「R☆S
オーケストラの……出演依頼……?」
千秋はまさかこんな場所でそんなことを言われるとは思ってもみなかったので
すぐには反応できなかった。
酔い覚ましのためにお茶をぐびりと飲む。
女将の話は突飛なものだった。
大
分県には美術科と音楽科の2学科を有する短期大学として大分県立芸術文化短期大学というものがある。
学生達が在学中の成果を披露する
場として3月に音楽科卒業演奏会が毎年開かれるというのだが、そのサプライズゲストとしてR☆Sオーケストラに演奏してくれないかということだった。
「あ
ちらの学長さんはこの旅館の古くからのお客様で、いつもご利用いただいているんです。
たまたま今お客様として来て頂いているのです
が、息子が入ってるR☆Sオーケストラメンバーが卒業旅行としてこちらに来ているという話をしたら…すごく興味が湧かれたみたいで。
今こちらではインフルエンザがはやっていて、その演奏会に出演予定の学生が何人も欠席することになって時間がかなり空いてしまうらしいんですよ。
東京で活躍中のR☆Sオーケストラに何曲か演奏してもらったらとても盛り上がるだろうし学生達への刺激にもなるからぜひお願いしてもらえないかとおっしゃ
られて…」
「いや……そんなこと急に言われましても……こちらは本当にプライベートで来てるだけですし……だいたいその演奏会ってい
つなんですか」
「明日の夕方が開演だそうです」
「あ……明日っ!!そんな、無理ですっ!!」
「い
いじゃないか、千秋やろーぜ」
峰がいつの間にか千秋の真後ろに来ていてにこにこしながらポンと肩を叩いた。
「峰……
お前はまたそんなことを簡単に……」
「いいじゃん。なんだか楽しそうだし♪」
「あ、あのなあ」
千
秋はほとほと呆れかえったような眼差しで峰を見つめる。
「だいたいこの少ないメンバーで何ができるっていうんだ
よ。
……指揮者2人、ヴァイオリン3人、チェロ1人、オーボエ1人、フルート2人、クラリネット1人、打楽器1人、……ピアノ1人
だぞ。
このメンバーで曲を演奏するとなったらなんの曲を演奏するにしても大幅な編曲を行わないと……」
「大丈
夫、大丈夫。天才指揮者のお前だったら出来るって!!」
「おい……」
「それに、この旅館には無料で泊めてご馳走
まで食べさせてもらってるんだし恩返しくらいしないとなー」
「ぐ……」
「千秋くん」
清
良がすっと前へ出た。
「……そのうちの1曲はヴァイオリン協奏曲ってのはどうかしら。それだったら私がどうにか
できるし」
「清良までそんなことを……それにお前らいいのか?せっかくの卒業旅行なんだろう?そんなことしてたら遊ぶ暇がなくなる
ぞ」
それぞれ顔を見合わせ、やがてメンバー全員が申し合わせたようににっこりと笑った。
「ー
旅行も楽しいけど、やっぱり楽器に触らない日が続くと落ち着かないよね」
「このメンバーで少数制のオーケストラっていうのもまたとな
い機会だし」
「地方公演……って……なんだかプロみたいですね!」
結局はこいつらって根っ
からの演奏者なんだよな……。
千秋は諦めたようにため息をついた。
……しかし……リハのことも考えると……編曲
は明日の朝までに仕上げておかないといけないってことか……。
……俺、今晩眠れるんだろうか……。
「チェ
ロ協奏曲やろうよ。もちろんソリストはボクで」
策士菊池が千秋に微笑みかける。
すると舞子
が菊池の頭を押さえ込みたたみかけるように千秋に訴えかけた。
「フルート!!。フルート協奏曲!!」
「萌
も賛成で〜す!」
「いや……まだ、出演すると決まった訳じゃ……」
「クラリネット協奏曲も素敵なんですよ」
「オー
ボエ協奏曲なら一度R☆Sでやってるから編曲も楽じゃない?」
「……黒木くんまでそんなことを……」
「はーい、
先生ー!!わたしやりたいのありまーす!!」
「オレもオレも!」
清良と峰が争うように手を
あげる。
「「マーラーの『千人の交響曲』ーっ!!」」
「っっできるか
あーーーーーっっっ!!」
千
秋は詳細の打ち合わせをするために、別室にいるという大分芸短大の学長に会いに女将に案内されて部屋を出て行った。
2人が出て行った
後も皆の興奮は収まらなかった。
「ゲスト出演って……時間どのくらいもらえるのかな?」
「短
い曲なら2,3曲はいけるんじゃない?」
「じゃあやっぱりチェロ協奏曲かな」
「フルートだってば!」
「ク
ラリネットを忘れてません?」
「だからオーボエ協奏曲なら一度やってるんだし……」
「ここは丸くヴァイオリン協
奏曲でしょう!!」
「オレがソリストで!!」
「何言ってるんだよ!今現在コンマスは僕なんだから僕がソリストに
決まってるだろう!!」
皆が楽しそうに演奏曲について話し合ってる様をのだめは寂しそうにしばらく見ていたが、
そうっと部屋を抜け出した。
酔い覚ましに散歩でもしようと旅館の下駄を借りて庭に出る。
「わ
あ……綺麗デスね……」
思わず声を上げる。
別府市は海に向かうなだらかな丘陵地なので、起
伏のある立体的な夜景が見られることで有名だ。
高台に建てられたこの旅館からは宝石箱をひっくり返したような夜景が一望できた。
「す
ごくロマンチックな場所だね」
急に後ろから声をかけられてのだめはびっくりして振り向く。
そ
こにはいつの間にか菊池がいつもの微笑みを浮かべて立っていた。
「菊池くん……みんなと話してたんじゃなかった
んデスか?」
「のだめちゃんが部屋を出て行くのが見えたからね。どこへ行くんだろうと気になって」
相
変わらず目ざとい男だ。
のだめは少し笑ってみせるとふっと目を伏せた。
「なんとなく……み
んなの輪に入りずらくって……」
「………」
「のだめはR☆Sオケの一員じゃないデスから……。今回の旅行だっ
て、おまけで来させていただいたようなものデスし……」
「ーだったらピアノ協奏曲がやりたいって自分からいえばいいんじゃない?」
の
だめはびっくりしたように目を丸くして菊池を見つめたが……やがてゆっくりとかぶりを振った。
「駄目デス……今
ののだめじゃ多分……皆と音を合わせることもできないデス……無理デス……」
菊池は黙ったままのだめの隣に立っ
た。
そのまま二人で無言のまま夜景を見つめる。
「そういえば……」
話
題を変えようとのだめが菊池に話しかけた。
「菊池くんって女の子に手が早いって本当デスか?」
「……
なんで?」
「黒木くんがさっきこっそり教えてくれました。だからくれぐれも二人きりになっちゃいけないって」
「……
黒木くんが……?」
そんなことを言うような人間ではなかったと思ったが。
この旅の中で黒木
の知らない部分を発見したような気がして、菊池は苦笑する。
真面目で冷静沈着な武士のような彼も、この少女のことではペースが狂わさ
れてるようだと思った。
「うーん、そうだね。女の子はみんな好きだよ」
「それで三股とかし
てたんデスか?」
「……それも黒木くんから……?」
「イエ、これは峰くんがいつか言ってました」
菊
池はうーんと唸る。なんだか周囲が敵だらけのようだ。
「……まあ、確かにそんな時期もあったけどね」
「一
人の女性だけじゃ満足できないっていうタイプなんデスか?」
「さっきから質問ばっかりだね。……そんなに僕のことが気になる?」
菊
池から逆に問われてのだめは首を傾げた。
「気になるっていうか……菊池くんてなんだかすごい人だなあって」
「……
すごい?」
「だって何人もの女性と同時につきあうなんてそれだけ心に余裕があるってことなんでしょう」
「………」
「……
のだめなんか……たった一人を見てるだけで……それだけでもうせいいっぱいなのに」
「………」
「その人のことを
考えるだけで苦しくて切なくて胸がぎゅううっと痛んで、頭がいっぱいいっぱいになってしまって
……他の人のこと考える余裕なんてな
いんデスよ」
きっと頭の脳みその容量が少ないんデスねーとのだめは笑いながらいう。
「……
だから、いつでもひょうひょうとしてる菊池くんってすごく余裕があるんだろうなあって思って、ある意味うらやましいデス」
真
面目な顔でこたえるのだめに菊池はぶっと吹き出す。
「やっぱりのだめちゃんって面白いよね。普通の女の子はそん
なこと言わないと思うよ」
「そうなんデスか?」
「………まあ、それは僕に対して全然恋愛感情のかけらもないから
言えることなんだろうけどね〜」
「ああ、そうですネ」
「即答だね」
菊
池は肩をすくめると、のだめに近づきそっとその手を取った。
のだめは目をぱちくりしながら菊池を見上げる。
「……
でも、僕はのだめちゃんに興味があるよ。
もっともっと君のことを知りたいと思ってる」
「え?」
「………
僕とつき合ってみない?。僕が余裕なんてもの持てないくらい夢中にさせてみてよ」
ガ
ラッと障子が開いた。
その途端にあーでもないこーでもないと雑談していた面々が振り返って部屋に戻ってきた人物を見た。
「お
う、千秋お帰り」
「何か詳しいことが決まりましたか?千秋様」
千秋は畳の上にどかっと胡座
をかいて座ると、先ほどの打ち合わせを記したメモ帳を取り出した。
「……演奏回は明日の夕方、6時30分に開演
だ。場所は大分市のiichiko音の泉ホールというところらしい。持ち時間はだいたい30分から40分、
休憩時間のすぐ前だそう
だ」
「えー、ラストじゃないんですか」
「一応、学生達の発表の場なんだから最後という訳にはいかないだろう」
千
秋はゴホンと咳払いをした。
「それで……演奏する曲目だが……」
「ヴァイオリン協奏
曲!!」
「フルート!!」
「クラリネット!!」
「……オーボエ」
「……
とりあえず……1曲はこのメンバー全員でやれるオーケストラの曲としたい」
「ーそれならいい曲があるよ」
全
員がその声の主に注目する。
大河内が鼻を指でこすりながら偉そうにもったいぶって言った。
「……
『ペルシャの市場にて』だよ、千秋」
「『ペルシャの市場にて』って……ケテルビーか」
『ペ
ルシャの市場にて』。
イギリスの作曲家ケテルビーの代表作であり、回教寺院のあるにぎやかなペルシャの市場の様子などを表した曲で東
洋的なエキゾチックな雰囲気が漂っている曲だ。
誰もが知っている名曲で、吹奏楽でもよく演奏される。
「……
確かに有名な曲だから……客受けもいいかもしれないが……なんでまた……」
「大分県にはトキハという老舗デパートがあるんだ」
「……
は?」
なんで、曲の話をしていてデパートの話になるのかがわからずに千秋は首を傾げる。
「大
分県に生まれた人間なら行ったことがない奴はいないというくらい、地元に根付いたみんなのデパート、心の拠り所。それがトキハだ」
「い
や、だからそれがなんの関係が」
「……そこのデパートでいつも流れてる曲なんだよ」
「ーはあ?」
「い
わば大分県のテーマソングだ。これは絶対にやったら受けると思うぞ!!」
「………」
「僕が世界で成功したあかつ
きには凱旋公園でやると決めていたとっておきの曲なんだけど……何事もR☆Sのためだ。
しょうがないからやらせてやるよ」
「い
や、やらせてやるも何もお前の曲じゃないし」
「総譜も確か実家の机の引き出しにとっておいた筈だよ。ーいつかやろうと思って大事にし
てたんだ」
それを聞いた瞬間、千秋が反応した。
「総譜があるのか」
「あ
あ、後で取ってくるよ」
「まあ……総譜があるなら好都合かもしれないな」
「じゃあ、一曲は決まりだな」
「そ
の曲でのコンマスは高橋にやってもらうことにする」
「「え〜〜」」
途端に約2名からブーイ
ングの声が上がる。
「そりゃあ……こないだのニューイヤーコンサートではこいつにコンマスを譲ったけど、連続で
それはないんじゃないの?千秋くん」
「おい、千秋、たまには俺にも花を持たせろよ!!」
「ー現R☆Sオケでのコ
ンマスは高橋なんだから高橋がコンマスをやるのは当たり前だろう」
「さすが千秋くん!わかってるう!!」
高
橋が感動のあまり千秋に抱きつこうと飛びかかった瞬間、真澄が頭から畳に叩きつけた。
その情景をもはや当たり前のものとして目もくれ
ないで千秋は言った。
「……そのかわり……っていうわけでもないが……清良と峰は二人でヴァイオリン曲をやって
みないか?」
「え……?」
二人は目をぱちぱちと瞬かせてお互いに顔を見合わせた。
「曲
は二人の好きなものでいい。旋律を清良がやって伴奏を峰がやるのもいいし、その反対でも別に構わない。詳しい編曲は二人にまかせる」
「千
秋……」
思いがけない言葉に呆然とする峰に千秋はニヤリと笑った。
「峰。ー
清良についていけるか?」
峰は一瞬たじろいたようだが、次の瞬間には拳を握りしめガッツポーズを作った。
「お、
おうっっ!!あたぼうよ!!清良なんかには絶対に負けないからな!」
「あのね……龍、別に勝負する訳じゃないから……どっちにしても
なんの曲をするにしても総譜は必要よね。大河内くん、この近所に楽譜を売っているところがある?」
「大分市内まで行かなきゃないんだ
よな。誰かに車を運転してもらおう。ちょっと待っててね」
大河内は人を呼びに部屋を出て行った。
「じゃ
あ、これで2曲は決まったようなものだけど……後はどうするの?千秋くん」
「うん。清良達の選曲にもよるけど……あとは本当に短い
オーケストラ曲を入れるかもしれない。それと……」
千秋はちょっとくちごもった。
「の
だめにピアノ曲を一曲弾かせようかと思う」
続
く。