オセロゲーム
「そ
うだ、リュカ、オセロしましょう!」
ある日の午後。
学校の近くのカフェでいつものように勉
強会をしていたのだめとリュカ(もちろんリュカが先生)。
一段落がついて二人でカフェオレを飲んでいるときにいきなりのだめがそう切
り出した。
「オセロ?」
「そうデス!最近はまってていつも持ち歩いてるんデスよ〜」
そ
う言って鞄の中から取りだしたのは…携帯用オセロ。
薄いマグネットを厚紙のような磁版に貼り付けていくだけのシンプルなもの。
「へ
え〜すごいね」
「はい、これがあればいつでもどこでもできるんですヨ」
のだめはにっこり笑
う。
「でも最近の子供はピコピコするゲームばかりするからこんなの知らないかな」
「いや、
僕はおじいちゃんとよくオセロするよ」
あどけない顔で笑うリュカは学校では天才少年として一目置かれているが、
のだめとはいい遊び友達だ。
「ホントですか!」
ばあっっとのだめが笑
う。
「よく休憩時間にターニャとかフランクとかとしてるんですけどネ〜。二人とも弱いから
あ
んまり相手にならないんデスよ。のだめ結構強いんデスよ〜」
「ふうん、じゃあやろうよ!」
そ
して対戦になった。
ただのゲームなのに何故か二人とも真剣になっている。
先ほど勉強で疲れた頭をほぐしてくれた
甘いカフェオレも、テーブルに置かれたままでいつのまにか冷めていた。
「…ねえ、のだめ」
「ー
なんデスか〜手は抜きませんよ〜」
「そうじゃなくて、ただゲームするだけじゃ面白くないからなんか賭けようよ」
「賭
け?」
「そう。…例えばさあ、負けたら勝った方の言うこと聞くとか」
「ふおぉぉーっ!面白そうです!!」
の
だめの目がキラキラしている。もともとギャンブルは好きなのだ。
「じゃあですネ、じゃあですネ、のだめが勝った
らリュカのお母さんにお菓子いっぱい焼いて
もらうように頼んでくだサイ!」
何度か差し入れ
てもらっているリュカの母親の手作りのお菓子は折り紙付きだ。
「…焼きたてのバターたっぷりのパイ…いいです
ね…スコーンにラズベリージャムを添えたり…はぅん黄金のカトルカー…」
遠くを見ながらうっとりとしてじゅるっ
とよだれを拭うのだめ。
そんなのだめをあきれ顔で眺めながらリュカが言う。
「なーんだ、の
だめそんなことでいいの?」
「むきゃっ!そんなこととはなんデスか!そーゆーリュカは勝ったらのだめに何をしてもらいたいですか?」
うー
ん、と考え込むリュカ。
「あ、言っときますけどあまり高いもの買ってくれっていうのはダメデスよ〜。ここんとこ
お財布がピンチなんです」
えへへとのだめは頭をかいた。
「うーん、
じゃあさ、」
「ハイ」
「僕が勝ったら、のだめにキスしてほしい」
「…
… … はあ?」
「だから、キスして」
「ぼへえーっっっ!!」
のだ
めは顔を真っ赤にして椅子から立ち上がる。
その拍子にコップの水がこぼれ、あーあこぼしちゃってと言いながらリュカがナプキンで拭
く。
「な、な、な、な、なんてこと言うんデスか!!子供のくせに!」
「駄目?」
「…
だ、駄目っていうかなんていうか…」
リュカはふーっとため息をつきながら目を伏せた。
「教
会に来てる友達がこないだ彼女とキスしたーって大騒ぎしてたから、なんだかうらやましくってさ。
いいなー、僕もしてみたいなーって
思ってたんだけどな」
「ち、ちなみにそれはホッペとかデスか?」
「ううん、唇と唇。恋人達がするみたいな甘い
奴」
「ふ、ふおおお…」
のだめは熱で赤くほてった頬に手をやる。
どう
やら一見冷静で大人びたこの少年にもいわゆるお年頃という奴は来るらしい。
ちょうどそういった方面に興味を持ち始めた矢先に、友達に
先をこされて案外負けず嫌いな彼は悔しいのだろう。
…さすがアムールの国デス…。
逆に感心してしまう。
そ
れにしても。
「…リュカ。のだめをいつか来る日のための練習台にしようってことデスね!!…なかなかいい度胸
じゃないデスか!」
「へ?」
ごごごご…とのだめの後ろから立ち上る怒りのオーラにリュカは
たじろぐ。
「いいでしょう!その勝負受けて立ちマス!!」
「…別にそういうことじゃないん
だけどな…」
「何か言いマシタか!!」
「いえ…何も言ってません…」
そ
してゲームは再開された。
のだめは白、リュカは黒でそれぞれマスを埋めていく。
どうやら両者の力は互角の様であ
り、白熱したゲーム展開を見せていた。
「はい、これで5個もらいね」
「ふぉっ!ーじゃあこ
れでどうデスか!」
「なるほどー。そう来たか」
「ふふふデス」
二人と
も一歩も譲らない。
「ねーのだめ」
「今、考え中デス!話しかけないでくだサイ!」
手
に持ったコマを指でいじりながらリュカが言う。
「のだめって千秋とキスしたことある?」
「ふ
えっ!」
ガチャンッ!のだめは動揺してまた水をこぼしてしまう。
「な
なななな何の話デスか」
「どうなの?」
「いや…それはその…したっていうか…されたっていうか」
の
だめの顔は耳の裏まで真っ赤だ。
そんなのだめをひとまわりも年上とは思えず、可愛いなあと思いながらリュカが言う。
「ふ
うん…そうだよねーつき合ってるんだからキスくらいするよね」
「ーそ、そ、そんなのどうだっていいじゃありまセンか。…なんだか今日
のリュカ変ですヨ…」
「…んー、動揺させるのも作戦のうちっていうか」
「へ?」
「ほら、他
のこと考えてると白取られちゃうよ」
パチンと打ったリュカの一手はかなりいいところだったらしく、たくさんの白
のコマがひっくり返されて盤上を黒くしていく。
「むきゃー!黒の方が多いっ!!」
「どうす
る?勝負はついたみたいだからここで止めてもいいけど。降参する?」
「…ふおぉ…あそこも駄目で…ここも駄目で…」
の
だめはまだあきらめられないらしく、まだあーでもないこーでもないと頭を抱えている。
そ
の時
「ここがあるだろう」
と
声がした。
いつの間にかのだめの後ろに立っていたのは…千秋真一。
呆然としている二人をよ
そに、千秋はパチンと白のコマをあるマスにパチンと置くと勝手にコマをひっくり返しはじめた。
「ここと…ここ
と…こっちも取れるだろう」
千秋の指の動きに従って、だんだん白に染められていく盤上。
先
ほどまで黒が優性だったのが嘘みたいだ。
「…せんぱい…?ここで何やってるんですか?」
はっ
と先に正気に返ったのはのだめの方で、この場で最も至極当然の質問をする。
「いや。仕事が早く終わったからこっ
ちに来てみた。そしたらお前無様なゲームしてるし」
「ムキャー!!無様なゲームってなんデスか?のだめ達、真剣にゲームしてたんデス
よ!それを途中から手を出すなんて!!」
「ああ、悪かったな」
全然悪いともなんとも思って
なさそうな顔でしれっと千秋が言う。
「なんでそんなに偉そうに言ってるんデスかー!」
怒っ
て千秋に掴みかかりそうになるのだめをリュカが止める。
「ーいいよいいよ、のだめ。どうせたかが遊びのゲームだ
し」
「…」
「本気の勝負なら負けるつもりはないけどね」
リュカは千秋
に向き直りその目をしっかり見据えるとにっこり笑った。
千秋は不機嫌そうに口をへの字に結んでいる。
「??
なんでリュカ千秋先輩に向かって言ってるんデスか?」
「さあ」
千秋はくるりと踵を返した。
「ー
のだめ。帰るぞ!お前今日ピアノの練習見て欲しいんじゃなかったのか?」
「むきゃーっそうでした!」
急
いで荷物をまとめるのだめ。カフェオレ代をテーブルの上に置く。
「ごめんなさいっゲームも中途半端になっちゃっ
て!」
「いいよーまた明日ね」
ついて来る者のことなど考えもしないように早足で歩く千秋の
後を、のだめがつまずきながら追いかけて行く。
残されたリュカは、
すっかり冷めてしまったカフェオレに口をつけた。
店の奥にあるテーブルに残されたコーヒーに目をやる。
本当は彼
が店に入って来ていたのに気づいていた。
ゲームに夢中になっている彼女に声を掛けそびれた彼を、わざと見ない振りをして賭けを持ちか
けてみた。
まさかあんなに簡単に乗ってくるとは思わなかったけど。
それから自分の右手を
ゆっくりと広げじっと見る。
背が伸び指も以前より長くなったとはいえ、まだまだ成年男性の手にはほど遠い大きさの手のひら。
ま
だ、時期ではないのだと思う。
だけどもう少し身長が伸び、今は同じくらいの高さにある彼女
の顔を見下ろせるようになったなら。
まだ柔らかいこの指がもっと長くもっと固くもっと力強くなったなら。
そ
の時は思いつく限りのありとあらゆる愛の言葉を彼女の耳に囁き続けることだろう。
そして今よりももっと自由に動
く筈のその指で、美しく甘い旋律を彼女に届けることだろう。
それこそ、あの不器用で素直じゃない黒髪の青年が一
生かかっても出来ないことだ。
先のことはまだわからないと思う。
今
はただ一人の人間しか見ていない澄んだ瞳もずっとそのままだとは限らない。
何かの拍子にひっくり返ることがある
のかも知れない。
ただの一手でオセロの黒い盤上が白に変わるように。
「…
それが勝負の醍醐味って奴じゃない?」
リュカはつぶやいた。
終
わり