「宿についたぞ
〜!!」
峰は後方座席に向かって叫ぶと、ドアが開くのを待ちきれないようにバスから飛び降りる。
他
のみんなは先ほどまで夢の世界にいたらしく眠そうな目をこすりながら
「ああ、眠かった……」
「バ
スの振動って気持ちいいのよね〜」
「大河内くん、よだれの跡ついてるよ」
「えっ!嘘だろっ!!」
慌
てて大河内が口元を拭う。
なんだか口の横にかりかりと乾いたものがこびりついていた。
「さっ
きまでくちをぽかーんと開けて寝てたし」
「いや、まてっ……そんな筈は……」
二つのア
ミューズメントパークを一日のうちに回るという超過密スケジュールにより、全員の疲労はピークに達していた。
「お
帰りなさいませ」
来たときと同じように仲居達が並んで頭を下げ出迎えてくれた。
そのうちの
一人が大河内に近寄ってきてにっこりと笑った。
「守ぼっちゃん、皆様、さぞお疲れになったでしょう。とりあえず
食事の前に一風呂浴びていらっしゃったらいいんじゃありませんか?。
その間に大広間に食事の準備をしておきますので」
「そっ
か。うん。先に風呂だな」
「おおっ!いよいよ別府温泉か〜!!」
「バスの中熱かったからちょっと汗かいちゃった
もんね。助かる〜」
そ
ういうことで一旦部屋に戻り、各自それぞれ風呂に入ることになった。
千秋達が部屋に戻るといつの間にか座卓の上にはピシイっとのりで
固められたグレーの格子模様の浴衣と丹前帯が人数分並んでいた。
「うん、なんだか浴衣を着ると気分がくつろぐよ
ね」
「クロキン、さすがに武士だな〜。浴衣姿が板についてるよ」
「……別に武士じゃないけど……」
「俺
の帯結んでくれねえ?さっきからうまくいかなくってさあ」
「うん、いいよ」
黒木は慣れてい
るのであろうか、峰の襟元をさっと整えきゅっと帯を結んだ。
千秋はそつがない男なのでこういうことにおいても他人にひけをとらない。
浴
衣を羽織りさらっと着こなすところはさすがだ。
「うわあ……さすがだねえ、千秋くん」
黒
木が目をみはる。
「え?……何?」
「浴衣姿とても格好いいよ。なんだか男の色気があるって
感じでさ」
「うぉぉぉぉーーーっっ!!感激だーっっ!!千秋くんの生浴衣姿がこの目で見れるなんてっっ!!」
高
橋が帯を結ぶのもそこそこに胸をはだけたまま千秋に飛びかかろうとする。
そこを真澄が足を引っかけて転ばしあっという間にその上に馬
乗りになった。
「私の目が黒いうちには千秋様には指一本ふれさせないわよっっ!!」
「ちょっ
と!何するんだよー!!」
そしてどこから持ち込んだのか、ロープを使って動けないように高橋の体を縛り上げた。
口
には猿ぐつわをはめられているため、高橋は文句が言いたくてもふごふごとしか声がでない。
「さっ、千秋様。危険
人物は排除しておきましたから、みんなで温泉に入りに行きましょう」
千秋の腕を取りぽっと頬を赤らめる真澄を千
秋は冷たい視線で見下ろす。
「…………」
「千秋様?」
そ
してしばらくして高橋と同様にイモムシのように縛られて転がされている真澄の姿がそこにあった。
「どうして私ま
で縛られなくっちゃいけないのよ!!」
「あー悪いな、真澄ちゃん。俺たち先に温泉に入ってくるから……帰ってきたらほどいてやるから
後で高橋と二人でゆっくり入れよ、な、」
「ひどいぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!」
部屋中に真澄
の抗議の叫びが響き渡った。
大
分県別府市の温泉は源泉数、湧出量ともに日本一であることは言うまでもない。
その中でこの旅館の温泉の特徴というのは特に美肌に効果
が高いといわれる重曹泉で通称「美人の湯」と呼ばれている。
かなり風呂の規模が大きいようで千秋達は腰にタオルを巻き付けたまま、ま
ず岩風呂に入ることにした。
扉を開けるとむわっとくる湯気と温泉特有の香り。
時間帯がまだ早いせいか、他の利用
客はいないようだ。
貸し切り状態であるということになんだか妙に嬉しくなってくる。
「う
ほーっっっ!!」
と雄叫びを上げて岩風呂に飛び込んだ峰を筆頭に、黒木、菊池、大河内もそれぞれ後に続く。
……
ところが千秋だけはなかなか湯船につかろうとしない。
足をつけかけてはなんとなくためらっている様子がうかがえる。
「?ー
どうしたんだ、千秋。入らないのか」
峰が腰のタオルを取り去って頭に乗せ「いい湯だな」を鼻歌で歌いながら聞
く。
「い、いや……実は……温泉に入るのは初めてで……」
それを聞い
た残りのメンバーはいっせいに吹き出す。
「ぎゃはっはっはっは!!お前、本当に日本人かーっ!。その年まで温泉
に入ったことねーのかよ!」
「う、うるせー。俺はずっと海外でくらしてたんだからそういう経験がねーんだよっ!」
「あ
あ、そうか。まあいいから入ってみろよ〜。すっげえ気持ちいいから!」
そう言われて千秋はごくりと生唾を飲み込
むとそろりと片足から湯につけていく。
普段入っている風呂のお湯の温度より少し高めであるが、慣れればたいしたことはなさそうだ。
ゆっ
くりと体を沈める。
わずかに褐色のしっとりとしてそれでいてさらっとした感触の熱いお湯が体中を包み込み……なるほど、これは心地良
い。
ふうっと思わず満足の息がこぼれる。
「な、気持ちいいだろ?」
「……
ああ」
「そういえば千秋ってこないだまでこたつに入ったことなかったんだよな〜」
「えっ?」
黒
木がびっくりしたように千秋を見る。
「そうなの?千秋くん」
「………」
「千
秋くんって本当にバリバリの帰国子女だったんだなあ」
菊池が面白そうに言う。
「ま
あ、確かに千秋くんがはんてん着てこたつでごろ寝してみかん食べてる姿なんて想像つかないけどね」
その時、仕切
られた壁の向こうでカラリと扉の開く音がした。
確かこの壁の向こう側は女湯になっていた筈だ。
何人かの女性がく
すくすと笑いながら入ってきた様子に男性陣はなんとなく耳をそばだてる。
「うっわ〜〜広いデスね〜!このお風
呂!」
「ちょっと〜すっごく感じがいい〜」
「ねえ、温泉の効能に『美肌に効果があり肌がすべすべになります』っ
て書いてるよ〜」
「いやだ〜ちょっと、みんな長湯しようよ〜」
「あ、あれ清良達じゃない
か」
峰は気づくなりでかい声で板の向こうにむかって呼びかけた。
「お
お〜〜い!!清良、入ってるのか〜〜!!」
岩風呂の壁に響いていつもと違った不思議な声となる。
「な
に?龍なの?あんたたちも入ってるの?」
「ああ。俺たちの方が先に来てたぞ。すげーだろ、こっちの男湯貸し切りだぜ〜」
「こっ
ちの女湯だって貸し切りよ。私達以外誰もいないわよ。そっちは誰がいるの?」
「千秋と菊池とクロキンと大河内だ。真澄ちゃんと高橋は
(縛って)置いて来た」
「あ……そう……やっぱり危険人物は置いてきたっていうことね」
そ
れを聞いていた萌と薫はくすくすと笑う。
「何?」
「なんだか」
「ね
え」
「お風呂屋さんに来た夫婦みたいなんだもん、清良と峰くん」
それを聞いた清良はのぼせ
た訳でもないのに顔が真っ赤になった。
舞子がいたずらっぽい顔で笑いながらやはり板の向こうに呼びかけた。
「やー
い、峰くん。いいでしょう、私達清良と一緒にお風呂に入ってるのよ〜」
「いいなあ〜俺もそっちにはいりてえ〜〜」
素
直に答える峰。清良はそれを聞いてますます真っ赤になる。
そんな清良の腕をがしっと掴むのだめ。
急に腕を掴まれ
てびっくりする清良を尻目にのだめはうっとりと撫でながら遠い世界に行く。
「はうん……清良さんの肌すっごくす
べすべデス。ツルツルで触り心地がいいデス〜」
「へ?」
ぱちくりと峰が目をまばたかせる。
「峰
クンは幸せものですネ〜」
「ちょ……ちょっとあの……のだめちゃん?」
「おいっ!!のだめっっ!!」
峰
がいきなり立ち上がる。
「お前〜〜!!勝手に俺の清良に触るなよな!!」
「まあまあいい
じゃないデスか」
「この変態!」
「あら、それをいったらのだめちゃんだって」
萌
まで調子にのってきた。
「もとから色白で透き通った肌なのに温泉でほんのり桜色にそまって……すっごく色っぽい
わよ〜」
千秋は皆に背を向けていたのでその表情はうかがうことはしれなかったが、その肩がぴくんと動いたような
気がした。
「え……あ、そこはちょっと……はうんっ」
「やだあ、のだめちゃん反応も可愛い
〜」
「ちょっと薫にも触らせて〜」
形勢が逆転だ。
「そ
れをいうなら音楽会の叶姉妹でしょう。二人そろってDカップの胸が……迫力あるう」
「やだあ、もう舞子だって胸の形すっごく綺麗じゃ
ない。ツンと上向いてるわよ」
「いやん、もう露骨なんだから〜」
きゃあきゃあとはしゃぎな
がらお湯をかけあう声が板ごしに聞こえてくる。
呆然と女性陣達がお互いの体でふざけ合う様を聞いて呆然としていた男性陣だが……。
突
然峰がぐいっと鼻を拭った(鼻血でも出ていたのだろうか)。
「………のぞきに行くぞ」
「「「「……
は……?」」」」
思わず全員の声がハモる。
「温泉といえばのぞきだろ
う!だってすぐ隣に裸体の女達がいるんだぜ!ここでのぞかなかったら男じゃねえっ!!」
「み、峰……それはちょっと違うんじゃ……」
「い
いから黙って俺についてこい!!」
「峰!こっちこっち」
大河内が男湯と女湯を遮る板の壁の
端の方から手招きをした。
「ここの岩場を上ったら女湯が一望できるんだ。これは子供の時からボクが発見した穴場
スポットなんだぜ」
「おおこうち〜〜!!お前って奴は……お前って奴は……(感涙)こんな時にだけは役にたつなあ!」
「こ
んな時にだけってのは余計だろ!」
「そういうことならボクも……」
菊池がキラリンと目をひ
からせて峰の後を続きお湯の中をジャブジャブと進む。
「き、菊池?」
「それじゃあ僕も」
と
まどう千秋の前を黒木も通り過ぎていく。
「え?えーっっ!?。黒木くんまで行くの!?」
「う
ん。まあ、何事も経験だしね」
「経験って……」
「おう、そうだぞ!クロキン、早くこっちにこーい!!」
「千
秋くんも行こうよ。オーケストラはハーモニーが命だよ」
そういって黒木は千秋に向かってにっこり笑った。
「黒
木くん……なんか人格変わってる……?……な、何かあったの……?」
何かがふっきれたようないつもと違う黒木の
行動に千秋は冷や汗がひとしずく伝わり落ちるのを感じていた。
その間にもバカな男どもは積み上げられた岩をどんどん登っていき、つい
には板と天井の境目くらいにまで行き着く。
「おおっっ見える見える……」
「でも湯気が邪魔
してよく見えないな……」
「みんな後ろ向いてるから肝心なところが見えないんだよね」
「おっ……あのボブ頭はの
だめか?こっち向くぞ……」
のだめの名前が出た途端に千秋のあせりは限界に達した。
「お
いっっ!!お前ら………」
千秋が大声をあげようとした瞬間、男湯の扉がガラリと開いた。
「千
秋くーん!おまたせ!!やっと縄がほどけたよっ!」
「千秋様ーーっっ!千秋様の背中はこの真澄がお流しいたしますっ!!」
い
きおいよく入って来たのは……高橋と真澄。
どうやら縛られていた縄を自力でほどいてこの風呂場目指して走ってやってきたらしい。
ち
なみに二人とも腰をタオルで隠すなどとヤボなことはしていない。
局部全開だ。
「く、来る
なーーーーっっ!!」
千秋はパニックに陥り迫ってくる猛獣から逃れようと必死で逃げ場を探す。
と
ころがこの風呂場には出入り口は一つしかなく、まさにその方面から敵はやってきているのだ。
千秋は峰達が登っている岩を必死で登り始
めた。
「千秋くん〜。なんで逃げるの〜〜」
「千秋様!何も怖いことはありませんのよ!!」
変
態二人組も千秋の後を追い岩を登り始めた。
必死で上へ上へ進む千秋。
「お、おい……千秋、
押すな……押すなってばっっ!!」
すごい勢いで登ってくる三人がどやどやどやっと女湯の方へ身を乗り出していた
峰達にぶつかって……。
そのままなだれおちるようにして全員が女湯のお湯の中へ次々と落下していった。
「きゃ
ああっ!!」
「何?あなた達っっ!!」
「ちょっとっ!!」
千秋は薄れ
いく意識の中で、女の子達の悲鳴と叫び声を聞いていた。
「……
まったく……あんた達はわざわざ九州くんだりまでやってきて何恥さらしてるのよ!」
清良は罰として一列に正座さ
せられた男達の前で腕を組んで怒っていた。
「龍や菊池くんだけならともかく……黒木くんや千秋くんものぞきに参
加するなんて……」
「いや、清良それは……」
「問答無用!!」
言い訳
しようと口を開きかけた千秋を遮って、清良はピシャリと言う。
「しばらくそこに座って反省しなさいっ!!」
途
端にしゅんとおとなしくなる男達。
その間に萌と薫は千秋の両隣からすり寄る。
「千秋様……
そんな、のぞくくらいなら言ってくれればよかったのに……」
「私達…いつでも千秋様にお見せする準備は出来てます」
「い
や……その……」
「先輩っっ!!」
のだめが千秋の前に立ちはだかる。
そ
の背中からは凶悪にどす黒いオーラがゆらゆらと立ちこめている。
「先輩が女風呂をのぞくような人間だとは思いま
センでした……」
「あの……のだめ……」
のだめはキッと千秋を睨み付ける。
「の
ぞきはのだめの専売特許デス!!のだめのステータスデス!!先輩のような素人が簡単に手を出していいもんじゃありまセン!!」
「……
恵ちゃん……それはちょっと怒りのツボが違うんじゃ……」
「黒木くんは黙っててくだサイ!」
「まあまあ。それに
しても……」
重苦しくなったこの状況にもかかわらずマイペースな菊池はのほほんと言う。
「み
んな浴衣がよく似合ってるよね」
そういうところはけっしてはずさない菊池だった。
この旅館
では女性限定で別料金で色浴衣の貸し出しを行っている。
30種類の最新の色柄浴衣が用意されているとあっては、選ぶ方も気合いが入る
というものだ。
舞子が選んだのは美しい緑地に流れる花火を描いたと思われる現代的な色遣いの浴衣。
萌
が選んだのは紺地に白と黒の薔薇を描いた大人風味な浴衣。
薫が選んだのは黒地に白百合が描かれたしっとりとした色気のある浴衣。
清
良が選んだのは鮮やかな朱地に桃色の牡丹の花が咲き誇っている華やかな浴衣。
そして、のだめが選んだのは……。
ほ
のかな淡いピンク色の浴衣地に桜の花が描かれているとても可憐で愛らしい浴衣であった。
「なんだか見違えちゃう
よね。ね、みんな」
菊池がにこにこ笑いながら男性陣に同意を促す。
とりあえずここで否定な
んぞしようものなら何をされるかわからないという恐怖もあいまってこくこくと頷く男達。
「え……」
「そ、
そう……?」
やはり女の子である。
着ているものを誉められればさっきまでの怒りはどこへや
ら、急に態度がしおらしくなる。
「お、おう。俺もさっきから思ってたぞ!清良!その毒々しいド派手な赤い色がよ
く似合って……ふごおっ」
峰は清良から鼻に強烈なパンチをくらって後ろに倒れた。
「……
峰くん……」
「……どこまでもバカな奴……」
高橋がちーんと合掌をする。
の
だめはおそるおそる千秋に近づいて顔色をうかがった。
「先輩……のだめの浴衣姿どうデスか……?似合ってマス
か……?」
千秋はちらりとのだめを見る。
髪の毛は後ろで一つにまとめて上の方でお団子にし
ていた。
まとめきれなかった髪の毛がはらりと白い首筋に垂れていてそれが……なんとなく色っぽい。
先ほどまで風
呂に入っていたせいか石鹸の香りがした。
いつも飽きるほど近くにいるがこんなのだめを見たのは初めてだった。
千
秋はなんとなくのだめが直視できずにぷいと顔を逸らす。
「さあな」
「う〜〜。先輩にのだめ
の色仕掛けは通用しないデス!」
のだめはがっかりしたように肩をすくめる。
そこへ真澄が
ムッとした表情で大河内にくってかかった。
「ーちょっと!なんでこの子達ばかりこんな綺麗な浴衣着てるのよ!私
達の部屋には一種類の平凡な浴衣しかなかったじゃない!!」
「いや……その、色柄浴衣は女性限定のサービスだから……」
「私
も可愛い浴衣着たいわよ!!」
「……あの……甚兵衛なら男性にも貸し出ししてる筈だけど……」
「そんなオヤジく
さいもの着ないわよーーーっっ!!」
み
んなでわいわいじゃれている間に食事の用意が出来たと仲居の一人が呼びに来た。
ちょうどお腹の空いている時刻であり、足取り軽く大広
間に向かう。
ぱっと開けた和室の奧の畳の上には11人用の豪華な会席料理が置かれてあった。
「うっ
わ〜〜、すご〜〜い!!」
萌が声をあげたのも無理はない。
鮎甘露煮や桧扇貝黄金焼き、百合
根饅頭などの前菜5種に、椀物、関鯵関鯖の姿造り、甘鯛素麺掛け、賀茂茄子の田楽、豊後牛ステーキ、天ぷら盛合せに加えて
フルーツ盛
合せまでついている豪華絢爛の料理だったからだ。
「僕の友達がはるばる東京から来るからって、料理長に頑張って
もらうって母親が言ってた」
皆の輝いた顔を満足そうに見ながら大河内が言う。
「で
も……こんなご馳走……本当にいいの?大河内くん」
「無料だって言ってたけどやっぱり別料金取るんじゃ……」
「い
いのいいの気にしなくて。なんてったって僕の家はけっこう『金持』だからね」
「………嫌な奴………。でもいいや、とにかく乾杯しよう
ぜ!!」
峰の音頭により、ビールの栓がすぽーんと勢いよく開けられそれぞれ並々と注がれたビールのコップが交わ
された。
「かんぱ〜〜いっっ!!」
も
ともと宴会好きな彼らのことだ。
タダ酒は飲めるし極上の料理があるとなっては盛り上がらない筈はない。
みるみる
うちに床に転がったビール瓶の数が増えていく。
千秋は仲居さんから勧められて大分の麦焼酎を口にしていた。
「関
鯵とか関鯖ってなんデスか?」
のだめが隣に座って大分の名酒「西の関」を飲んでいる黒木にたずねる。
「大
分の豊後水道に面した佐賀関町で取れる鯵や鯖のことだよ。その辺りは潮の流れが速くて魚が身がしまってて美味しいんだって。
全国でも
有名なブランドらしいよ」
「黒木くん、本当に物知りですネ。でも本当にこのお造りおいしいデス」
「熱燗ともすご
く合うよ。少し飲んでみる?」
「じゃあ、少しだけ……」
のだめは黒木に勧められるがままに
杯を傾けてみた。
まろやかですごく芳醇でそれでいて懐かしいどっしりとした酒の風味が口の中に広がった。
甘いの
でとても飲みやすい。
「おいしいデス」
「のだめちゃん、けっこういける口だよね」
隣
の席から菊池がひょこっと顔を出した。
「はう〜。でもすぐに酔っぱらっちゃうんデス〜」
「本
当だ。少し飲んだだけなのにもう顔が赤くなってる」
そういいながら菊池はすっと手をのばしてのだめの頬にさわっ
た。
その冷たい指の感触にのだめは少し身を震わせた。
「うひゃっ。菊池くん、手が冷たいで
すネ」
「きっと心が温かいからだよ」
「……それは俗説であって実際の体温と性格とは関係ないと思うけど」
黒
木がさりげなくのだめの頬から菊池の手を外して冷たく言った。
「女の子にそんなに気安く触るものじゃないと思う
よ」
「やだなあ。黒木くん。酒の席でそんなにマジになっちゃって……ねえ、のだめちゃん」
「は……はあ」
「嫌
なら嫌ってはっきり言った方がいいよ、恵ちゃん」
「は……はあ」
「別にのだめちゃんは黒木くんの彼女じゃないん
だから関係ないよね、のだめちゃん」
「は……はあ」
「困ってる友達をほっておけないだけだよ、ねえ、恵ちゃん」
「あ、
あううう」
も、もう勘弁してくだサイ!!。
なぜだか険悪になった菊池と黒木の間に挟まれて
どうしてよいかわからないのだめであった。
そ
の頃真向かいの席では高橋を早々に縛り上げて、真澄は千秋の隣をゲットしていた。
「千秋様、今夜はゆっくりと飲
みましょうね」
「真澄……もうちょっと……離れてくれないか?」
体を擦り寄せてくる真澄に
ちょっと身の危険を感じながら千秋が言った。
その様子を見て真澄はくすくす笑いながら不意に表情を改める。
「千
秋様……」
「なんだ」
「……パリへ行っても頑張ってくださいね」
「あ?……ああ」
「そ
れからあのバカ面ひょっとこ変態娘のこともどうぞよろしくお願いします」
「………」
真澄は
黒木と菊池の間で縮こまっているのだめの方を優しい目で見ていた。
「……年末にのだめがうちに来て大泣きしたこ
とがあるんですよ」
「え……?」
「コンクールで大失敗して……帰郷する前の晩だったかしら。
飲めない酒かっくらって悪酔いしてわんわんわんわん大泣きして」
のだめが……?。
千秋は真
澄の言ったことに耳を疑った。
のだめの涙を千秋は一度も見たことがなかった。
響希が亡くなった時も……コンクー
ルで惨敗した時も……のだめはいつも千秋に泣き顔を見せたことがなかった。
つらい時でもぐっと目を伏せて歯を食いしばっていつも虚勢
をはっていた。
今日だってあんなに肩を震わせていたのにその涙を千秋のシャツに全て吸い込ませただけで、顔を上げることはけして無
かった。
そののだめが……真澄の前では感情を露わにしたというのだろうか。
「先輩が遠くへ
行っちゃう、もう自分は追いつけないんだって……もう涙をぽろぽろ零しながらずっと泣き続けるんですよ」
「………」
「千
秋様」
真澄は千秋に向き直ると静かに言った。
「あの子……ああ見えて
すごく意地っ張りなんです」
「………知ってる」
「どんなことがあっても一人で全部抱えこんで……自分だけで解決
しようとして……けっして千秋様に頼ろうとはしないと思うんです」
「………ああ」
「だから……よけいに心配なん
です」
千秋は目を伏せた真澄を見つめ、しばらくの間黙ったままだった。
そして口を開く。
「で
も……あいつなら心配いらない」
「え……?」
「確かに悩みを一人で抱え込んでパンクしてしまうこともあるかもし
れない。
俺はその時にうまく力になってやれないかもしれない。
だけど……それを乗り越えられる力があいつに
はあるから。
すごく悩んで悩んで苦しむかもしれないけど……いつかはちゃんと自分一人の力で立ち上がることが出来る奴だから……」
「………」
「だ
から大丈夫だ」
「………」
「なんの役にも立たないかもしれないけど……俺も……ちゃんとそばにいるから……」
「千
秋様……」
真澄はうっすらと滲んだ目元を拭い、くすんと鼻を鳴らした。
「な
んだか出来の悪い妹を嫁にやる気分です」
「……嫁じゃねえ」
「そんなことわかってます!!。ただの例えで
す!!。
いいですか?千秋様。
パリへ行って日本人が他にいなくて、たまたまのだめがそばにいて、あんな奴で
もふと可愛く見えてしまうことがあるかもしれません
でも、それはぜええええっったいに幻想ですから!
まかり
間違っても一時の感情に身をゆだねてしまっては駄目ですよ!!
パリだろうがどこだろうが、あれはろくに風呂に入らない、髪洗わな
い、部屋散らかしまくりのただのド変態ですから!!」
「……お前らって本当は仲がいいの?悪いの?」
「失
礼します」
いきなり声がしてがらりと広間の障子が開いた。
そこには大河内の母……この宿の
女将が膝をついていた。
「宴もたけなわの頃に申し訳ございません。実は皆様に折り入って相談があるのです
が……」
続
く。