先 輩……今、なんて……?。




のだめは、今耳にした 言葉が信じられなかった。

彼女が立っているのは、舞台から一番遠く離れた会場の2階席の隅なのだ。
ど んなに千秋が目が良くてもとても自分が見えているとは思えなかった。
この状況で舞台から呼ばれるなど……そんなことあり得ない筈だ。

呆 然としたまま立ちすくむのだめに、もう一度千秋が壇上から叫んだ。



「の だめ、来い!!」



千秋の様子に観客も不思議に思ったようだ。
と にかく客席にいる誰かを呼んでいるようだということで、皆キョロキョロしながら呼びかけられている人物を探す。
会場は一時騒然となっ た。

峰は千秋の後ろから顔をひょこっと覗かせると、右手を額に当て目を細くして遠くを見ている千秋の視線の先を 追った。


「お、本当にいた〜。おお、いいからいいから、こっちに来いよ!のだめ!!」


他 のメンバーもぞろぞろと集まってくる。

「……恵ちゃん、来てるの?」
「どこ?」
「右 の一番後ろ、ほら扉の前に立ってるだろ」
「あ、本当だ〜」
「よくあんなところにいるの見つけたな」
「おー い、のだめちゃ〜ん、こっちにおいでよ!」
「そんな隅っこの方にいるんじゃなくってさ」
「早く早く!」
「ー 何やってんのよ、この馬鹿娘!!みんな待っているんだから、さっさとこっちに来なさい!」

全員がのだめを見つけ て、申し合わせたかのように呼びかける。

皆、あふれんばかりの笑顔だ。



の だめはそれに引き寄せられるように足を一歩前へ踏み出す。



そして、ま た一歩。



照明が明るく照らす舞台へ向かってゆっくりと階段を下り始め た。

観客達は、センターの客席通路を通っていくのだめに向かって、惜しみない拍手を送る。
最 初はぱらぱらとまばらに…そしてだんだん数が増えて会場を大きな波が包み込んだ。
どうやらこれもR☆Sオケの演出の一部だと思ってい るらしかった。

拍手の波に包まれて、のだめの足どりも次第に早くなる。

危 なっかしい足どりで階段を駆け下りると、そのまま躊躇することなく舞台に上がった。



は あ……はあ……。



息を切らしたまま客席を振り返ると、場内の観客達が 舞台に上がったのだめに注目をしていた。

キラキラと期待の混じった眼差しで。

の だめはふと先刻まで自分がいた二階席の一番隅を見やった。





…… あそこは……さっきまで、のだめがいたところ……。



……そして。



そ して。



……ここは……。





「お い」

呼びかけられてはっとして振り向くと、そこには千秋がいた。

「先 輩……」
「アンコールだ。お前、ここで何か一曲ピアノを弾けよ」
「……え?」
「何でもい い。お前の好きな曲を弾け」
「でも……」

のだめは千秋の後ろにいたR☆Sメンバー達をちら りと見た。

「おお!!。のだめ弾け弾け!」

峰が明るく笑って言う。

「ま あ……千秋様がそうおっしゃるなら……しょうがないわね!」

不服そうに呟く真澄だがその瞳は笑みを浮かべてい る。
その他の面々も優しくのだめを見つめている。

「こっちよ、のだめちゃん」

清 良が手を引いて躊躇するのだめをピアノの前へと連れて行った。

黒く光ったそのこの世で最も美しい形状の楽器は、 のだめにとって子供の頃からずっと慣れ親しんできた……もはや自分自身の一部とも言うべき存在。



の だめは目前のピアノをしばらくの間じっと見つめて……それから千秋の方を振り返った。


千秋 はのだめを促すかのようにゆっくりと頷いた。


そのままのだめはしばらくの間千秋を見つめて いたが、次の瞬間きゅっと唇を固く結び、こくんと頷き返した。


そして、客席の方に向き直る と眩しそうに会場内をぐるっと眺めて……その場で深々とお辞儀をした。


暖かい拍手がのだめ を包む。

照明の光が体中に当たり、興奮で火照った身体は熱いくらいだ。





…… 何もかもが、一緒だ。



あの時と。





の だめはピアノの前の椅子に着席すると、楽譜も何もおかれていない前を見つめる。

その強い瞳にもう迷いは無かっ た。







…… この曲は……。


千秋は驚きで息を呑んだ。
まさか、のだめがこの曲を選 ぶとは思わなかったからだ。

鍵盤に勢いよく叩きつけたのだめの指先から流れてきた曲は……「ペトルーシュカから の3楽章」だった。







ペ トルーシュカ(Petrouchka)
20世紀の音楽界における数少ない巨匠の一人、ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky)作曲のバレエ音楽。
同作曲家の三大バレエ音楽(ペトルーシュカ、春の祭典、火の 鳥)の中の一つ。
バレエ音楽のペトルーシュカは、1910-11年にディアギレフ率いるロシア・バレエ団のために作曲され、1911 年6月13日にパリのシャトレー座にて初演。
その公演はおおむね成功したが、少なからぬ聴衆は、ドライで痛烈で時にグロテスクである この音楽に面食らった。
ウィル・フィルハーモニー管弦楽団は、当初この楽曲をを上演することを渋って「いかがわしい音楽」と呼んだ。

《あ らすじ》
サンクト・ペテルブルクの大市は謝肉祭(ロシアの春を記念するロシア正教の祭り)で賑わっていた。
見せ 物小屋やいろいろな屋台が建ち並ぶ。
そこに人形遣いが現れ、見せ物小屋から三体の人形(可愛らしいバレリーナ、滑稽なペトルーシュ カ、厳ついムーア人)を取り出す。
そして、人形遣いが笛(フルート)を吹き魔法を掛けると、その三体には命が宿り、そして激しく、ロ シアの踊りを踊り出した。
命を吹き込まれたペトルーシュカは、人形遣いには哀れな服従心を、バレリーナには恋心を抱いた。
ペ トルーシュカはバレリーナに哀れっぽく恋を打ち明けますが、バレリーナは逃げしまう。
悲しみに打ちひしがれるペトルーシュカ。
一 方、バレリーナはムーア人に言い寄り始める。
ペトルーシュカは嫉妬し、ムーア人の部屋に飛び込み、脅す。
しか し、逆に三日月刀をふりかざしたムーア人に追いかけられ、群衆の集う広場に飛び出す。
そしてムーア人の刀の一撃で哀れにも殺されてし まうのだ。
それを見た群集は人殺しだと騒ぎ出しますが、駆けつけた人形遣いが、ペトルーシュカを抱き上げ、それがおがくずのつまった 人形だと見せて、群集を安心させる。
しかし謝肉祭が終わり、広場には誰もいなくなる。
人形遣いはペトルーシュカ を抱えて見世物小屋に運ぼうとした、その時。
ペトルーシュカの幽霊がぼうっと現れ……。
人形遣いは、恐れをなし て逃げ出し、舞台はそこで閉幕する。
人形であるはずのペトルーシュカの苦しみと死が実は現実だったのかもしれないという、現実と虚構 (芝居)の境界線を余りはっきりさせず同時進行させるバレエである。


20世紀の名ピアニス ト、アルトゥール・ルービンシュタインから「5,000フラン払うから、今までで最も難しい曲を書いてくれ」と依頼されたことによって
1914 年にこのバレエ音楽からストラヴィンスキー本人によってピアノ曲に編曲されたものが「ペトルーシュカからの3楽章」である。
その際、 ストラヴィンスキーは「ロシアの踊り」「ペトルーシュカの部屋」「謝肉祭」のみを取り上げた。

この3楽章は、非 常に難度の高いピアノ曲の一つに挙げられる。
オーケストラを再現していることもあって、音が多く弾きにくい箇所が多く、演奏には高度 な技巧が要求される。
ルーピンシュタインは「美しい若い女性にプロポーズするのは、『ペトルーシュカ』をピアノで演奏するよリもほん の少し勇気が必要だ」と言った。
しかしながら、技巧的難曲と言われるものの演奏不可能と言うことはなく、コンサートやコンクールなど でも演奏される機会が多い。
ソロの楽譜は通常三段に渡る楽譜であり、その為読譜段階でかなりの苦労を強いられる。





第 一楽章 ロシアの踊り



人形使いの笛の音で命を吹き込まれた三体の人形 が、謝肉祭で賑わうペテルブルクの観衆の中でぎこちなく踊り始める。

この第一楽章は、命を吹き込まれた人形達が 踊る軽快で激しいロシアの踊りの楽章である。

主題はロシア民謡の断片を使用している。
シン プルで明快なこのメロディーは脳裏に深く刻み込まれていき、一度聞いたら忘れられない。

終始重音で動くため、ソ プラノのメロディラインをスタッカートで響かせるというのが重要となってくる。

楽曲解析をせずに挑むと、平淡か つ五月蠅い、表情のない音楽と成り果ててしまう曲でもある。
(つまり、技術だけで押し切ることも可能という曲である。)



タ タタン、タタタタ、タタター。

のだめの指がピアノの鍵盤上をリズミカルに行き交う。
その軽 快な旋律を聴きながら、千秋は「あの」マラドーナ・コンクールのことを思い出していた。

……あの瞬間。

の だめは舞台上でまるで時間が止まったかのように凍り付いていた。
気を取り直して再び弾き始めるも、それは本来の楽譜とは全くかけ離れ た、のだめ独自の即興曲となっていた。

……どんなにいい演奏をしても、曲を変えて弾くことはコンクールでは許さ れない。



どうしてだ。



の だめ。



やはり間に合わなかったのか。



の だめが本選前に高熱を出して寝込んでいたことを江藤から千秋が聞いたのは、かなり後になってからだった。
彼女の驚異的な集中力……そ れは食べることも寝ることも忘れて、ただひたすらピアノの世界に没頭していくということ。
……まるで自分の命を削っていくかのよう に。

それは練習漬けで体力が落ちているのだめの身体を徐々に疲労させ、ついに倒れるところまで自らを追いつめて しまったのだ。

その結果、最後の曲である「ペトルーシュカ」は間に合わなかったんや……と江藤は悔しそうに言っ ていた。

それでものだめは諦めなかったらしい。
コンクール会場に向かう電車の中、ずっと楽 譜を開いて譜面を覚えることに集中していた。
……その時。
乗り合わせた乗客の携帯電話の着信音が鳴り響いた。
そ れが、「きょうの料理」。


……そうだったのか。


千 秋はあの時ののだめの即興曲の謎がその時初めて解けたような気がした。

クラシック音楽では、主題があって、それ が展開されるというパターンが多い。
主題は、切り刻まれたり、全然違った表情にされたりと、いろいろ加工されるわけだ。

主 題を変化させる方法には、古くは長調を単調に変えるとか、リズムに変化をつけたり装飾的な音を加えたり、といった方法があるが、
近代 では、その手法も多種多様、バリエーションも広がってきている。
管弦楽法などによる色彩的な変化のつけ方、和声的な変化など、表情が がらっと変わる劇的な手法がある一方で、関連性を認識させる基本はやはり旋律パターンとリズムパターンだ。

ペト ルーシュカのリズムは タタタン、タタタタ、タタター

きょうの料理のリズムは  タンタタ、タタタタ、タタ ター。

リズム上の違いはわずか一箇所。
二曲のリズムは非常に似通っているのだ。
最 初の1拍の音型が、同じ度数ではないにしても、音の変わる向き(高低の変化)は同じである。
このような音型パターンが、主題の同一性 を感じさせる重要な要素なのだ。

多分、電車の中で聞いた「きょうの料理」のメロディーが、無意識のうちにのだめ の頭の中にインプットされていたいたのに違いない。
それが知らず知らずのうちにのだめに混乱を起こさせ、その結果、旋律だけは残って いるものの全く違う編曲された「ペトルーシュカ」が誕生したのだ。

それにしても……あの複雑な曲をよくも即興 で……とも思う。

ある曲にインスパイアされて出来上がった曲(もしくは非常に影響を受けて似通ってしまった曲) というのは昔から良くあることだ。
「水戸黄門のテーマ」がラヴェルの「ボレロ」
「ロッキーのテーマ」がメンデル スゾーンの「結婚行進曲」の冒頭部。
「赤い靴」がモーツァルトの「きらきら星変奏曲第8変奏」
「雪の降る街を」 がショパンの「幻想曲」……といったように。

ただ、即興で別の曲を溶かし込むにはあまりにも「ペトルーシュカ」 は難解で超絶技巧を要する曲だ。
一度か二度聞いて、後は楽譜を見ただけで弾けるかといえば、それは常識的に考えても不可能である。
技 巧的にも、かなりの練習を要するはずなのに……(たとえ技巧があってもその曲に合うように指を訓練せねば、普通は弾けるものではない)

そ れはのだめの天性の感覚、希有な才能の一つであるとしか考えられなかった。




…… あいつはいったい何者なんだ。



普段は風呂に入らずいつも臭くて、部屋 も掃除をせずに同じ洋服を何日も着ているような変態。
練習嫌いで、楽譜も見ない。
いつも自分の好きなように、自 分が楽しみのためだけにピアノを弾いているような女。



あいつのいった いどこにそんな力が隠れているんだ?。








第 二楽章 ペトルーシュカの部屋




短い中に、様々な 曲想を盛り込んである楽章である。
突然、一喝されるような音から始まる。
ペトルーシュカが主である人形遣いから 蹴飛ばされているのだ。

牢獄のような小屋に放り込まれてしまうペトルーシュカ。
人形遣いに 対する怒りと恐怖。
ペトルーシュカは自分の小部屋から逃げ出そうとするが果たせない。

そし て、不気味で陰鬱な曲調が続き、しかし途中から何故か可憐な音楽になる。

憧れのバレリーナが入ってきて、一瞬希 望が見える……手に届かないものを想う幸福感。

しかしバレリーナはペトルーシュカの部屋が不気味なので、逃げて いってしまう。
ペトルーシュカの絶望。

何とも言い難い、ぶつっと切れるような最後を遂げ る。



……のだめは、マラドーナ・ピアノ・コンクールの演奏中に手が止 まってしまったあの悪夢の時のことを思い出していた。


実をいうとあの瞬間、何を考えていた のか、どうしてそうなってしまったのかよく覚えていない。


この3曲めだった「ペトルーシュ カ」は完全に時間的に間に合わなかったのがわかっている。
練習する時間も、完全に暗譜する時間もなくて本当に不完全な、本来なら演奏 すべきでない曲。
2曲目のシューマンの演奏が終わり、場内から歓声を浴びながら、のだめの表情は固く強ばっていた。

「こ の曲は絶対に弾くな。……それこそ神への冒涜や」

江藤が出演前に念を押したのは十分にわかってる。
確 かにこんな中途半端な状態でコンクール弾くべき曲ではないことは事実だ。
自分でもこの曲を完全に最後まで弾ききる自信はなんてある筈 がない。
失敗して恥をかくのがオチだ。


それでも。

そ れでも。


ピアノの鍵盤を前にしてのだめの気持ちは揺れ動いていた。


…… このまま棄権してコンクールの会場を後にするのが一番ベストな方法であることはわかっている。
そうするべきだのだ。


そ れなのに。


客席に向かって挨拶するために立つべき足は動かない。

指 は最後の課題曲を奏でようと待ちかまえている。

自分の身体が自分の思うように動いてくれない。


わ からない。


自分で自分がわからない。


…… ただ……ここから逃げたくない……。


そう思った。


も しここでやらなければ、ほんの……ほんの、ひとかけらの可能性も潰してしまうことになってしまうから……。



の だめは眉間に皺をぎゅっと寄せた。

そして強い衝動に突き動かされるかのように……本能の導くままに両手を上 げ……そのまま鍵盤に打ち下ろした。



途中までは順調だった。

い つものように頭の中を暗譜していた楽譜が流れるように映像として映し出されていた。
その楽譜の通りに命令しなくても指は勝手に動いて いく。
そこまではいつもと同じだった。

しかしだんだんその楽譜に霞がかかったように霞んで いき……次の瞬間、別の譜面がぱっと頭の中に浮かんだ。
それは「ペトルーシュカ」ではなかった。

気 が付いたら曲が鳴りやんでいた。
それは自分が手を止めているからだと気が付くのに数秒かかった。

自 分が今どこにいるのか、何をしている最中なのか気が付いた瞬間、さああっと血の気がひいた。


…… どうしよう。

どうすればいいんだろう。


朦朧とす る状態で必死に頭の中で対応策を思いめぐらせる。
そしてすでに頭に浮かんでいた楽譜に沿って無意識に指を滑らせる。

そ れが「ペトルーシュカ」でないことはわかっていた。

「今日の料理」という曲が、のだめの頭の中のインプットされ た楽譜に書き換えられていた。
だけれどもその時ののだめには、それが「正統な楽譜」であるように思えた。

無 我夢中で一心不乱に弾き続ける。

自分は何を弾いているのか、それすらもわからずに、ただ操られたように勝手に動 いていく指先。


1楽章が終わった途端、突然、頭の中にぱあっと鮮明に「ペトルーシュカ」の 楽譜が戻ってきた。
それも先ほどと同じくいきなり映像としてぱっとやって来た。

その後 は楽譜が入れ替わることもなく、結局、そのまま最後まで弾き通した。


……演奏終了後、拍手 喝采を浴びながらものだめの心は深い闇に陥っていた。



演奏は失敗だっ た。

例え観客が喜んでくれていたとしても、のだめ自身がそのことを知っていた。


…… 自分は、コンクールで、正しい曲を弾くことができなかった。

あの曲を自分の思うとおりに弾くことができなかっ た。


時間がなかったとかそんなのは言い訳にならない。


た だ……自分は……自分の全てを出し切ることができなかった。


それだけだった。



千 秋が一緒にヨーロッパに留学するように誘ってくれたにもかかわらずに、嘘をついてまでその誘いを断った。

逃げ帰 るようにして福岡に帰郷し、部屋に閉じこもりピアノに触れない日が続いた。






第 三楽章 謝肉祭



再び謝肉祭、時刻は夕方である。
集 まった陽気な民衆達がそれぞれ賑やかに行き交うサンクト・ペテルブルクの大広場。

シンプルな伴奏の上に5連符6 連符11連符という数学的には割り切れないようなメロディが乗せられる、正気を疑うような楽譜。
その結果、リズムは錯綜し、ますます 複雑を極めることになる。

しかし、謝肉祭という名にふさわしい、にぎやかな曲。

和 音のトレモロ、其れに付随する楽しげなメロディライン。

ロシア正教の謝肉祭とは、多くの人々にとってドンチャン 騒ぎをして羽目をはずす期間であるらしい
人々が盛大なお祭りを楽しんでいる喧噪が生き生きと描かれている様は、この後に起こる惨劇な ど誰も予測できないかのようだ。


夢と現実の区別がつかなくなった、ペトルーシュカの……哀 れな最後……。





どうして、 江藤はこの曲をコンクールの楽曲に選んだのか。

千秋自身はこの「ペトルーシュカからの3楽章」をあまり弾くのを 好まなかった。
とても素晴らしい曲だとは思うけれども、演奏者として弾くにはピアノらしいピアノ曲ではないからだ。

こ の曲は誰が弾いても、非常に似通った解釈をされることが多い。
音楽性を求めると言うよりも、迫力を求める曲なのだ。

た だし、もの凄く華やかな曲であることから、コンサート受けもするので技巧を見せつけるには丁度良い曲だといえよう。

そ れゆえに一つ、一つの音が弾けるように弾ける演奏者でないと、ありふれた曲のまま終わってしまう。
そんな恐れも含んでいる曲である。

楽 譜的にそこまで難しいという訳ではない。

……ただ、もの凄く読みづらいのだ。

オー ケストラ譜をピアノ譜に編曲しているだからしょうがないことではあるのだが。
譜自体も、第1主題と第2主題が提示され、その後展開さ れて再現されるソナタ形式のようではないからとても覚えにくい。
通常は譜読みにも時間が掛かるだろうと思われる。

複 雑な変拍子を弾きこなすことが大変困難であるということも、この曲を取り上げにくくしている要因だろう。
変拍子というのは、ひどいと きには1小節ごとに拍子が入れかわり、つまずいたりよろめいたりしながら進むような音楽のことである。

また非常 に大胆な跳躍をする箇所も多く、体力的にも厳しい。
あの詰め込み教育的なのだめの合宿訓練の中で、弾きこなそうと思ったら多分容易な ことではなかった筈だ。

ただペトルーシュカの技巧は、手の大きさにかかわってくる。
特に3 楽章における左手の指使いによるトリルは指の構造によっては演奏不可能ともいわれている。
通常の女性ピアニスト、あるいは通常の男性 よりも大きいのだめの手だから弾けたともいえる。

千秋は、あの時ののだめの演奏を思った。


と ても2手で弾いたとは思えない、多重録音のようなくっきりとした音色とボリューム。

全ての音の粒を耳で確認でき るほどの迷いのない演奏。

その多彩な音に、千秋はオーケストラ版以上の壮大さを感じた。



引 きこまれる……あの世界に。


それはあの場にいたもの全員が感じたことだったろう。



…… 確かに、のだめは取り返しのつかない痛いミスをした。
曲を途中で忘れその上、勝手に編曲するということはコンクール上あってはならな いことだ。


でも、そんなことはどうでもよかった。



あ の素晴らしい演奏の前では。



もちろん正しい「ペトルーシュカ」ではな い。

だけどのだめ自身が無意識に作曲したその旋律は、まるで最初からその曲がそこにあったかのように「ペトルー シュカ」に溶け込んでいた。

会場の観客達を素晴らしい歓喜の渦に引きこむ。

あ のミスがあったからこそ、なおさら観客達にその存在を印象づけ、脳裏から二度と忘れられないような演奏になった。



そ んなことは誰にも出来ることではない。



のだめ。


お 前はやっぱり最高のエンターテイナーであり、生まれついての演奏者だ。


他の存在には成り得 ない。



そんなこと……。



…… そんなこと……この俺が絶対にさせない。









知 らなかった。


のだめは終焉に向かって一気に登り詰めていた。



本 当に知らなかった。


自分の中にこんな気持ちが眠っているなんて。



た だ……ただ……自由に楽しくピアノを弾いていられればそれでいいと思っていたのに。

それだけで自分は幸せなんだ と思っていたのに。



千秋という人物に出会い、彼の音楽に対する才能と 情熱に触れた時、確かにのだめの中の何かが変わった。


彼と連弾することで他人と共に音楽を 奏でる楽しさを知った。
彼とピアノ演奏を聴いてあんなふうに弾いてみたいと心から強く思った。
彼の指揮するオー ケストラの音楽に触れた時、感動で心が打ち震えて涙があふれ止まらなかった。


少しずつ…… 少しずつ、何かが変わってきた。


彼の後ろをずっと追いかけていけたら。
彼 と同じ道を歩んでいけたら。


……そんな時コンクールでのだめは取り返しのつかない失敗をお かす。


あの時、確かにのだめは自分の限界を知った。

現 在の自分ではどうしても越えられない壁のようなものが目の前に大きくそびえ立っていた。



駄 目だった。

出来なかった。



楽 しいだけでは駄目なのだという事に、ここにきてようやく気づいた。



そ の事実は今までののだめの考えを根底からひっくり返すものであり、のだめを激しくうろたえらせた。



あ の時ほど千秋の顔が正面から見れなかったことはなかった。

それからの間、ピアノに触れることすらできなかった。
た だ何も考えたくなくて誰とも会いたくなくて、正月に帰省するという理由をつけて、福岡の実家に帰った。

そこには 昔からのだめを見守ってくれていた優しい家族がいて、いつものように何も言わずあたたかく受け入れてくれた。
…そこだけは昔のまま で、何も自分を傷つけない安全な場所だった。
だからただ部屋に閉じこもった。
置かれているピアノを見ないように して頭から布団をかぶって、何も考えないようにした。



……それでも、 何かが……正体のわからない何かがのだめの心の扉をノックし続けていた。




…… おいで。



……こっちにおいで。




そ の声に導かれるように、のだめは再びピアノの前に座った……。





自 分の前には大きな壁があった。
今までの自分にはそれが乗り越えられなかった。
ただ、それだけのことだった。

千 秋はもうすでに壁の向こう側にいて、自分がその壁を乗り越えて追いついてくるのを待っている。
いや、千秋自身もまた新たな壁にチャレ ンジしようとしているのだ。

これから先、何度も何度も壁にぶち当たるだろう。
千秋はのだめ のずっとずっと先を歩いている。……彼自身も、もがき苦しみながら。

自分達の進む道は、楽しいだけじゃない。
きっ と想像以上につらい、苦しい日々が待っているだろう。



それでも。



…… それでも。










の だめは真っ白な世界にいた。



そこは何も見えなければ音も聞こえない。

先 ほどまで音との対話をしていた筈なのにその時間も終焉を迎え、のだめは無音の世界にたった一人で存在していた。


次 の瞬間、のだめは現実に一瞬で引き戻される。


うあぁああっといきなり怒濤のような拍手の波 が起こった。

その音で真っ白な頭の中に、現実感が戻ってくる。
さぁっとカーテンを開けるよ うに、いきなり周囲がひらけて音に現実味が帯びてくる。

「ブラボー!」

誰 かが叫んでいる。

それがきっかけとなったみたいに観客達が拍手をしながら次々と立ち上がった。
興 奮が渦巻くようにして舞台の上に押し寄せる。

スタンディング・オーべーションだ。

洪 水のような拍手の中、のだめは呆然としたように客席を見つめる。
観客は声を嗄らさんばかりに「ブラボー」を叫び続け、その拍手は鳴り やむことがない。



……あ、うん。

終 わったんだ。



その瞬間にのだめは思った。

周 りの景色が急にきらきらと眩しく輝いているように見えた。

そしてもう一度眼下の客席を眺める。
皆、 はちきれんばかりの笑顔……笑顔……笑顔。
どの顔もとても幸福そうに輝いていて。

椅子から 立ち上がり、ゆっくりと椅子の前に出てお辞儀をする。

自然に頭が下がる。



あ りがとう。



全ての観客に向かってそう、心の底から言いたかった。



本 当にのだめの演奏を聴いていただいて、ありがとうございマス。



目に涙 が滲む。
それは悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。



良 かった。

満足してもらえたんだ。

感動させられたんだ。



い ろんな感情が心の中でせめぎ合い、様々な思いがあふれ出す。


ふとすぐ近くから大きな拍手が 聞こえてきてのだめは振り向いた。
見るとR☆Sのメンバーがそれぞれ笑顔で痛いくらいに手を叩き続けていた。
峰 も、清良も、黒木も、高橋も、大河内も、萌も、薫も、舞子も、真澄も……。


……そして千秋 も。


千秋は、やはり笑みを浮かべて拍手をしていた。

の だめを見つめるその瞳は、これまでに見たことがないくらい……すごく……優しい瞳で……。



の だめは、最高に輝く笑顔を向けた。













「…… すみませんでした」

千秋は学長に深々と頭を下げた。
それに倣うようにしてR☆Sのメンバー が全員頭を下げる。
なんといってもゲストである筈の自分達の演奏が、与えられた時間よりもかなりオーバーしてしまったのだ。
ア ンコール曲を2曲もやってしまったのだから、本当に演奏会側としては予定外の事態だったに違いない。

「んー」

学 長は少し考え込んでから、はははっと豪快に笑った。

「まあ、いいですよ。学生達とても喜んでいたし、今のところ 苦情もないようですしね。……本当に素晴らしい演奏だったから」
「はあ……恐縮です」
「あ、そういえば……えー と、最後にピアノを弾いた、そこの貴方」

学長は、のだめを指さした。
のだめはきょとんとし た表情で、学長を見る。

「お名前はなんておっしゃるんですか?」
「ムキャ?の、野田恵デ ス」
「……野田恵さんね」

学長はしばらくのだめの顔を見つめていた。

「覚 えておきます。いつか、貴方の名前を別の形で聞くことになりそうだから」
「?」

ふっと笑う と謎めいた言葉を残し、学長は楽屋を去っていった。
学長を見送りながら千秋はふーっとため息をついた。

「終 わったな」

峰が大きくのびをした。

「くーっっ!!これでやっと眠れ る!」
「疲れた〜」
「おおっその前に宿に戻って打ち上げしようぜ!打ち上げ」

緊 張がとけた解放感とやり遂げた達成感にメンバーがひたっている間、のだめはおとなしく椅子にちょこんと座っていた。
先ほどの興奮がま だ醒めやらぬままでいた。
身体が燃えたぎるように熱く、頬が興奮で紅潮したままだ。
ふと、手をとられた。

「…… また震えてる」

千秋がそっと掴んだのだめの手は、小刻みに震えていた。
のだめは、小さくに こっと微笑んだ。

「……これは……感動で震えてるんですヨ……」
「そうか……」

ふっ と笑って千秋が手を離そうとした瞬間、がしっとのだめが逆に千秋の手を掴み返した。

「……先輩」
「な、 なんだ?」
「のだめ……のだめ、どうしても先輩に言いたいことがあるんデス!」

そういうと のだめは両手で千秋の手をぎゅっと握り締めた。

「先輩に、言いたくて……言いたくて……ここまでやって来たんデ ス」

のだめの顔は紅潮して、その瞳は真っ直ぐに千秋を見つめていた。
その真剣な表情に思わ ず千秋は視線を逸らしてしまう。

「は……話なら、後で聞くから……」
「駄目デス!!今じゃ ないと……今じゃないと、駄目なんデス」

おおっ……と周りにいたメンバーがどよめき、二人に注目する。

「ちょっ と何よ、あんた……」

怪しげな雰囲気に思わず割って入ろうとした真澄の口を、峰が後ろから手で覆う。

「ふ がふが……」
「まあまあ、真澄ちゃん、今、いいところだから」

同じく文句を言おうとした高 橋は、先ほどから清良達女性陣からちゃっかり押さえ込まれている。
もはや、二人の邪魔をする人間はいない。
皆、 ごくりと固唾を呑んで、事の成り行きを伺っていた。



「先輩……」


「………」


「先 輩……、のだめ……、のだめ……」



のだめの潤んだ透き通ったな瞳に吸 い込まれそうになりながら、千秋はごくんと唾をのんだ。








「の だめにお金を貸してくだサイ!!。」







「……… は?」







「…… のだめ、ここに来るまでの道がわからなくってタクシーで来たんですヨ。
 そしたら思いの外、お金がかかっちゃって……。なんてったっ て別府から大分市内ですからネ〜。
 のだめのお財布の中身じゃ足りなかったんですヨ〜。
 あ、今、この会場の外 でタクシー待ってるんデスよ。
 すぐお金を借りて持ってくるって言ったから、タクシーの運転手さん、イライラしてるかもしれないデ ス」


そういうとのだめはにっこり笑って千秋に両手を差し出した。


「だ から、のだめに、お金貸してくだサイ!!」









………  ……… ………。










「あ 〜、皆〜、帰る用意しようぜ〜」
「はーい」

峰が気の抜けたような声でパンパンっと手を叩く と、もはや皆の関心は二人から離れて、それぞれが帰りの用意を始めた。

「先輩?」

の だめは先ほどから何も言わず、俯いたままの千秋を不思議そうに顔を覗き込んだ。
千秋の肩はぷるぷると怒りで震えていた。

「………………」
「せ、 先輩!!なんで、のだめの首を絞めるんデスか?先輩〜」



ぎゃ ぽーっっ!!。



のだめの叫び声が楽屋の外まで響き渡った。








続 く。