の だめはホールの入り口を開けて中へ素早く滑り込む。


会場内は割れんばかりの拍手と興奮の渦 に巻き込まれていた。
あまりの熱気にのだめはしばし呆然としつつも前方に目をやる。
舞台上にはよく知った顔ぶれ であるR☆Sメンバーがこちらに向かい深々と頭を下げているところだった。
そして満場の拍手に包み込まれるようにして彼らはそれぞれ 楽器を抱えて舞台袖へ戻っていく。

それを見た瞬間、のだめの顔がさっと青くなる。

ー 間に合わなかったのだろうか。

もう、彼らの演奏は終わってしまったのだろうか。

そ う思ったのもつかの間。
たった今皆が消えていった舞台袖から現れたのは……千秋真一その人。
千秋は確固たる足取 りで中央のピアノまで進む。
そしてその前にたどり着くと客席に向かってお辞儀をした。
彼の再登場にまた活気づく 場内。

のだめはほっと胸を撫で下ろす。

どうやらまだ終わりではないら しい。

それでも他のメンバーは出てくる気配はない。
……千秋のピアノ独奏なのだろうか?。

千 秋はピアノの前に座ると鳴りやんだ拍手の後の会場の沈黙を味わうかのようにしばらくの間動かなかった。
そしてすうっと手を上げ…その ままピアノの鍵盤に向かってその手を下ろした。





序 奏もなくいきなり始まる決然とした鮮烈な出だしにのだめは目をみはる。

それはショパンのピアノソナタ第3番だっ た。






Sonata No.3 in B minor, Op.58
By F.Chopin

1844年(34歳 この5年後に死去)作曲、翌年に出版。

ショパンの後期の名作であり最愛の恋人であるジョルジュ・サンドとの情熱 的な恋まっただ中で作られた円熟期の傑作。
ショパンの特徴である抒情的かつ劇的な曲調と、古典的な構成美を併せ持つ。
彼 の最高傑作の1つとして挙げられる大作であり、ロマン派最高のピアノソナタと言われるに相応しい作品。

第1楽 章、全体に幻想性を漂わせつつもしっかりした構築美を見せる楽章。
第2楽章、諧謔的な楽章。スケルツォ。
第3楽 章、綺麗な緩徐楽章。 天上の音楽の様な幽玄な美しさ。
第4楽章、劇的な主題のロンド、フィナーレ。生命力に溢れた、高揚を覚える。


今 回この演奏会で千秋が弾こうとしているのはその第1楽章だった。







第1 楽章「Allegro maestoso」


快速で威厳に満ちた演奏(アレグロ・マエストー ソ)を求められるこの曲の第1楽章はソナタ形式で書かれている。
ソナタ形式というのは基本的には序奏・提示部・展開部・再現部・結尾 部(Coda)という楽曲の形式のことだ。

この第1楽章は全体に幻想性を漂わせつつもしっかりした構築美を 見せ極めて優美な主題の素材が溢れるように次々と登場し、
ショパンの作曲家としての巨大な資質がうかがえる楽章でもある。

提 示部では、二つの主題が提示される
男性的で堂々とした第1主題、それとは対照的に優美な第2主題。

第 1楽章の最初は、迷い、とまどいを思わせるような第1主題から始まる。

主題がソナタ形式に相応しくないとも言わ れるくらい、個性的な主題である。
しかし、序奏もなくいきなり畳みかけるこの第1主題に最大の特徴があるとも言われる。
構 成が複雑なので最初の提示をはっきりさせているのだ。

一旦曲が走り出せば、最初の取っ付きにくさ等、何の障害に もならない。

第1主題終了後、突如として始まる、長い長い繋ぎの部分。
明示されないフレー ズ、つかみ所のないメロディ。
なのに、何処か流れるのは、何かしらの意志に基づいた、確固たる音楽。



そ して、始まる第2主題。

優美で流れるような優しさ。

思う存分、カン タービレ。

微笑みを誘うような、涙を誘うような、ショパン独特の美しい情緒的なメロディ。
明 るく楽しく、春風すら思わせる部分。




千秋は最後 の安定部であるニ長調の終結部に入った。
左手から右手に受け渡す形をとるニ長調の旋律の美しさを表現しながらこの曲について考えてい た。



ショパンは生涯でピアノソナタを3曲書いた。

し かしショパンにとって、ピアノソナタという構成上の束縛は非常に耐えがたい苦痛だったようだ、
少年時代に作曲した第1番はその厳格な 形式に捕らわれすぎたのか楽想そのものが閃きに乏しく習作の域を出ていないため演奏される機会はほとんどない。
それに比べて独創性を 大切にして自由な構成で書かれたピアノソナタ第2番、そしてこの第3番は彼の創作史上でも稀に見る傑作と言ってよく
現在の多くのピア ニストの主要なレパートリーとなっていて圧倒的な人気を誇っている。


本来ならばのだめ に……と思っていた曲。


あいつだったらどのように演奏しただろうか。
こ の曲をどんな風に表現したのだろうか。


きっとあの大きな手が自由自在に鍵盤の上を跳ね回 り、この会場に来ている観客の全てを惹きつけ魅了したに違いない。
楽しそうに。
心の底から弾むように。
心 を飛ばせ口を尖らせたその表情までもが浮かんでくるようだ。


そして今、のだめの代わりに千 秋はピアノの前に座っている。


4楽章にもわたる大作の中で、この第1楽章だけを千秋が敢え て選んだのはもちろん時間上の都合もあってのことだった。
(全楽章を弾く時間はもちろんない)。
ただ……それ以 上に……何故か千秋はこの曲に触れてみたいという衝動にかられていた。


ショパンにとって人 生観を変えたジョルジュ・サンドとの恋。

根幹にあるのはジョルジュ・サンドの方の情熱。
初 めて会った時からショパンに魅せられてしまったジョルジュ・サンド。
それに比べて男装のサンドに好印象を持っていなかったショパンで あったが、その情熱に引っ張られるようにして徐々に偏見が共感に変わっていきいつの間にか彼女に惹かれていった。
そしてもともと華麗 であったショパンの曲調はよりいっそう円熟さを増していく。

お互いの才能を認め合っていた二人の天才。


そ してその二人の関係は、自分とのだめの関係に似てないであろうか?。


あの最悪な出会いの強 烈さ。
ごみための中で美しく響くピアノソナタ。

気ままに気まぐれに、歌うようなその調べは 今までに聞いたことがないようなものだった。

それなのにこの女ときたら。
部屋の掃除はしな い。
風呂には入らない。
お金に関してもずぼらですぐに水道ガス電気が止められる。

な んて最低最悪な奴だと思った。
こんな変態女につきまとわれる自分はなんて運が悪いのだろうかと。

そ れでも何故か突き放せなかった。
お腹が空いたと言えば食事をやり、ガスが止められたと言えば風呂を貸してやる。
そ れまでの自分からは考えられないようなボランティアのような謎の行動の数々。
まとわりつく彼女の存在をうざったく思いながらも、その 才能に惹かれ続けている自分がいた。


こいつには絶対に特別な何かがあると思った。

宝 石の原石のような何か。

周囲の人間は誰も気づいてなくて自分だけがその存在に気づいている。

そ う考えると無性にわくわくした。
誰も知らない自分だけの宝物を見つけたような気分になった。
そしてこの原石を磨 き上げ、その才能を開花させることが自分に与えられた使命であるような感覚に捕らわれた。

常に手元に置いて世話 を焼き、その才能の進化を一番近くで見守り、常に前を歩いて彼女の歩くべき道筋を作ってきたはずだった。


で も。

本当はどうだったのだろうか。


……守られて いたのはどちらだったのだろうか。



海外に行けなければ何事も成し得な いと思っていた自分。

溢れんばかりの才能があると自負しているのにただ夢に向かってひたすらに努力してきたの に、それが発揮出来ずにこの地で埋もれていくそのことばかりを悲しんで。
自分より才能のない奴らが次々と留学していくことを羨んで、 この場所で満足している上昇志向のない周りを見下して。

誰にも心を開かずにずっと自分の殻に閉じこもっていた。
そ していつしか音楽への情熱も失いかけていた。


そんな自分を引っ張り上げてくれたのは……の だめ、その人ではなかったのではないだろうか。

あの出会いが無ければ自分はこの場所にはいなかった。

彼 女の自由な音に出会い、その心の底から音楽を楽しむ姿勢に触れることで、一番大切なことに気づかされた。

他人の 世界を羨んでいるばかりでは何も前に進めない。
自分の世界は自分自身で開かなければいけない。
そのためには今、 自分にできることを精一杯にやっていくしかない。


自分にはここでもっとやれることがある。


ー そう思わせてくれたのは彼女だ。

今ならそうはっきりと言える。

のだめ は千秋の荒みきった心を癒し、本来あるべき方向へと優しく導いてくれた。

悩み疲れ切った若き才能溢れるショパン を、母のような愛情で包み込み癒し続けたサンドのように。

彼女と出会わなければ今の自分はありえなかった。






ま た現れる繋ぎの如何ともしがたい展開部が現れる。

何とも言えない、つかみ所のない、理解しがたい、まるで風の様 な音楽。
まるで、突如優しく微笑まれるような感覚にすら陥る。時にほほえましく見守るような、そんな感覚。





『こ れから君はのだめちゃんをどうするつもりなの?』

観覧車のゴンドラで菊池に言われた言葉が蘇る。



ー どうするかって?。


菊池……。


俺 はただあいつの音楽に触れていたいだけなんだよ。
ずっとそばにいてあいつが成長していく姿をこの目で見ていたいだけなんだ。


そ れだけでは……いけないのか?。


ずっと曖昧なままにしておこうという俺が狡いのか?。

心 の奥底に潜んでいる言葉にならないこの気持ちをはっきりさせなければならないのか?。



暖 かい光が降り注ぐキャンパスの中。
いつものように奇声を上げながらバタバタと近づく足音とともにふわっと絡みつく柔らかい腕。
俺 を見上げるその瞳は吸い込まれるように透きとおってて。
屈託がなく子供のように笑う無邪気なその笑顔はとても眩しくて。



ずっ とそんな日々が続けばいいと思った。



だけど俺達は進んでいかなければ ならない。

前へ前へ、ずっと前へ。
誰もが目指す音楽の世界の中心へ。

無 垢な彼女が外の世界へ羽ばたくきっかけを作ったのは俺だ。
だがその道のりは遙か遠くて長く険しい。
俺にとっても それは未知の領域であり、いつまでも共に歩いていけるとは限らない。

いつか菊池の言う通り彼女を傷つけてしまう 日が来るのかもしれない。



なあ……のだめ。



いっ そのこと口に出してしまえればいいんだろうか。


女性にしては大きな手。
透 き通るように白く長い指。

その華奢な身体には信じられないくらいの力が潜んでいて。
そこか ら生み出される多種多様な音楽。
混沌とした世界に鮮やかな彩りを与える、その力強く熱いエネルギーの全てを。

…… 俺は心の底から愛している。


そして。



…… 俺は。


……オレは。


……お 前のことを……。







の だめはいきなり崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

紅潮する頬を両手で押さえ込んだまま動けない。
心 臓が今にも破裂せんばかりに激しく波打っている。



……どうして。

ど うして……こんなに胸がドキドキするんだろう……?。



のだめが千秋の ピアノ演奏を聴くのはこれが初めてではない。
学園祭でのラフマニノフの演奏の時……あの時もかなりの衝撃を受けた。
全 身に雷が落ちたかのようにビリビリと身体が震えた。
あまりのショックにしばらくは食事も取れず、風呂にも入れず、ただピアノを弾き続 けるだけという蛍のような状態が続いた。


……でも、あの時の衝撃とはどこか違う。

ど こが違うんだろう。


ー先輩はただピアノを弾いているだけなのに。

演 奏者としてここにいる観客全員に聞かせるために演奏をしているだけなのに。



そ の音が……まるで一直線にのだめだけを目指してやって来て……胸の奥にパシンと矢のように突き刺さってしまったみたいに。


胸 が激しく痛む。


本当にどうかしてる。

こんなこと を思うなんて。



……愛の告白をされているみたいだ……なんて。





そ して再現部。

第1主題の冒頭は使わず、終結部から始まる第2主題。

異 なった調で演奏される部分は、当初の印象とは違って聞こえる。
変化を持たせるこの方法は、この曲が始まった時とはまったく違う印象に なる。

これは冗長を忌み嫌う円熟期のショパンに良くある手法だった。

ク リスタルのように磨き抜かれた音が会場の中を駆け抜ける。
抒情的でかつ力強い響き。





そ して、短いけれどもどこか翳りを持ったコーダ(結尾部)。

あっさりとまとめてくる。
なの に、余韻が残るのは、始まりと最後の、恐らくは対比。

最後の和音が空気の中に溶けていき……やがて消えていっ た。





会場はその余韻にひた るようにしんと静まりかえる。
誰もその状態のまま縛られたように動けない。

やがて、一人の 人間が呪縛から溶けたように立ち上がり「ブラボー!!」と叫ぶ。
次の瞬間、湧き起こる拍手の渦と歓喜の声。
観客 は総立ちになっていた。
その惜しみない拍手に答えるように千秋はゆっくりと立ち上がると観客に向かって一礼した。

の だめもそれを見てふらふらしながらも立ち上がって舞台上を見つめた。

深くお辞儀をした千秋が顔を上げて場内を見 渡すその一瞬……。
千秋の動きがかすかに止まった。

その瞬間のだめの心臓が激しくドキっと 波打つ。

千秋と視線がぶつかったような気がしたのだ。

……そんな筈は ない。

だってここは会場の中でも一番後ろなのだ。
まさか、そんな、舞台上からこんな所にい る自分に気がつく訳はない。

のだめの思惑を裏打ちするかのように、千秋は何事もなかったかのようにそのまま舞台 袖の方へ退出した。
彼を呼び戻そうとする拍手の波は鳴りやむことがなかった。





「よ、 親友!!お疲れ様〜っ!!」

満面の笑みを浮かべた峰がタオルを持って千秋に近づいた。
千秋 はタオルを受け取って顔に当てる。

「すっげ〜拍手だな!!。こりゃアンコールに答えないと収まりつかないと思う ぜ!!……って、千秋、どうした?」

どこか遠くを見つめて考え深げな表情の千秋を峰は不審に思った。

「…… 峰」
「ほい」
「……のだめが来てる」

峰はぱちくりと目を開けた。

「…… へ?のだめ来たの?……どこに?」
「一番後ろの右の入り口のところだ」
「一番後ろって……千秋、お前、あんな後 ろまで目が届く訳〜っっ!?。ー嘘だろ?いったいどんな目をしてるんだよっ!!」

峰の驚きをよそに千秋はしばら くの間、何かを考え込んでいた。

「ー千秋?」
「……アンコールだ。行こう、峰」

千 秋はそういうと舞台の方に向き直った。








続 く。