こ こは演奏会が行われる予定のiichiko音の泉ホールである。

明るいホワイトオークの内装を基調としたホール は、どの席からも鑑賞できる音響を重視したシューボックス型のコンサートホールだった。
客席数は車椅子6席を含めて710席。
一 部2階席と左右両サイドにバルコニー席を設け、舞台と客席の一体感を演出している。
残響時間は1.5秒から1.8秒まで可変でき、 オープンステージの舞台では室内楽や独奏などのクラシックコンサートを楽しめるとの名目だ。

リハーサル前ともな ると、舞台周辺は慌ただしかった。

運搬トラックから運ばれてきた大きな楽器が次々と搬入され、舞台監督の指示に より舞台がどんどん設置されていく。
千秋は調律が終わったばかりのピアノの前に座り、試しに弾いてみる。
周りの ざわざわした音が一気に聞こえなくなり、千秋はピアノの音とステージから客席に伝わっていくその響きのみに集中する。
ポーンと弾むよ うな音色が高い天井で反射・拡散され、ホール固有の響きを活かして残響が付加される。
「音の泉」というくらいだから響きはさすがによ いな…と千秋は思う。
本来なら、R☆Sオケ全員でリハーサルを行い各自楽器を調整するべきではあるのだが、どうしてもその時間がとれ ないので学生達のリハーサルが始まる前に
15分だけ時間をもらい千秋だけが会場の確認に来たのだ。
会場によって 音の響きは全然違う。
特にピアノのクセというのはすごく出る。
…この会場の、この音の響きなら…あそこはやっぱ りああいう風に演奏すべきだろう。
指揮者である千秋は、会場の音の響きを聞いた瞬間から頭の中がめまぐるしく回転する。
ど うやったらこのホール全体を音楽に溶け込ませ、観客と至福の時を共有することができるかということしか今の彼の頭にはなかった。




リ ハーサルにやってきた学生達の間では一つの噂が流れつつあった。
東京で今もっとも注目されているあのR☆Sオーケストラが本日の演奏 会のサプライズゲストとして呼ばれるというものだった。
R☆Sオーケストラ。
ほとんどがコンクールでの入賞経験 のある才能溢れた若い演奏者ばかりで構成されたオーケストラ。
その実力は今や国内でも高く評価され、アマチュアオーケストラとしては 考えられないほどのクラシックファンの注目を集めていた。
それは、このオーケストラの若き天才指揮者、千秋真一の人気によるところも 大きいだろう。
今まで全くの無名であった彼は突如新星のように現れ、クラシックライフなどの雑誌で紹介されるようになると瞬く間にそ の才能を認められ有名になった。
その彼がヴァイオリニストの三木清良とともに才能ある学生を募って立ち上げたというこのオーケスト ラ。
まさか…こんな田舎に来るなんて…と誰もが疑心暗鬼だったがそれでももしかしたら…という期待は隠せなかった。

「ね えねえ、聞いた?R☆Sオケの話!」
「聞いたよ〜。あれどう考えても嘘でしょう。そんな訳ないって〜」
「だって リハ前にスタッフの人が千秋真一を見たって言ってたよ」
「うそ!」
「えーーっっ!!」
「千 秋様!?」
「ちょっとそれ本当なの?」
「ピアノを弾いて音響確かめてたって!」
「うっそ 〜!。なんだってこんな田舎に?しかも当日になっていきなり!!」
「他の人は?」
「それは知らないけど…」
「新 しいコンマスの高橋くん来てるのかなあ…あの人けっこうジャニーズ系でいけてるのよね〜」
「生菊池くん、会いたい〜!!。どうしよ う、握手とかしてくれないかなあ」
「やっぱり孤高のオーボエ!!黒木くんよっっ!!」
「本物の真澄ちゃんに会え るのね……ああ……あのもじゃもじゃ頭に顔を埋めたい……」
「……あんたの趣味って変じゃない……?」

噂 が噂を呼び、いつの間にか会場内は例年になく満員となり異様な熱気に包まれていた。






「お おっ!このとり天っておいしいよなあっ!!」

本番前。
他の学生達にわからないようにそっと 裏の入り口から入り、とある楽屋の一室を与えられたR☆Sメンバー達。
差し入れとして届けられたとり天弁当を食べながら峰が唸った。

「と り天…って初めて食べるけど、鳥の唐揚げとは違うの?」

首を傾げる舞子に、ガイドブックを読んで大分のグルメに ついて知識を集めた黒木が言った。

「大分県の郷土料理で、一口大に切った鶏胸肉に下味をつけててんぷら衣を着け て揚げたものだよ。
 こちらではすごくポピュラーなんだって」
「へ〜。さすが泰則さんね!でも本当にこれ酢醤油 で食べるとすごくあっさりしてておいしい〜」

そう言ったのは萌。どうやらこの旅行中にその呼び方は定着してし まったようだ。

「みんな……本番前だっていうのに、よくそんなボリュームあるもの食べれるよね……」

緊 張のせいなのか青ざめた顔で弱々しく呟くのは大河内。
先ほどから何も口にしていない。

「だっ て腹が減っては戦はできないっていうじゃない」
「大河内くんもしっかり食べとかないと、いい演奏できないわよ」
「そ うよ。いつかみたいにかちんこちんになって指揮棒がうまく振れないわよ〜」

くすくすとからかう萌と薫、舞子。
定 期公演での大失態を思い出したのか、大河内は頭を押さえて呻く。

「うっぎゃあ〜〜!!や、やめてくれ〜!!ボ カァ本当は完璧主義者なんだっっ!!あの時はたまたまシュトレーゼマンの代役が急に回ってきて動揺して……」
「まあまあ落ち着いて よ」

どうどうとなだめる3人。

「かぼすドリンク飲む?」
「か ぼすカステラ食べる?」
「かぼすゴーフレットもあるわよ」
「かぼすパイとか」
「……なん で、こんなにかぼすづくしなのよ……」

真澄が少しうんざりしたような顔で言う。
昨日からか ぼす責めにあっていて少し食傷気味なのだ。

「さっき学長さんが弁当と一緒に差し入れに持ってきてくれたのよ」
「か ぼすは大分県の特産品なんだって」
「あの学長さん……かなり地元をアピールしてるわよね」
「あ、サラダにどう ぞってかぼすマヨネーズとかぼすドレッシングももらったけど…真澄ちゃん、使う?」
「いらないわよ!!」




「清 良!かぼす饅頭食うか?」

峰が口に饅頭をくわえたまま箱を清良に差し出すが、清良はいまだ楽譜を前にぶつぶつと 独り言を言っている。

「ま〜だ、楽譜とにらめっこしてるのか」
「うるさいわね!ちょっと 黙っててくれない?」

キッと睨み付ける清良に峰は軽く肩をすくめる。

「こ こまで来たら後はなるようになるって!はっはっは!」
「そんな簡単に……」
「お前って、そんなに本番前にキリキ リするタイプだっけ?。いつもR☆Sオケのコンサート前はすごくリラックスしてるじゃん」
「……今回は特別よ」
「何 が」
「何が……って……(ボソッ)……だから」
「は?ごめん、聞こえねえ」
「だから!龍と 二人で演奏するってのは初めてだからドキドキしてるのっ!!」

清良は顔を真っ赤にして怒鳴る。
峰 はポカンとして清良を見返した。

「いっつも二人で練習してるけど……人前で披露っていうのは初めてのことだ し……私がうまくリードしなきゃ、とか……龍に恥、かかせちゃったらどうしよう……とか
 いろいろなことかんがえちゃって……」

あ あ、そういうことか。
峰は納得するとあーと天井を見上げ頭をぽりぽりと掻く。
千秋と同様にR☆Sオケの看板であ る清良に比べ、自分はたんなる楽員の一人で全くの無名に過ぎない。
こう見えて案外男を立てるタイプの清良は、余計ないろんなことを心 配してるんだろうなって峰は思った。
そして先ほどまでの息が合ったとはいえない二人の練習風景を思い出した。

二 人が演奏する曲では一人が弾いてる間に、もう一人が伴奏を弾くことになっていた。
峰が伴奏を担当する部分では、彼が大きく弾きすぎて 清良の主旋律を食ってしまう。

「どうして伴奏の方が音が大きいのよー!!」
「えええ!? だって盛り上がり……」
「バランスを考えなさいよ!!……ったく」

かと思えば清良の伴奏部 分で逆に峰は文句を言う。

「清良!なんで其処はそんなに小さいんだ!!」
「え、だって私伴 奏でしょ?」
「其処は盛り上がるんだよ!俺もっと大きく弾くから!!」
「って、これは祭りの曲かーー!!」

結 局、最後までなんだかんだと意見が合わず揉めていて千秋を呆れさせていた。
清良が心配しているのはそういうところなんだろうと思う。
峰 はぽんっと清良の肩に手を置いた。

「清良。大丈夫だって」
「でも……」
「ま あ、いろいろと不安要素はあるが後はその場のノリだ。雰囲気に合わせて一気に突っ走ろうぜ!!」
「ノリって……あのねえ」
「千 秋がどういうつもりで俺と清良を演奏させる気になったのかはわかんねえけどさ、……俺はすっげえ嬉しいよ」
「………」
「清 良と二人だけでステージの上で音を奏でられるなんて…胸がわくわくする。
 自分が失敗したらどうしようとか、清良に合わせられなくて 足を引っ張ったらどうしようとか、そんなこと全然考えてねえよ。
 ただ純粋に……清良との演奏を楽しみたいって思ってる」
「龍……」
「俺 を信じろよ」

そういって峰は笑った。




「み んな、いいか」

千秋が楽屋のドアから顔を出した。
皆の注目が一斉に集まる。
先 ほどのリラックスしたムードとは一転して緊迫した雰囲気が漂った。

「そろそろスタンバイだ。行くぞ」
「お おっ!。千秋!。大分の人間にR☆Sオケここにありきってところを見せてやろうぜ!!」

片手をあげてガッツポー ズをする峰に千秋はふっと笑った。

「さあ、た…」
「楽しい音楽の時間だ、みんな!!」

大 河内が千秋の台詞をぶんどった。
ぽかんと口を開け唖然とする皆に、ふふふと大河内は笑う。

「一 度言ってみたかったんだ〜。この台詞」
「………」
「………」

ボカッ! ドカッ!ガスッ!!

峰、高橋、真澄、舞子、萌、薫から袋だたきにあう大河内。

「み、 みんな〜!何するんだよ!!」
「お前からそれ言われると、すっげー腹立つ!!」
「千秋様の名台詞をあんたが言う なんて100万年早いのよっっ!!」
「くっそ〜本番前にこんなにフラストレーションためやがって……」
「く、黒 木。黒木〜。お願いだ、何か言ってくれ〜」

殴られながら黒木に手を伸ばして助けを求める大河内。
だ が黒木も冷たい視線で言う。

「ごめん。僕も今一瞬イラッときた」
「く、黒木〜」






大 分県立芸術文化短期大学の音楽科卒業演奏会は、音楽科の学生が2年間の学習の成果を披露する場だった。
声楽科、ピアノ科と演奏が進ん で行く。
ピアノ科の生徒の最後の演奏が終わり、プログラム通りにいけば次は休憩を挟む筈だった。
だがいつまで たっても照明がつく気配を見せず、会場は暗いままであった。
観客達が異変を感じてざわざわとざわめきだした時、突然アナウンスが流れ た。

「ここでプログラムを一部変更して、ゲストをお呼びしたいと思います」

そ の言葉に波を打ったように静まりかえる客席。

「皆様ご存じの東京で活躍中のR☆Sオーケストラの精鋭メンバー が、今日は私達の演奏会のためにわざわざ駆けつけてくれました」

キャーッと女子学生達の悲鳴が上がる。

「な んで?」「どうして?」

と信じられないというような浮き立った声があちこちで聞かれる。
一 気に色めき立つ会場内。
誰もかれもが興奮しきっていてそのざわめきは収まることはなく、やがて幕がするすると上がるとその勢いは一層 強まった。
ステージに置かれていたのは、ピアノとティンパニーなどの楽器、椅子と譜面台。
中央には指揮台が。
そ の時舞台袖からヴァイオリンを持った一組の男女が現れた。
峰と清良である。
そしてその後ろからはもじゃもじゃと した頭をゆさゆさ揺らしながら真澄がタンバリンを持って現れた。
わあっと歓声があがり、拍手が客席から湧き起こる。

「三 木清良だ!!」
「すっご〜い綺麗!、本物見ちゃった!!」
「もう一人のヴァイオリンのやたら派手な金髪の人誰 だっけ?」
「あ、いたよいたいた!R☆Sオケで第2ヴァイオリン弾いてた人!。格好が目立つからすぐわかったよ!」
「あ 〜、真澄ちゃんだ!」

峰と清良は舞台中央にすっと並ぶ。
真澄は少し離れた後ろに控えるよう に。
よりいっそう大きくなる拍手に答えるかのようにそろって一礼をする。
それから清良と峰はお互いに顔を見合わ せ、こくんと顎を下げて頷くと演奏を始めた。






サ ラサーテの「カルメン幻想曲」

あまりにも有名なビゼー作曲の歌劇「カルメン」の名旋律をもとに、スペインの作曲 家サラサーテが編曲したヴァイオリン協奏曲。
サラサーテの作風からは、彼の受け継いでいるスペインとフランスの伝統に加え、ロマ(い わゆるジプシー)的とも言える遊動、悲哀、衝動、情熱、即興の要素がうかがえる。
ヴァイオリン技術を駆使したこの曲はR☆Sオーケス トラのニューイヤーコンサートで清良が独奏して成功を収めた曲だった。

曲構成は、第4幕への前奏曲 Introduction(アラゴネーズ)から始まり、ハバネラ、カルメンの鼻歌(レチタディーヴォ)、セギディーリャ、ジプシー、の五つの場面からなっ ている。



「Introduction(アラゴネーズ)」



冒 頭は峰と清良の二重奏から始まった。

一度聞いたら忘れられない誰もが知っている旋律。

そ の差し迫った迫力に観客は思わず息をのみ、椅子の肘掛けの部分をぐっと握りしめる。
一番カルメンで有名なメロディを存分に聴かせ、独 特な曲調が聞く者をここではない異国の世界へとのっけから引きずり込んだ。

真澄の叩くタンバリンの音が全体を引 き締める。


途中から……清良がソロを、伴奏を峰が担当する。

高 音部からの切ない泣くような部分は清良の得意な部分だ。
高音部の艶やかなメロディ、低音からのじんわりとしたメロディ。

そ の華やかな技巧と魔力的な音色は会場内にいる全ての聴衆を魅了した。

うっとりとする聴衆を前に清良のヴァイオリ ンもまた艶やかさを増す。


激しく恋に燃えるが心変わりしやすく、男にとっては危険な女性を 描いた「カルメン」。
怪しい背景を持つこの曲を清良は見事に演奏していた。


こ の曲が終わると同時に真澄はそっと退場した。




「ハ バネラ」


ここからは独特なリズムが始まり、旋律が峰に移る。

峰 は危なげない弓づかいで、なんなく主旋律をこなしていた。
フラメンコのようにまるでカスタネットの音が聞こえてきそうな雰囲気で終始 弾く。

清良は伴奏で、一歩下がった奥の方で独特な伴奏リズムを奏でていた。


そ して、合わせる部分は二人で目配せして、一瞬合わせる。
その阿吽のような呼吸は何日も何日もかけて練習したと思われるほど息があって いた。。


ここまで来るのにどれほど苦労したか……。


清 良は少し苦笑いをする。

練習中には少しロック調に弾きすぎて
「ピリリと辛い、燃え上がるよ うな、ハバネラー!」
と叫んだ峰が、
「其れはハバネロでしょーー!」
と清良に怒鳴られる一 幕もあった。
(本当はハバネラとは、キューバに起こり後にスペインで流行したタンゴに似たリズムを持つ穏やかな舞曲のこと)

リ ズムが崩れないように左手に気を遣いながら、最後まで弾ききる。






「カ ルメンの鼻歌(レチタディーヴォ)」


切なく歌う箇所であるここは清良の出番だった。

…… 悩ましげで、其れで居て華やかな、女性らしい部分が際だつ。
後ろの管の部分の伴奏は、峰が重音で合わせる。


カ ルメンの心情を思わせる、どこかもの悲しいメロディ。


カルメンという名はスペインではごく ありふれた女性名であるが、この歌劇により世界中に知られるようになった。
気まぐれで情熱的な女性の代名詞である「カルメン」。
凛 とした強さを持ち、いつでも自分に正直に生きることを選んで来た女性。
その奔放さが時に悲劇を呼ぶこともある。


伝 説の女性はこの時何を思うのであろうか。





「セ ギディーリャ」

本来ならフルートが響いて始まるこの曲を清良が、レチタディーヴォからの続きで切なく弾く。


こ こで清良は峰の変化に気がついた。

練習の時よりも……かなり……激しい。

そっ とその表情を見やると、完全にいってしまってるのがわかる。

あまりの演奏の気持ちよさに、ここが演奏会であるこ とも忘れて、自分の世界に入り込み完全に陶酔しきってる。
とてもスリリングに、かつエキセントリックに。
動きも だんだん激しくおおげさになってきた。

はあ……やっぱり……と清良はわからないようにため息をついた。

そ れからくすっと笑う。

らしいな、と思う。

観客の視線がだんだん清良よ りも、峰に集中してくるのがわかる。

いまや演奏の主導権は清良から峰へ移っていた。
本来な らリードする筈の清良が峰に引っ張られている形となっている。


面白い…と清良は思った。

や はり彼は「魅せる」ということを本能的に知っている。

癖は強いけれど、どんな演奏者も負けないくらいの力強いソ ウル溢れる音楽を奏でる。
普段は第2ヴァイオリンという位置に甘んじている彼がこの時ばかりは清良という最高のパートナーを得て羽ば たいている。

その無茶苦茶な癖に一番合わせられるのは、他の誰でもなく世界中で清良ただ一人だという自負があ る。

もし。

もし、彼が自分の思うままにヴァイオリンが弾けるような舞 台があれば、世間の彼に対する評価はどのように変わるのだろう…。


龍……?。


清 良は演奏しながら心の中で峰に語りかけた。


あなたは自分で下手だ下手だって思ってるけど、 実際はそんなことはないわ。

今ここで演奏を聴いている人達だって最初は知名度の高い私に注目していたけれども、 だんだんあなたに視線が釘付けになっていく。

シュトレーゼマンも千秋くんもあなたのことは認めている。
だ からこそSオケのコンマスに抜擢して、R☆Sオケのメンバー加入を認めた。

確かにあなたは世界にすんなり浸透し ていくような「正統派ヴァイオリニスト」ではないのかもしれない。

あまりにも癖が強すぎて。
他 の誰も真似できない物。

異端。

でも異端というのは、言い換えれば其れ は諸刃の剣で、武器なのよ。

だからあなたが目指すのは「個性派ヴァイオリニスト」。

で もそれは……これから先、あなたが自分をどうもっていくか、にかかってるのよ。

先のことは全くわからないけれど も……それはあなたが自分で気づいていくしかないのだけれど……。


ああ、でもそんなことは 今はどうだっていい。


だって。


今、 こんなに私達は「音楽」を通じてつながっている。


峰が清良を見た。

意 味深な表情でニヤリと笑い、ヴァイオリンの曲調を変えた。
ほんの少し軽めに、まるで清良にベッドで……愛をささやくように。
元 々が情熱のスペイン舞曲であるその曲に峰が何かしらの思いを乗せているのは明白だ。

弾きながら、清良は真っ赤に なった…。




「ジプシー」


ヴァ イオリンの技巧がこれでもかこれでもかと登場し完璧に弾くのは至難の技という曲でもあるこの曲。

此処は、二人で 共に。
追いかけるように、旋律を取り合うように、素早いフレーズを弾きあっていく。
息を継ぐ暇もない。

編 曲段階で丹念に打ち合わせされたその通りに片一方が旋律を弾く間、片一方は伴奏を弾く。
アイコンタクトを行いながら、初めて二人で演 奏するとは思えないくらいに息があっていた。

清良は、華やかで軽やかな深紅の薔薇のようなジプシーを。
峰 は、情熱的で熱い火の様なジプシーを。
それぞれに歌い上げていく。

恐ろしく息のあった華や かな演奏に二人の関係を知らない会場内の観客達をも真っ赤に染め上がっていく。
キャーっとどこかで女性の声がする。
そ の目はステージに釘付けになったまま逸らすこともできない。
華やかで情熱的な舞台上の恋人達に視線は注がれたままだ。

最 後は二人で……さっそうと弾き終える。

清良は息をきらせながら峰の方を見た。
峰はしししと 清良に笑ってみせた。


雷に打たれたかのように衝撃を受けたまま人々は動くことすらできな い。
静寂が会場内を包み込む。
次の瞬間にはいっせいに拍手が湧き起こった。
まるで永遠に続 くかのような拍手だった。





続 く。




サラサーテの「カルメン幻想曲」


こ の協奏曲の元になった「カルメン」(Carmen)は、ジョルジュ・ビゼーの作曲した全4幕構成のフランス語によるオペラである。

第1 幕
セビリアの煙草工場でジプシーの女工カルメンは喧嘩騒ぎを起こし牢に送られることになった。
しかし護送を命じ られた伍長ドン・ホセは、カルメンに誘惑されて彼女を逃がす。
第2幕
パスティアの酒場で落ち合おうといい残して カルメンは去る。
カルメンの色香に迷ったドン・ホセは、婚約者ミカエラを振り切ってカルメンと会うが、上司との諍いのため密輸をする ジプシーの群れに身を投じる。
しかし、そのときすでにカルメンの心は闘牛士エスカミーリョに移っていた。
第3幕
冒 頭で、ジプシーの女たちがカードで占いをする。
カルメンが占いをすると、不吉な占いが出て結末を暗示する。
密輸 の見張りをするドン・ホセを婚約者ミカエラが説得しに来る。
思い直すように勧めるミカエラを無視するドン・ホセに、ミカエラは切ない 気持ちを一人独白する。
カルメンの心を繋ぎとめようとするドン・ホセだが、カルメンの心は完全に離れていた。
第4 幕
闘牛場の前にエスカミーリョとその恋人になっているカルメンが現れる。
エスカミーリョが闘牛場に入った後、1 人でいるカルメンの前にドン・ホセが現れ、復縁を迫る。
復縁しなければ殺すと脅すドン・ホセに対して、カルメンはそれならば殺すがい いと言い放ち、逆上したドン・ホセがカルメンを刺し殺す。



カルメンは 悪女である。

純粋なホセを誘惑し、犯罪に手を染めさせ、引きずり回して破滅させる。
これで 恨みを買わないわけはなく、結局 最後には殺されてしまう。
カルメンにさえ会わなければ、ホセは安定した老後を迎えられた筈である。

し かし何も起きない退屈な人生と、短くても情熱がほとばしる波瀾万丈の人生のどちらが良いのかというのがこの作品を通して度々問われるのだ。