「あ あああああ……疲れた!!」

旅館に入るなり、峰は床の上にぱったり倒れた。
他の面々も疲労 の色は隠せない。
当然だろう。
昨夜の突然の出演依頼のためにほとんど寝ておらず、そのままハードスケジュールで 今日の公演を終えたのだから。
メンバーの気力と体力ともにもう限界だった。

「もう駄目だ〜 俺はこのまま死ぬ〜」
「私ももう限界……」
「このまま泥のように眠りたい〜」

床 に寝転がりながら、うううと呻くメンバー達。
その時、女将が小走りにやって来て、皆に頭を下げた。

「皆 さん、本日は本当にお疲れ様でした」
「あ……いえ」

千秋も疲労の色は隠せなかったが、それ でも満足気に言った。

「とても……俺達にとっても楽しい演奏会でしたので……」
「まあ、そ れなら良かった……。
 たいしたものはありませんが、皆様の公演の成功をお祝いする意味で、良かったら菊の間に宴会の用意をしており ますので、どうぞ、存分に召し上がってください」

それを聞いた峰が、すくっと立ち上がった。

「やっ たーーーーーーーーーっっっ!!。
 皆、打ち上げだぜーーーーーーーーーーっっっ!!」







温 泉旅行 最終回







シュ ポーン、シュポーンと瓶ビールの栓が抜かれる。
そしてビールが、キンと冷えたジョッキに互いに注がれていく。

「えーっ と、皆、ビールは行き渡ったか?」

峰が立ち上がり、コホンと咳払いをした。

「ま あ……菊池も、不慮の事故で怪我して入院したりして、思わぬハプニングが起きた訳だ。
 急場の演奏会の出演依頼で、ろくに睡眠もとれ ず、皆もさぞ大変だったと思う。
 千秋なんかオケスコアを少人数に編成するので一睡もする暇もなかったくらいだしな。
 …… だけど……だけど……俺は今、猛烈に感動しているーーーーっっ!!」

目には涙を浮かべ、握り拳で峰は叫んだ。

「ま ず、俺と清良の『カルメン幻想曲』!。二人の愛の絆が見事に昇華されたような熱い演奏だった。……これで俺達はこれからも遠く離れても大丈夫だ、な、清良 ♪」

そう言うと峰は清良にウィンクをしてみせた。
清良は顔を赤く染めてぷいっと横を向きな がら怒ったように言った。

「もう、そんなのはどうでもいいから次!」
「照れるな、照れるな ♪。
 そして『ペルシャの市場にて』……なんでかよくわからないんだが、えらく盛り上がったんだが……」
「大分 県を代表する曲だからね」

大河内がふんぞり返って言う。
峰はなんだかよくわからないといっ た顔をしながら続けた。

「……まあ、とにかく。低音部の菊池の不在にもかかわらず、千秋のピアノのフォローと弾 き振りで、これもまた素晴らしい演奏だった!!」
「ちょっと歌を歌うのが恥ずかしかったけどね」

と 黒木が微笑む。
真澄がムスッとした声で言う。

「そうよ……私なんか男みたいな声で歌わされ て!!」
「……っていうか真澄ちゃん、男なんだけど……」

聞こえないようにボソッと呟くの は舞子。

「そして千秋のピアノ『ショパンのピアノソナタ3番』これも素晴らしかった!!。
 …… なんだか千秋にしては珍しく情熱的だったな」
「もう、僕は心の底から君のとりこになったよ!!千秋くん!!……まるで愛の告白を受け てるみたいだった」
「ムキーーーッッ!!そんな訳ないでしょ!!バカじゃないのっ!?」
「なんだと、このもじゃ もじゃ!!」

いがみ合う高橋と真澄を尻目に、千秋はちらりとのだめを見た。


…… 気のせいだろうか。

頬がほんのりと赤い。

まさか……な。


「そ して、アンコールは……」
「この俺の指揮するチャイコフスキーのくるみ割り人形『金平糖の精の踊り』と『ロシアの踊り』 だーーーーーーっっ!!」

峰の言葉を遮って大河内が叫ぶ。
今回、一番嬉しかったのはやはり この男であろう。
なんていったって地元大分県の演奏会で、R☆Sオケで指揮をする姿を見せることが出来たのだから。

「やっ ぱり……俺の指揮が良かったんだろうな。皆ノリノリだったじゃないか!!」
「……入場の時にずっこけたくせに」
「うっっ……」
「ア ンコールの間、ずっと青くなってたくせに」
「ううっっ……」

萌と薫に突っ込まれてぐうの音 も言えない大河内であった。

「そして、本日のラストは……のだめの『ペトルーシュカからの3楽章』!!」

の だめは、豊後牛のステーキを食べようと、大きく口をあーんと開けたところだった。
皆からの視線をいきなり受けて、のだめは目をぱちく りとさせた。

「あ……ハイ」
「すごかったぜ!!。皆圧倒されてたもんな」
「本 当、のだめちゃん、すごい!!」
「素敵なピアノだったわ!!」
「ふん……まあ少しはマシかな」
「ふ おお……」

皆に一斉に誉められて、照れたように顔を赤くしながら、のだめはこそっと千秋を見た。
千 秋の表情はいつもと同じで変化は見られなかった。


……少しは誉めてもらえるかなって思って たんですけどネ……。


のだめは少しがっかりした気持ちになる。

「と にかく、皆、すっごく良かった!!。
 大分の人達、皆が喜んでくれて、会場と一つなれてすごく盛り上がって、本当に最高の演奏だっ た!!。
 今回の演奏の成功を祝って……乾杯!!」
「かんぱーーーーーーいっっっ!!」

ジョッ キが互いにカチンカチンと合わせる音が、大広間に響き渡った。







飲 んだ。

飲んだ。

さんざんに飲んだ。


演 奏後の興奮状態もあり、遠慮無しの飲み放題ということもあり、旅の恥はかきすてということもあり。

男組は疲労と 酔いでそのまま大広間に、がーがーイビキをかいて寝てしまう始末。
女組は、ほどほどの所で切り上げて部屋に戻ったのはさすがというべ きか。

「あー、もう、眠たい……」
「でもシャワーくらい浴びて化粧落とさないと……このま まじゃ眠れない……」
「そうよ、萌!!スキンケアはしっかりとね!!」
「あら?のだめちゃんどうしたの?」

お 風呂道具を持って部屋のつっかけを履こうとしているのだめを見て、清良が声をかけた。

「ちょっと、温泉に入って 来ようと思って。せっかくデスし……誰か一緒に行きまセンか?」
「無理無理、もう酔っぱらってて今入ったら確実にのぼせちゃう〜」
「私 も〜」

どうやら他の女性達は、酒を飲み過ぎて温泉に入る余力がないようだ。

「じゃ あ、のだめ一人で行って来ますネ」
「大丈夫?のだめちゃん」
「のだめ、ほとんど飲んでないし……皆、先に寝てて いいデスよ」
「わかった、じゃあ、気をつけてね〜」

布団の上に寝転がっている女の子達に手 を振りながら、のだめは部屋を出た。







女 性湯のところに入ろうとして、ふと露天風呂への入り口が目につく。
そういえば混浴露天風呂だと言っていたから皆入らなかったが、この 旅館の温泉の中でも一番広く、景色が雄大で素晴らしいのだと女将が言っていた。
昨日、菊池とともに見た宝石箱のようなキラキラと輝く 広大で素晴らしい夜景を思い出した。
のだめは壁にかかっている時計を見る。
夜中の12時過ぎだった。

…… こんな夜中に、温泉に入る人もいませんよネ……。

のだめは思い切って混浴露天風呂に入ることにして、女性専用の 脱衣所に向かった。
さらりと浴衣を脱いで、脱衣籠の中に入れる。
思った通り、他に誰も入浴している客はいないよ うだ。
バスタオルは巻いてもよいと看板に書いてあったので、白いバスタオルを体に巻くとのだめは温泉への入り口の木の扉をガラッと開 けた。

「う……わあ……」

満天の星空だった。
夜 間だからなのか照明も落とされており、無数の瞬く星達が手をのばせば本当に届くように鮮明で。
降るような星空とはまさにこのことを言 うのであろう。

「こんなに……ここではたくさんの星があるんデスね……」

都 会ではけっして見ることのできない星空。
のだめは思わずしばらくの間、星空に見入ってしまった。
少し冷たい澄ん だ空気がひやりと頬に当たり、体がすっかり冷えてしまったことに気づく。。
熊笹や潅木に囲まれ、底まで自然石の野趣満天の露天風呂 に、そっと足からお湯に入っていく。

「あ……」

気持ちいい……。

や はり壁や天井が無く、自然に囲まれてるせいか、とても開放されたような気分になる。
のだめは、ちょうどよい湯加減の温泉にゆっくりと つかりながら、ふうっと満足気な息をつく。

高台にあるこの旅館の露天風呂からは、別府の街のパノラマな夜景が一 望できて、とてもロマンティックだった。
のだめは思わず呟いた。

「……こんな素敵な夜景を 千秋先輩と一緒に見れたらいいデスね……」
「……俺がなんだって?」

後ろから不意に声がし て、のだめは驚いて振り向いた。

「せんぱいっっ!?」

そこには当の本 人、千秋が立っていたのだ。

湯気が霧のように立ちこめて互いの表情がよく見えない中、見つめ合う二人。
の だめがじ……っと目を細めて、何かを確認するかのように見据えた。
そして、ふうっと溜息をついて言った。

「残 念デス……タオル巻いてるんですネ」

ぱしーーーーーんっっ!!。

のだ めは勢いよく頭をはたかれた。

「どこ見てるんだっ!!この変態!!」
「はう〜〜痛いです。 だって、温泉ですヨ。タオルを巻いて入るなんて無粋じゃないデスか〜」
「そう言うお前だってバスタオル巻いてるじゃないか!!」
「はっっ!! まさか、先輩、のだめにここでバスタオルを取れと……そんな大胆な……」
「そんなことは言ってねーーーーっっ!!」

叫 び疲れたのか千秋は、はあっはあっと息を切らし……それからむすっとした表情のまま、どっかりと温泉に座り込んだ。

も ちろんのだめには背中を向けて。

のだめはしばらく迷っていたが、同じように千秋に背中を向けて腰を下ろした。
そ して千秋の背中に、自分の背中をそっともたれかける。
しばらくは、二人とも何も話さなかった。
風が吹いて周囲の 木々がさわさわと揺れる音だけが、静けさの中に響き渡る。

「お前……」

し ばらくの沈黙の後、千秋が振り返らずに背中越しに言った。

「なんで、こんな時間に一人で温泉に入ってるんだよ」
「あ、 ハイ。他の人も誘ったのですが……皆すごく酔ってて」

満天の星空を見上げながら、同じく背中越しに答えるのだ め。
口笛でも吹いてしまいたいくらいになんだか楽しい気分だ。

「こんな夜中に混浴に女一人 で入るなんて……俺だったからいいものの……他の男性客と出会して……何かあったらどうするんだ!」
「何かって?」

ぐっ と言葉につまる千秋。

「……例えば……襲われるとか」

あははとのだめ は朗らかに笑う。

「大丈夫デスよ。のだめなんかを襲うようなそんな奇特な人、いませんヨ」
「…… あのなあ、お前も一応女だろう?。……ちゃんと自覚しとけ」

おや?と思い、のだめはちらっと千秋を振り向いた。
な んだか、その声には本当にのだめを心配するような声色が含まれていたからだ。

「そういう先輩こそ、どうして一人 で?」
「俺は……ちょっと酔い覚ましに」
「わざわざ混浴に?ぷぷぷ。やっぱり温泉で女性客と偶然バッタリを期待 して……」
「そんなんじゃねーっっ!!」

千秋はムキになって叫んだ。

「…… 露天風呂っていうのに入ったことなかったから……入ってみたかったんだよ……」
「そういえば峰くんが言ってましたが、先輩は温泉が初 めてらしいデスね」
「お前は?」
「のだめの実家大川市は、佐賀県に近いですから、よく嬉野温泉とかに家族で行っ てましたヨ」
「ふうん……」

そしてまた会話が途切れる。
旅館の庭園に つくられた小川の水のせせらぎも聞こえてくる。
お湯の温度が野外だからか、ちょっとぬるめでちょうど良かったと千秋は思う。


こ んな風に温泉で二人きりで背中をくっつけている状態なんて……考えただけでなんだかのぼせてきそうだ。


「「あ の……」」

お互いに沈黙に耐えかねたのか、同時に二人で言葉を発する。

「な んだよ……」
「あ、いえ、先輩からどうぞ」
「……お前から先に言え」

ム キャー、カズオデスとかぶつぶつ言いながらも、のだめはそっと切り出した。

「演奏会での……先輩のピアノの演 奏……」
「え?」
「ショパンのピアノソナタ3番の1楽章……」
「………」
「す ごく……すごく、良かったデス」



のだめは、演奏会での千秋のピアノを 思い出していた。

これでもかこれでもかと言わんばかりに叩きつけるような優美で劇的な主題。

そ の音楽は磨き上げられたクリスタルの矢のように会場を駆け抜け……真っ直ぐにのだめの心に直接飛び込んできた。

パ シンと何かがはじける音がした。

それとともにうわああっといろいろな思い出が走馬燈のように押し寄せせめぎ合 う。

千秋との運命的な出会い。
二人で初めてのモーツァルトの連弾。
すっ たもんだがありながらも千秋がまとめ上げた初めて指揮するSオケのコンサート。
長野音楽祭には仲良し4人組で参加したこと。
学 園祭での千秋のラフマニノフ……あの衝撃的な演奏。
「もっと音楽に正面から向き合わないと……」というシュトレーゼマンの言葉。
R☆S オケのブラームスを聞いて涙が止まらなかった。
そして初めて、本気で出場したマラドーナコンクール。
大失敗して 失意のうちに帰郷していたのだめを千秋は迎えに来てくれた……。

千秋と出会ってからの様々な思い出がフラッシュ バックのように脳裏をよぎる。

その間中、ずっと千秋のショパンのピアノソナタはずっとのだめの頭に直接響いてき た。

愛の言葉を惜しげもなく叫ぶように。
何かに向かって祈りを捧げるように。

胸 の動機が激しくなって、頬が赤くなるのを止められない。

そんなの独りよがりの思いだってわかってる。

だ けど、もしかしたら……。

ううん。

そんなこと、絶対にありえない。



で も………。



「ええと……本当にロマンティックで……すごく情熱的でし た。
 高橋くんじゃないけど、なんだか本当に先輩に告白されたみたいで……すごくドキドキしました」

後 ろを向いているから千秋の表情はわからない。
ふふふっと笑う声がする。

「……のだめ、何を 勘違いなこと言ってるんでしょうね〜。
 あれは、コンサートとかで、アイドルが私と目線があった!!っていう思い違いと一緒ですよ ネ。
 ムッキャ〜〜恥ずかしい!!。
 多分、会場にいた女の人、皆そう思ってますヨ!。
 …… 千秋先輩が自分一人のためにピアノを弾いてくれたって。
 これでまたファンが増えました……。
 全く先輩は罪な 男ですネ〜」

後ろを向いたまま冗談のようにちゃかして言うのだめが……なんだかとても愛しくて切なくて。
千 秋は、思わずのだめの肩を掴むと、そのまま強引に振り向かせた。

「え……」

の だめは驚きの表情で千秋を見ている。
目を大きく見開いて。

「あ……」

千 秋は、のだめのその大きな瞳に吸い込まれるような気持ちがした。


言葉が出ない。


言 いたいことは、確かにあるはずなのに。
心の奥底に確かに眠っているのに。


…… それが……それが……出てこない。


のだめが不思議そうな顔で千秋を見つめる。

「先 輩……どうしたんデスか?」




『これから君はのだ めちゃんをどうするつもりなの?』




不意に菊池の 言葉が蘇る。



『才能があるから海外には連れて行く。でも恋人にはしな い。そんな曖昧な関係でずっといけると思ってるの?』



俺は……。


俺 は……。



千秋は知らず知らずのうちに言葉を発していた。

「お 前……」
「……ハイ」

のだめはいつもと違う千秋に戸惑いながらも返事をした。

いっ たい何を言うつもりだろう。

千秋はしばらく言葉を探しあぐねていたが、やがて正面に向き直るとこう言った。

「お 前……」
「………」
「お前……俺に、もし好きな女が出来たらどうする……?」






し ばらくの間、動けなかった。
のだめはこんなに温かいお湯の中にいるのに、一瞬で全身が凍り付いたようになった。
唇 が震えるのを押さえるのに精一杯だった。

千秋の視線がまともに見られない。

の だめは消え入りそうな声で、こう言った。

「先輩……もしかして……好きな人が……できたんデスか?」
「え?」

千 秋はそう問われて、のだめの青ざめた表情に気づいた。

「あ……いや……」

慎 重に言葉を選ぶ。

「いや……別に……」
「………」
「今のところはそん な女性はいない」
「本当……デスか?」
「……ああ」

ふーっ。

の だめの強ばっていた肩から、すとんと力が抜けていくのがわかる。

「そうデスか……」

の だめが、ほっとした和らいだ表情を浮かべるのを、千秋は複雑な思いで見つめる。
なんて言ったらいいのだろうか。

「…… だから、これはもしもの話だ」
「………」
「もし……俺がお前よりも好きな女ができて、お前のことなんかどうでも よくなってしまって……そしてお前をひとりぼっちにしてしまったら」
「………」
「その時、お前は異国の地でどう する……?」

のだめは、千秋の視線をまっすぐに受け止めた。

彼が自分 に問いかけているのだと気づいた。

自分達は、恋人同士ではない、友達というのもまた違うという、なんともいいが たいあやふやな関係のままで留学する。

のだめだけが千秋を好きだという状態で。

…… のだめが千秋を追いかけるという形で。


でも、もし。


も し、その関係が、崩れる時が来たら。
二人が共にいられなくなってしまったら。

その時が来た ら、お前はどうするのかと、今ここで聞いているのだ。


「もし……」

の だめはゆっくりと口を開いた。

「もし……先輩に好きな女性が出来たら……」
「………」

千 秋は固唾をのんで、のだめの言葉を待った。
のだめはゆっくりと息を吐くと、こう言った。


「潰 しマス」





……… ………  ………






「……… はあ?」
「とりあえず、先輩に女性が近寄れないように徹底的にガードしマスね、うん」
「………」
「そ の上で、なおかつ先輩に好意を寄せる邪魔な女の人が出て来たら、とことん嫌がらせをしマス。
 二階からバケツでくんだ水をかけたり、 道の上にバナナの皮を置いて滑らせたり、教室のドアを開けたら黒板消しが落ちてきたり」
「あ、あの……」
「最後 には『死んじゃえ委員会』から二日以内に手紙を百人に出さないと死ぬっていう不幸の手紙を出しマス!!」

千秋は 溜息をついた。


……こいつ、一生、俺のストーカーをする気か……?。


「そ れでも……」
「もういい……聞いた俺がバカだった」
「……それでも」

熊 笹の葉が風でざわめく音や、小川のせせらぎの音とともに、のだめの静かな声がした。

「……それでもたじろがない 女性が現れて……そして、その人のことを本当に千秋先輩が好きになったんだったら……」
「………」
「のだめは先 輩のことを諦めマス」

千秋はのだめの顔を見た。
その表情は、優しく微笑んでいる。

「千 秋先輩が、本当に好きになって……本当に愛した女性ができたなら、そしたらのだめはきちんと潔く諦めマス」
「………」
「の だめは、先輩のことが好きだから」
「………」
「先輩には、一番幸せになって欲しいから……」

あ、 でも……と、のだめは悪戯っぽい目つきになってぷぷぷと笑った。

「ゴールデンペアの座は、いくら先輩の彼女とい えども譲れませんヨ」
「………」
「先輩が、どんなに実力を上げてどんなに世界的に有名になっても、先輩の隣にい るピアニストはのだめだけデスからね」
「………」
「……どんなことがあっても」
「………」
「ど んなに苦しいことやつらいことがこれからあっても」
「………」
「どこまでも、どこまでも」
「………」
「の だめは、地の果てだって先輩を追いかけて行くんデスから!!」

そう断言するのだめの笑顔は、本当に輝くくらい眩 しくて。
その瞳は迷うことなく、真っ直ぐに前だけを向いていて。



千 秋は思わずのだめを抱きしめていた。



「せ……んぱい……?」

の だめは千秋の裸の胸に抱かれていた。
火照った剥き出しの肌と肌が触れ合う箇所が信じられないくらい熱くて。
バス タオルは半分ずり落ちている。
のだめは自分の胸が何も覆われていない状態で千秋の胸に押し当てられていることに気づくと、さっと顔が 赤く染まった。

「あ……あの……」
「……い」
「え?」

聞 きそびれたのだめの耳元で千秋の声が囁く。

「ちゃんと、俺を追いかけてこい!!」

の だめは上を向いた。
千秋の瞳が優しくのだめを見下ろしている。
のだめは大きく頷いた。

「ハ イッ!!」






…… やばい。


この状態はとてもやばい。


千 秋はそんなことを思っていた。

腕の中には半裸状態の女がいる。
その豊満な柔らかい胸が直に 自分の胸に押し当てられているのを感じる。
彼女は自分に好意を寄せていて。
そして今の千秋自身も彼女が自分に とって特別な存在であるということを、素直に認めている。


やばい。


下 半身に意識が集中していくのがわかる。
頭にも血が上っていって、なんだか朦朧としてきた。


も う……どうでも……いいよな、この際……。


そう思って千秋がのだめを抱く腕に、よりいっそ う力を込めた瞬間。


ガラッと戸が開いた。


「千 秋くーん、どこ〜!?」
「ちっあきさま〜何処ですかあ〜」






………  ……… ………






「ま……」

真 澄ちゃんと高橋くん……と言いかけたのだめの口を千秋が塞いだ。
もごもごと千秋の手の中でのだめの言葉は堰き止められる。
そ れから思いっきり小声で言う。

『お前、ここから出ろ』
『え……でも……』
『早 く……俺が奴らを引き止めておくから』

その間も、二人はどんどんこちらに近づいてくるようだ。

「も う、誰よ!!。千秋様がどこにもいないから、きっと露天風呂だなんて言ったのは」
「おっかしいな〜。あっちの方かな」

近 づいてくる声。

『早く!!』

千秋のせっぱ詰まったような声に、のだめ はそっと千秋から離れると温泉から出ようとする。

チャポーン。

そのか すかな音を、真澄と高橋は聞き逃さなかった。

「むっっ!?」
「何か、あっちの方で音がした わね」

高橋と真澄は、ざぶざぶと湯をかき分けて、女性専用入り口の方へ進んだ。
そこへ、千 秋がぬっと現れた。

「……おう」







………  ……… ………







「千 秋様〜〜〜!!こんな所にいたなんて〜〜〜!!真澄、嬉しい〜〜っっ!!」
「千秋くん好きだあーーーーーーーーっっ!!」
「ヒ イイッッ!!やめろーーーーーーっっ!!下半身当たってるからーーーーーっっっ!!」

夜中の露天風呂に、千秋の 悲鳴が響き渡る。
無事に脱衣所にたどりついたのだめはそっと涙を拭った。

『千秋先輩……自 分の身を犠牲にしてまでのだめを守ってくれたんデスね……』

千秋の悲鳴はしばらくの間、静まりかえった旅館中に 響き渡っていたとかいないとか……。







次 の日、げっそりとやつれきった状態の千秋は、皆の忠告にも耳を貸さず、一人無言で寝台列車で東京に帰っていったという……。







終 わり。