に男はそれ以上何も言うことが出来ないで俯いて立ったままだった。
菊
池は怒りに震えているのだめの背中をポンっと軽く叩くと言った。
「……のだめちゃん。
こ
の人、何か話があるみたいだから、ちゃんと聞こうよ。
椅子に座ってとにかく落ち着こう。
ーよかったらあなた
もそこの椅子にお座りください。
そう言って菊池は男に椅子を勧めた。
い
ずみの夫は笹原紀之と名乗った。
「ー本当に……昨日は……すみませんでした」
笹
原は小さな声で謝罪の言葉を述べるともう一度頭を下げた。
のだめはまだ油断がならないという顔で、笹原をずっと睨んでいた。
「昨
日の私はどうかしていたんです……。
いずみが旅行に行くといって家を出た後に、何か行き先を示すものがないかと夢中で部屋を漁りま
した。
そしたらこの旅館と電話番号がかかれたメモがあったんです。
頭が急に真っ白になって何も考えられなく
なって…すぐさま後を追いました。
途中でナイフを購入したのは…どうしてだか自分でもわかりません。
もしか
していずみを刺して、自分も……と考えていたのかもしれません」
「………」
「………」
「こ
の旅館でいずみに会うと、必死になって彼女のことを説得しました。
まだ……愛しているから……どうにかしてやり直したいと思っ
て……。
ところがどうしてもお互いの意見が食い違うばかりでした。
『あなたは仕事ばかりで私のことなんか見
ていなかったでしょう……。私はいつもつらかった。そんな私に彼は優しくしてくれた……』
といういずみにかーっと頭に血が上ったと
ころにあなた達に出会って……つい……」
「………」
「………」
「あなた達二人が階段から転
げ落ちた時に、すぐに救急車を呼ぼうと思ったんです。
でも、情けないことに体じゅうががくがくして足が動かなかった……。
気がついたらいずみと二人でその場を離れて、部屋の中で一晩中二人で手をとりあってずっと震えていました。
旅館の人に聞いた話では
あなた達は、散歩中に足をすべらせて階段から落ちたと言っているそうですね。
警察には僕たちのことを話さなかったんですか?」
笹
原が菊池を見て問いかける。
「……話しませんでした」
「……何故」
「何
故って……もちろんどう考えてもそうなる原因を作ったのは……僕だから。
一緒に旅行へ来ている仲間にも迷惑かけたくなかったし……
これ以上事を大きくしたくなかったんです。
何よりも警察沙汰になれば……いずみちゃんがいっそう傷つくと思って……」
最
後の一言を聞くと笹原を目を見開いた。
菊池はうつむき加減の視線のままゆっくりと頭を下げる。
「僕
がいいかげんなことをしてるばっかりに……あなた達の夫婦の間をかき回してしまいました……。
いずみちゃんのことは……言い訳する
気もありません。全部、僕が悪いんです……彼女を責めないであげてください。
本当に、申し訳ありませんでした」
頭
を下げたまま菊池はしばらくの間、ぴくりとも動かない。
笹原は途方にくれたような顔をした。
「そ
んな……菊池さん、ずるいです」
「え?」
「そんな風に……素直に謝られたら……私の怒りのぶつけどころがなく
なっちゃうじゃないですか……」
「………」
「……本当は自分でもわかってるんです。
自分
が働くしか脳がない情けない駄目な男ってことを…。
それに比べてあなたは、まだ若くてハンサムで、音楽の才能があって道が開けてい
る……。
いずみがあなたに惹かれるのも当然だと思います。
それにこんなに素敵な彼女もいらっしゃって……」
「あ
の……」
のだめは口をはさんだ。
「のだめ、菊池くんの彼女じゃないデ
スよ」
「へ?」
笹原はきょとんとした顔でのだめと菊池の顔を見比べる。
「え……?
そうなんですか?」
「うん、残念なことにね、他に好きな人がいるってふられちゃったんですよ。ははは」
菊
池は相変わらずマイペースに笑った。
「え……でも、ナイフを向けられた菊池さんを守ろうとあんなに必死になっ
て……」
「あーそれはですね」
菊池はぽりぽりと頭を掻きながら言った。
「世
の中には自分の彼氏じゃなくっても命をかけて守ろうとする人間もいるってことですよ」
そうして菊池はのだめの顔
を見るとニッと笑った。
のだめも微笑み返す。
「そう……そうなんですか……」
笹
原は呆然としたように、ふらふらと後ろに下がるとまた椅子にすとんと腰を下ろす。
「……なんだ……菊池さんみた
いな人でも振られることって……あるんですね……」
独り言のように呟くと、それからのだめの方を向き直った。
「あ
なたが菊池さんより好きな人っていうくらいだから……すごく素敵な人なんでしょうね」
「全然素敵じゃないデスよ」
「………
え?」
意外そうな笹原にのだめは口を尖らせて言った。
「鬼デス」
「は?」
「悪
魔デス」
「あ、あの……」
「人のことは何かといえばバカにして変態呼ばわりするし…頭がくさいとか、部屋が汚い
とか、いつも同じ服を着てるとか、女として失格だとか言いたい放題だし」
「……のだめちゃん、いつも千秋くんからそんなこと言われて
るの?」
菊池がびっくりして目を瞬かせる。
「何かにつけてすぐ怒っ
て、人を殴ったり蹴ったり物を投げつけたり……首を絞められたこともありましタ」
「……ドメスティックヴァイオレンス……です
か?……いくら私でもそこまではしたことがないですよ……」
「缶詰ばかりしか食べさせてもらえないので一度寿司をごちそうしようとし
たら、刺身部分だけ全部食べられて、のだめはガリとシャリしか食べさせてもらえなかったこともあったし」
「え、えーと、あの……そ、
そんな相手で本当にいいんですか……?」
あまりの物言いに口をあんぐりと開け、呆然とした様子の笹原。
の
だめはぶつぶつとまだ何かを言っている。
「自分勝手で……我が儘で……俺様で口が悪くて粘着質で強引だから、オ
ケの人にも嫌われて恐れられて……でもそれ以上に皆から愛されてて……」
「………」
「のだめのピアノを下手くそ
だって無茶苦茶けなすくせに……それでも見捨てないで一生懸命いつもいつも教えてくれて………」
「………」
「……
いつも上へ上へ引っ張り上げてくれた……」
「………」
「……もうピアノをやめてしまおうと思ったのだめを……わ
ざわざ九州まで迎えに来てくれた……」
のだめの目からぽろっと涙が落ちた。
「ー
あれ?」
自分でも泣いたのが信じられないように指先で目を拭って首を傾げる。
それから何度
も目をしぱたかせる。
しばらく黙ったまま考えていたが…。
「あの」
何
かが溢れ出すようにのだめは言葉を紡いだ。
「……菊池くん」
「うん」
「行っ
てきても……いいデスか?」
菊池はこれ以上にないくらい優しい瞳でのだめのことを見て笑った。
「い
いよ。行っておいで」
それでもまだためらうそぶりをするのだめに苦笑して、菊池は笹原の肩をポンっと叩いた。
「大
丈夫、大丈夫。僕の世話はーほら、笹原さんがしてくれるから。ね、笹原さん」
「え、あ、はい」
急
に話を振られた笹原は、何が何だかわからないまま頷く。
「おまかせください」
の
だめはそんな二人をみてとびっきりの笑顔になった。
「じゃあ……すみません、お願いしマス」
そ
ういうと手早く荷物をまとめ、病室のドアを開けると一度も後ろを振り返ることなく出て行った。
バタバタバタと廊下を走っていく足音が
聞こえて……だんだんその音が小さくなり……やがて消えていった。
後
に残された男二人はしばらくの間無言のままだった。
やがて笹原が口を開く。
「行っちゃいま
したね」
菊池もたんたんと答える。
「うん」
「な
んだか……爽やかな風みたいな娘でしたね」
「うん」
菊池はゆっくりと微笑んだ。
「笹
原さん、これからの彼女のことちゃんと見ておいてくださいね」
「ーえ?」
「彼女は有名な一流のピアニストにな
り、その彼氏は音楽業界でその名を知らないものはいないほどの世界的な名指揮者になるんだから」
「………」
「ま
あ、その前に魅惑のチェリスト菊池亨が世界に名を轟かすのが先ですけどね」
そう言って菊池はいたずらっぽくウィ
ンクしてみせる。
笹原はぷっと吹き出した。
そのまま二人で声を合わせてはははと笑う。
ーそ
の時、笹原のポケットから携帯の着信音が鳴りだした。
「あ……すみません……電源切っとくの忘れていて……いず
み?」
携帯電話の表示画面を見てびっくりしたように慌てて受話器を耳に当てる。
「あ、
うん………今?……今、ちょっと出てる………うん………うん………わかった………今からそっちに行くよ」
ピッと
電話を切った。
「いずみちゃんなんだって?」
菊池が問うと、笹原はど
んな表情をしたらいいのかわからないような、それでいて照れくさそうな複雑な表情をしていた。
「ーもう一度、
ちゃんと話し合おう……って……」
「よかったじゃないですか!」
「あ……ハイ」
「もう一
度、ゆっくりお互いに納得がいくまで話し合ってくださいね」
「菊池さん……」
「僕は性格的に、のだめちゃんみた
いに誰かのことを一生懸命追いかけることもできませんし、貴方のようになりふり構わず一途に誰かを愛することもできません。
だけ
ど……本当はそんな人達のことうらやましいなあ……そんな風になれたらなあ……とは思ってるんですよ。」
「………」
「さ
あ、どうぞ」
「………それでは、失礼します。また……改めて挨拶に来ます」
そういって笹原
は何度も頭を下げながら病室を出て行った。
菊池はそれを見送ると、深くため息をついてベッドにごろんと横たわった。
「………
ボクも頑張らないとなー。ま、その前にボストンでゆっくり怪我を治すか」
そう言って羽がついたように愛する男性
の元へ駆けていった一人の女の子のことを思い、目を閉じた。
続
く。