い
よいよ……俺の出番だ……。
大河内は舞台袖から興奮する客席を覗きながら、強ばった表情を浮かべていた。
手
の指先と足の膝がぶるぶると震える。
先ほどピッコロ奏者として舞台に上がった時とは比べ物にならないくらい緊張していた。
な
んといっても今度は指揮者として壇上に上がるのだ。
なんともいえない壮絶な顔をしている大河内を見かねて峰が声をかける。
「お
い…。大河内、大丈夫か?すっげー顔が真っ青だぞ」
「だ、だ、だ、大丈夫だよ。し、し、し、心配すんな」
「いや
あ心配するなって言われても……」
大河内が緊張するのはわかる。
会場
は「アンコール!!」「アンコール!!」と異様な盛り上がりを見せていたが、その中に「千秋!」「千秋!」と千秋コールも混じっているのに峰は気づいてい
た。
「ペルシャの市場にて」での余すところなく彼の才能を見せつけるような弾き振り。
そして先ほどの「ショパン
ピアノソナタ第3番」の心響かせる演奏を終えて、彼はこの会場にいる全ての観客の心を鷲掴みにしてしまったようだ。
アンコールでもう
一度千秋の指揮が見たいと思っている客はかなりいるだろう。
そしてそれはそのまま大河内に対するプレッシャーとなっていた。
「い
いか、大河内。まず掌を出してだな、人・人・人と3回書いて飲めば……」
「う、うるさいなあ!!。峰!!集中できないじゃない
か!!」
ヒステリックに怒鳴りつけられて峰は軽く肩をすくめる。
「お
い、みんな出るぞ」
千秋の合図で演奏者がそれぞれ舞台袖から舞台上に上がった瞬間、わああっと歓声と拍手が上
がった。
まだだ。
まだ彼らの音楽を聴いていられるんだ。
嬉
しさと興奮で全ての観客の表情がキラキラと眩しげに輝いていた。
そしてメンバーが所定の位置につく。
その時、メ
ンバーと同時に出て行った千秋がピアノの前に座ったことで、一瞬会場にざわめきが起こった。
また弾き振りなのだろうか……観客はそん
な期待に胸を膨らませる。
すると。
舞
台袖から一人の男が出てきた。
どこか千秋に似たような服装でありながら、彼とは全然似ても似つかないその男。
いっ
たい何者なんだろうと観客達はそのタイミングで出てきた意外な登場人物を不思議そうに眺めた。
大河内は緊張のあまり右手と右足が一緒
に出ている。
ぎくしゃくとぎこちない歩き方で舞台を横切ろうとしたその瞬間……。
ずっ
てええええんっっ!!。
大きな音をたてて大河内は舞台の上でひっくり
返って転んだ。
一瞬沈黙する場内。
あ
まりの惨状にR☆Sメンバー全員が絶句した。
峰が絶望したように天を仰いだかと思えば、千秋は顔に手を当てて深くため息をついた。
大
河内自身はといえば予想せぬ出来事に真っ白く燃え尽きたようになっている。
ど
うなることかと誰もが思っていた瞬間ー。
静まりかえった沈黙の中、会
場の一番後ろにいたのだめがぷっと吹き出した。
そのままけらけらと笑い出す。
その笑い声を
聞いて振り返った観客達もつられたようにまた前方を見てくすくす笑う。
やがてその笑いは波になったかのように、後ろの席から前方へ押
し寄せてきてやがて全体を包み込んでいった。
会場は爆笑の渦となった。
最
初は呆然としていた舞台上のメンバーもやがてこらえきれずにくっくっくと笑い出した。
黒木はさすがに悪いと思ってるのか、顔を背けて
笑っている。
峰なんかは腹を押さえてひーひーっと笑い出した。
笑いながら千秋はピアノから
立ち上がり、転んだ姿勢のまま呆然としている大河内にすっと手を差し出した。
大河内は後ろにいるメンバー達の顔
を順々に眺めた。
誰も彼を責めるような表情ではなかった。
むしろみんなすごく楽しそうな顔
をして彼を見ている。
峰がぐっと大河内に向かって片手の親指を突き出す。
大河内は差し出された千秋の手をしばら
くの間じっと眺めていたが……次の瞬間、にっと照れくさそうに笑った。
千秋に引っ張り起こされて大河内が立ち上がると会場内から拍手
が上がる。
大河内は指揮台のそばまで来ると客席を向いて、えへんと咳払いを一つした。
そ
れを見て会場がまたどっと沸く。
大河内はどこかふっきれたような表情で、客席に向かって一礼すると指揮台に上が
り指揮棒を構えたー。
「く
るみ割り人形(The Nutcracker)」
1892年に、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲さ
れた3大バレエ音楽の一つ。
原作「くるみ割り人形とネズミの王様」に沿って作られたバレエ音楽(ないし、そのバレエそのもの)であ
る。
バレエ自体はオモチャと魔法の夢のファンタジーのお話で、その公演はクリスマスシーズンの定番となっている。
物
語は、とあるクリスマスイブ。
クララ(主人公の女の子)の家では、大きなクリスマスツリーを囲んでの盛大なパーティが開かれる。
ク
ララは親戚のおじさんから"くるみ割り人形"を貰って大喜び。
けれども悪戯好きな兄のフィリッツにその人形は壊されてしまう。
そ
してクリスマスはこれで終わりではなかった。
お客様も帰り、夜みんなが寝静まってからクララは人形のベッドに寝かせたくるみ割り人形
を見に来る。
ちょうど時計の針が12時を打った瞬間、突然クララの体は人形ほどの大きさになる。
そこに、はつか
ねずみの大群が押し寄せる。
怯える人形達を見て勇敢なくるみ割り人形はおもちゃの兵隊人形を指揮してねずみ達に立ち向かう。
最
後はくるみ割り人形とはつかねずみの王様の一騎打ち。
くるみ割り人形があわやというところで、クララがスリッパをはつかねずみの王様
に投げつけ、はつかねずみたちは退散する。
倒れたくるみ割り人形が起きあがってみると、美しい王子にに変身しクララをお菓子の国へと
誘った。
そして、夢のようなお菓子の国でクララは楽しく過ごした。
幻想的な雪の情景、色とりどりの衣裳をつけた
お菓子の精たちの踊り、そして凛々しい王子との踊り。
しかし、最後にクララは夢から覚め……親にこの事を話す、ところで終演する。
(も
う一つの解釈として、信じない親の目の前でクララは再び王子に連れられ、お菓子の国へと戻るというものもある)
そ
して、今回演奏するのは、このバレエで使われた音楽から抜粋したバレエ組曲である。
チャイコフスキーはバレエ「くるみ割り人形」から
8曲抜き出し、演奏会用組曲とした。
今回はこの中から「金平糖の精の踊り」と「ロシアの踊り」を選曲した。
「金
平糖の精の踊り」
お菓子の国でくるみ割り王子とクララを歓迎するパーティーで、金平糖の精が踊る音楽だ。
大
河内が指揮棒を振り下ろすとそれに従ってまずヴァイオリンが音を奏でた。
息のあったところを見せる高橋、峰、清良の3人集。
ヴァ
イオリンのピチカートのリズムにのって、フルートが旋律を取った。
舞子と萌はそれぞれ和音を分けて美しく柔らかい音色を響かせる。
千
秋は下のチェレスタのベースとなる部分とチェロないしコントラバスの部分をピアノで弾いている。
本来ならばこの
曲はチェレスタ協奏曲である(世界最初のチェレスタ協奏曲とも言われている)。
だからチェレスタのないこの少人数オーケストラでは、
同じ鍵盤楽器であるピアノの千秋が旋律を取るというのが普通であろう。
しかし、今回は敢えてそれをしなかった。
ア
ンコール曲だということもある。
これが最後だからちょっぴりくだけてみようと思ったのだ。
形式張った堅苦しい音
楽よりも、このR☆Sオケらしさ、いやもっと言えばSオケらしさの遊びの部分を全面に出すことにしたのだ。
聞い
てくれる会場の皆が楽しくなるように。
なによりも演奏している彼ら自身が楽しくなるように。
時
々出てくるホルンの音は……オーボエの黒木に一任だ。
クラリネットの薫は、フルートとクラリネットの部分をフォローするという形を
とっている。
その合いの手が面白い味を出していてとても印象的に響く。
この曲は本来なら
チェレスタがキラキラとした音をさせるのだが、今回はそれが無い。
チェレスタは20世紀になってから開発された新しい楽器で、ピアノ
に似た形をしていて弦の代わりに鋼の板をハンマーで打つ鍵盤楽器だ。
音色は鉄琴に似ているが、キラキラ輝くように澄んでいて可憐で美
しい音である。
チャイコフスキーは「くるみ割り人形」の中で最新の秘密兵器としてこの楽器を使ったと言われている。
そ
してチェレスタの代わりにそのちょっと不思議なファンタジーの音で雰囲気を出すのは。
今回の曲に限ってはパーカッションの役が無いか
らと真澄が演奏することになったトライアングルだった。
旋律のフルートに合わせて、鈴の音のようにチンチンと可愛らしく鳴らし、この
おとぎ話のイメージを彷彿とさせる。
途中の、チェレスタだけのソロ(カデンツァ)はフルートにさせるのはあまり
にも酷なので千秋のピアノが取って代わる。
真澄のトライアングルとともに魅力的な美しいメロディを奏でた。
そ
してその後、フルートに旋律を任せてそのまま曲は最後まで行く。
今回千秋がこんな一風変わった編曲にしたのは、
彼がいかにメンバーを信用しているかとういうことに他ならない。
本来ならば使わない楽器も敢えて使うわけだ。
と
にかくみんなで……今の「この」メンバーでこの曲を表現してみたいという強い思いがあったのだろう。
いわば千秋の挑戦でもあった。。
彼
の頭の中でいくら響いていても、実際にはうまくいかないかもしれないという不安。
頭で考えていることと実際に演奏することは違うの
だ。
それでも敢えて挑戦して、この限られた状況の中で成功させるというところにこの曲の価値があるのかもしれない。
だ
からこそこの曲をアンコールに持ってきた。
「金平糖の精の踊り」はあっという間に終わっ
た。
二分ほどの短い時間を、不思議でファンタジー溢れる夢のようなメロディがあっという間に駆け抜けた。
観
客はあまりにもあっけなく終わったために夢の世界から現実に戻るタイミングを逃したようだった。
呆然としたまま沈黙がしばらく続き、
我に返った観客がようやく拍手をしようと両手を膝から上げた瞬間…。
大河内がにっと悪戯っぽく笑うとなんの予告
も前触れもなくふっと腕を振り上げた。
「ロシアの踊り」が始まる。
打
ち合わせではもう少し間をあける筈だったが、指揮者のタイミングについていかない訳にはいかない。
意表をつかれて苦笑するメンバー。
大
河内の奴……。
峰はヴァイオリンの弦を動かしながら心の中で思う。
あ
いつ……ちょっと格好いいんじゃねーか?。
「ロシアの踊り」
チョ
コレートの精がロシア農民の踊りであるトレパックを踊る音楽だ。
その軽やかなテンポと爽快なメロディーからか、
日本の運動会におけるBGMとしてもよく用いられている。
モルト・ヴィヴァーチェ(とても明るい)という指定どおり,非常に活気のあ
る曲である。
力強いメロディが第1ヴァイオリンによって何度も繰り返される。
速いテンポで
管弦楽が総奏で力強く特徴のあるリズムの旋律を陽気に演奏する。
タンバリンが快速に弾くパッセージがいかにもコサックの踊りという感
じがしてくる。
さあ、これが最後だ!!。
お祭りのように賑やか
に、ここまでやってきた即席オーケストラの演奏会も終演を迎える。
皆は思う存分暴走していた。
こ
の曲はテンポが良く、思いっきり楽器が演奏できるのですごく楽しいのだ。
ほとんど全体演奏なので、奏者全員でそれぞれにリズムにのっ
て弾みのある音楽を表現している。
ティンパニーとタンバリンが出てくるが、ここではやはりタンバリンが優先だ。
真
澄はタンバリンで演奏を盛り上げ、ティンパニ部分は千秋がピアノの左手のオクターブを大きめに弾くことでフォローする。
編
曲もほとんどなく、全員が楽譜にそって自分の楽器を思い思いに弾いていた。
なんて楽しそうなんだろう!!。
真
澄はタンバリンを叩く合間に、器用に片足を上げたままくるくると気持ちよさそうに回りながら踊っていた。
いつも飲み会の余興でする奴
だ。
峰はまたしても立ち上がり、ヴァイオリンを天井高くそびえさせ、恍惚とした表情でロック調に一人で突っ走っ
ている。
それを見ている清良も咎めることはなくどこか嬉しそうな目で峰を見つめ、自らも気持ちよさそうに演奏し
ている。
高橋は「あーあ、やってらんないな」っていううんざりした顔をしながらもやはり楽しそうで。
萌
と薫は立ち上がって楽器を持ったまま色っぽく身体をくねらせてその豊満な肉体を強調しながら艶やかな音色を出している。
(会場内の男
性からおーーっっ!と歓声が上がった)
舞子も姉妹に対抗しようと立ち上がるのだが、なんせ誇示する肉体がな
い…。
仕方がないので思いっきりリズムに合わせてフルートを吹き鳴らしていた。
黒木ものっ
てきたようだが、奥ゆかしい彼のことである。
周囲の様子をちらちらとうかがいながらも遠慮っぽく立ち上がりオーボエを独奏する。
一
人真っ青になっているのは指揮者の大河内だけであった。
そ…そりゃ、最後だし、アンコールではあるけれども…そ
んなに皆、はじけなくたって……(涙)。
千秋はそんな皆の様子を見ながら緩んだ口元を隠そ
うともしない。
千秋自身も思いっきり楽しんでいた。
両手で大きくパフォーマンスをしながら
思いっきりピアノに指を叩きつける。
R☆Sオーケストラの本領発揮……だな。
お
前らって本当にお祭り好きなのな。
音楽が好きで。
演奏が好きで。
誰
かにそれを喜んでもらうのが大好きで。
……いいよ。
そ
のままでずっといろよ。
それがもっともお前達らしいのだから。
……こ
の楽しさこそがR☆Sオーケストラなのだから。
悔いが残らないよう
に、思う存分暴れ回れ!!。
自分も含めこいつらの世界は光に満ち溢
れ、そして輝かしい未来が間違いなく待っている。
メ
ンバー達が心から音楽を楽しんで演奏しているのがよくわかる。
そしてその楽しさは聞いている観客にもどんどん伝わって…会場いっぱい
にその音楽が隅々まで行き渡った。
舞台の上も舞台の下も関係ない。
指揮者も演奏者も観客も関係ない。
皆
が一つの音楽に集中し、笑って、歌って、喜んで、心躍らせる。
のだめはリズムにのって身体を揺らしながらいつし
か空中に両手を上げピアノを弾くように指を動かしていた。
その瞳はもう千秋一人を追っていなかった。
R☆Sオー
ケストラという集合体、その全てを見つめていた。
あそこに……。
あ
そこに行きたい。
のだめは胸が激しくかき乱されるような激情に襲われる。
あ
の中に入りたい。
あの素晴らしいオーケストラの中に入って共に演奏してみたい。
音
楽を皆と一緒に……あの人と一緒に、分かち合いたい。
それなのに。
ど
うして。
のだめの目からはいつしか涙が溢れ出し
ていた。
歓喜とも絶望とも違う、そのどちらでもない強い感情。
言葉にならないもどかしい思
い。
涙は顎を伝わって床の上にポタポタと滴り落ちる。
ど
うして、のだめはあそこではなく、ここにいるんデスか?。
……
そして嵐のようなアッチェレランドで一気に曲が終わる。
し
ばらくの間、誰も微動だにできなかった。
ただ全力疾走のように激しい演奏を終えた演奏者達の荒い息づかいだけが
妙に響く。
ライトに照らされて、皆の顔に汗が光っているのが見える。
永遠に続くかとも思われるような長い沈黙。
千
秋がぎゅっと目を瞑る。
次の瞬間。
「ブラ
ボーッッ!!」
会場内は怒濤のような叫び声と歓声に包まれる。
割れん
ばかりの拍手が渦を巻くように湧き起こり一気に押し寄せてくる。
観客のそれぞれがその感動を押さえきれずに叫んでいた。
拍
手の音が鼓膜を破らんばかりに痛く激しくて。
メンバー達はあまりの会場の興奮の渦にしばし呆然としたままであっ
た。
お辞儀をすることもできずにそのまま動けずにいる。
大河内は自分が指揮者であるということも忘れて馬鹿のよ
うにただ突っ立っているだけであった。
やがて
「アンコール!」
「ア
ンコール!」
「アンコール!」
誰が言い出したのだろうか。
申し合わせ
たかのように会場内に湧き起こる強いアンコール。
その声はいつまでも続いていて、R☆Sの誰かがリアクションを起こさない限りは止み
そうになかった。
峰がちらりと千秋を見る。
どうする?とその目は言っ
ていた。
しかしその時千秋は峰を見ていなかった。
その視線はある一点だけを……会場の一番
後ろ、扉の前に立っている人物だけをじっと見つめていた。
突然千秋がすくっと立ち上がる。
そ
して何かを叫んだのだが……怒濤のような歓声にかき消されてその声は聞こえない。
のだめは思わず耳を澄ませた。
……
何だか千秋が自分に向かって何かを言っているような気がしたのだ。
そんな千秋の行動を不審に思った観客が一瞬な
りを潜め、、歓声と拍手が止んで会場内を沈黙が包み込んだ。
千秋がも
う一度叫んだ。
「のだめ、来い!!」
続
く。