結 局、のだめのキスを賭けたオセロゲーム大会は行われることになってしまった。

「他に誰が出場するの?僕と千秋は 決定だけど」
「俺に拒否権はないのかよ……」

好戦的なリュカに名指しで指名された千秋はズ キズキと痛むこめかみを手で押さえた。

……なんで、俺の周りは皆こんなに自分勝手な奴らばかりなんだ……。

「別 に出たくなかったら出なくてもいいけど?その場合僕の不戦勝ということでいい?」
「………」
「ハイ。じゃあ、千 秋出場決定ね。えーっと、他には……」
「僕もする!!」

ハイハイハイっとにこやかにポール が手を挙げた。
そのまま隣にいた黒木の腕をぐいっと掴んで無理矢理頭上に上げた。

「ヤスも するって!」
「えっ!?ちょ、ちょっとポール…僕は……その……」
「何言ってるんだよ、ヤス!!僕らはヤキトリ オじゃないか!!いつでも一致団結してないと」
「いや、それ、言ってる意味がわかんないから!!」

黒 木は右隣の人物(千秋)がどす黒いオーラを出しているのに怯えて必死に抵抗を試みるものの、ポールの強引さに勝てる訳がなかった。

「ヤ ス……可哀想に……」

心底同情した声で呟くフランクにユンロンが話しかけた。

「フ ランクは出ないの?」
「いや、僕はあまりオセロが得意じゃないから(さっきから千秋の顔が怖いし……)。そういうユンロンは?」
「別 に僕はのだめのキスなんて欲しくないヨ〜。お金か食べ物を賭けるんだったら出るんだけどネ。それかコンポとか」

ター ニャはじろりと黒木を睨んだ。

「ふうん……ヤスもするんだ……」
「いや、ターニャ、僕は出 たくて出る訳じゃ……」

ターニャの冷たい目つきに何故か後ろめたい気持ちになり、焦りまくる黒木泰則25歳 (笑)。

「やっぱりヤスものだめのキスが欲しいの?」
「そ、そうじゃなくて……ターニャ、 今の僕の状況見えてるっ!?」
「ふん!!どーせのだめはモテモテよね!!」

ぷいっと横を向 き拗ねたターニャにの肩をのだめがぽんっと叩いた。

「じゃあターニャはのだめと対戦しマスか?」
「し ないわよっっ!!」






く じ引きの結果、次の組み合わせとなった。
第一回戦は、リュカvsポール。
第二回戦は、千秋vs黒木。

「悪 いネ、リュカ。僕はこのゲームは得意なんだ。のだめのキスはいただきだヨ!」
「ふん。言ってろよ」

い つものだめが愛用しているオセロ盤が取り出された。
フェルト加工の緑地の盤面に向かい、両面が白と黒になっている石を手渡されたポー ルは首をかしげる。

「オセロってこんなのだったかな〜」
「何、考え込んでるんだよ。こちら から行くよ」

パチリ。
まず中央の4マスに白と黒の石をそれぞれ2個ずつ互い違いに置き、黒 であるリュカが先手となる。
リュカは白の石を挟むように黒の石を置き、挟まれた石をひっくり返した。
それを見 て、またポールが怪訝そうな表情になる。

「次はポールの番だよ」
「あ、ああ……」

ポー ルは白い石で黒い石を挟むかと思っていたら、何故か同じ白い石の隣に置いた。

「?」
リュカ は首を傾げる。
なんでそんな所に置いてるんだろう…?
よくわからないままに、リュカはその隣に黒い石を置き今度 は2枚まとめてひっくり返した。
あっという間に盤面は黒一色になる。
ポールの眉間の皺がまたいっそう深くなっ た。

パチリとポールがすぐ隣に白い石を置く。
すぐにリュカにひっくり返される。
ま たポールが置く。
リュカからまたひっくり返される。
その繰り返しだ。

「リュ カ!!」

ついにポールが叫んだ。

「なんでさっきから僕の石をひっくり 返すんだヨ!」
「へ?」

リュカはあっけにとられたような表情になった。

「だ… だって、オセロって相手の石を挟んで、自分の色の石にひっくり返すゲームだよ」
「……へ?」

今 度はポールが驚く番だ。

「え……だって、オセロって日本のゲームなんだろう。先に同じ色の石が連続して5つ並ん だ方が勝ちって奴じゃないのか?」
「………」
「………ポール」
「それって……」

日 本人である千秋と黒木、のだめは思い当たった。。

「それってもしかして……」
「……ご、五 並べのこと……?」
「お前はオセロのルール自体を知らねえんじゃねえかっ!!」

千秋の怒号 が部屋の中に響き渡った。







次 は第2回戦。
千秋と黒木の一騎打ちだった。

「黒木くん……こんなことまで無理矢理引っ張り 出されて……なんだか申し訳ないな」

黒木はもともとこんな賭け事に乗るタイプではない。
気 の毒そうに言う千秋に対し、黒木は苦笑を浮かべた。

「そんな……千秋くんが気にすることないよ。これでもオセロ は得意だからね。
 ……それに、マルレ・オケの鬼指揮者にいつもしごかれているお返しをできるいい機会かもしれないし?」
「ハ ハハ、お手柔らかに頼むよ」

いたずらっぽく言う黒木に、千秋も笑って余裕で答えた。


…… そんな風に和やかに笑い合って始まった筈だった……。



………。

………。

…… なんだ?

なんだろう……?。

……この張りつめた空気は。

黒 木は正面に座っている彼の対戦相手をそうっと見つめた。
途端にギンッ!!と鋭い眼光で睨み付けられて背筋が震え上がった。

ち、 千秋くん……。

なんで……なんで、そんなにマジになってるのーーーっっ(涙)!!。

恐 る恐る手に持った黒い石をマス目に置く。
パチリ。
そして間に挟まった白い石を黒にひっくり返して行く。
パ チリ。パチリ。
その音がする度に千秋の目つきがいっそう険しくなるようで、黒木は縮み上がる。
まるで針のむしろ にいるようでとてもいたたまれない。
はあ…はあ…と無意識に息が荒くなっていく。
背中はいつの間にか冷や汗で びっしょりだ。

このままでは……このままでは……僕の神経は持たない。

早 く……勝負を終わらせなければ。

その時、黒木はあるマスを見つけた。
そこは盲点とも言うべ きところで、さすがの千秋も見落としているところだった。
そこに置けば、かなりの数の石を黒にひっくり返すことができる。
こ の殺人的な試合を早々に終わらせられるかもしれない……。

黒木はぐっと唾を飲み込むと、意を決して手にした石を すうっとそのマスに近づけた。

ギンッ!!。

彼の意図を察したのか、千 秋が今までで一番鋭い目つきで黒木を睨み付けた。
視線が体中に突き刺さる。
目で人が殺せると言うのなら、まさし く黒木はその時死んでいたであろう。
黒木はまるで蛇に睨まれた蛙のようにその体勢のまま動けなくなってしまった。

う…… 動けない……。

石を持った手がぷるぷると小刻みに震える。
黒木の本能が危険信号を発信して いた。
そのマスに石を置くことは、彼にとって死を意味していた。



だ…… 駄目だ。

僕には出来ない……っ!!。




ー そして黒木は負けた。







「な んだよ、ヤス。情けないなー」

リュカは心底呆れたように言った。

「あ そこに置けば、千秋に勝てるチャンスだったのに〜。押しが弱いんだから、もう」
「もう……何と言われてもいいよ……」

黒 木は憔悴しきったようにポツリと答えた。

もう嫌だ……。
帰って眠りたい。
命 が助かっただけもうけものだ……。

「じゃあ、次は千秋先輩とリュカの決戦ですネ!!。うきゅっきゅ〜、楽しみデ ス!!」

のだめが自分の立場をわかってないかのように脳天気に言う。

「ま あ、何はともあれこれは見物よね」
「だよネ」

うなずき合うターニャとユンロン。

千 秋とリュカ。今、まさに世紀の決戦が執り行われようとしていた。





「覚 えるのは一分、マスターするには一生」
というキャッチフレーズのある、非常に奧が深いと言われるこのオセロというゲーム。

の だめを始め、部屋にいる全員の見守る緊迫の雰囲気の中、静かにゲームは始まった。

まずは黒の石をとったリュカが 先手をとり、白い石を黒に変えていく。
千秋も負けじとやられたらやり返す。
どちらかというと若さに任せて攻めま くるリュカに対して、あくまでも守りに入り隙を伺う千秋。
二人の性格の違いがここで現れていた。

リュ カ……本当にすごいな……。

先ほど千秋と対戦したばかりである黒木は思わず心の中で呟く。
千 秋は前回と同じく常人では耐えきれない殺気にも似たどす黒いオーラを背後から出してリュカにプレッシャーをかけているのに、
リュカは 平然とそれを受け止めてどこか余裕にさえ感じられる笑みさえ浮かべて石を打ち続けている。
……あ、あの黒オーラに負けないなん て……。


序盤戦はリュカに優位なままゲームが進んだ。
千秋の石をリュ カは完全に取り囲んで、このまま一気に勝利へと突き進むかと思われた。
ところが千秋は動ずる気配がない。

パ チリ。

……千秋の一手が出された。

その一手によって今まで計算通りに 進んでいたリュカの歯車が狂うこととなる。
序盤戦で石を取ることに夢中になりすぎたリュカは、ついつい千秋の石を内側に囲むことに囚 われていて自分の石を外側に置きすぎてしまっていた。
それにより、リュカは知らず知らずのうちに自分を不利な立場へと追い込んでし まっていたのだ。
その隙を見逃す千秋ではなかった。
千秋の逆襲が始まる。

パ チリ……パチリ……。

千秋が石を置く度に、黒い石がどんどん白へとひっくり返されていく。
リュ カが置こうと思っているところには先手を打って先に置かれてしまい、リュカの打つ手はどんどんなくなっていた。

あ くまでも冷静な表情の千秋に対し、見るからにどんどんあせってくるリュカ。
こうなるともう勝負は決まったも同然だった。
リュ カの顔は次第に青ざめていった。
瞬きが繰り返され長い睫毛がぷるりと震える。
いつもは明るいその瞳が陰ってい き、潤いを帯びたその瞬間ー。

バシャン!!。

いきなり大きな音がして 試合に熱中していた二人ははっと現実に引き戻された。
見ると、オセロの盤上にワイングラスがひっくり返され、中に入っていたワインの 染みがじわじわと広がっている。

「ご、ごめんなサイ!!。思わず熱中してグラスを落としちゃいました〜」

ム キャーッ、染みになっちゃう〜っとごしごしとタオルで盤を拭き始めるのだめ。
……もちろん、置いてある石の配置はもうメチャクチャ だ。
バラバラとテーブルの下に落ちていく。

「のだめ〜〜!!あんた、何やってるのよ〜〜」

ター ニャがのだめの首を締め上げる。

「く……苦しいデス。ターニャ!!」
「うるさい!!今、い いところだったのに!!」
「あうう……勘弁してくだサイ〜!!」

どうにもこうにも、こう なっては試合を中断する他はない。
千秋は心底呆れたようにふうっと大きなため息をついて、先ほどまでの対戦相手だった少年の方をちら りと伺った。
リュカは呆然とした表情で盤上を見つめたまま、しばらく動けないでいた。






「結 局、勝負の決着はつかないままか〜」

もうかなり時間が過ぎていた。
ユンロンが大きく伸びを してふああっと欠伸をする。

「まったくもう……のだめのせいだからね」
「すみませ〜ん」

じ ろりと睨むターニャに対し、のだめは言い訳することも出来ずに身体を小さく縮めている。

リュカは先ほどからずっ と無言のままだった。
汗ばんだ掌の中でずっと握りしめていたオセロの石をただじっと見つめている。

そ こへ。

頬にふっと柔らかい感触がよぎった。
ふわっと香るいい匂いとともに訪れたその唇は、 リュカの頬に一瞬触れたかと思うとすぐに離れた。
驚いて向き直ると、のだめがいたずらっぽい表情で笑っていた。

「の だめの中では二人とも優勝デス!。だから、お祝いのキスです!!」

固まったまま動けないリュカに、にこおっとも う一度微笑むと、のだめは今度は千秋に向き直った。

「ーという訳で、先輩にも祝福のキスをしてあげマス!!。と びっきりあつ〜いベーゼを!!」
「い、いや、俺はいい……」
「まあまあ、そんなことを言わずに」

じ りじりとにじみ寄るのだめから逃れようと、千秋は後ろに一歩…また一歩と下がる。
そこを背後からがしっとポールが押さえ込んだ。

「千 秋。のだめからのキスを受けないなんて、もったいないお化けが出るよ〜」
「は……離せ!!ポール!。……っていうかもったいないお化 けってなんだよっ!!」
「ポール、ナイスです!。そのまま押さえといてくださいネ〜♪」
「やめろ〜〜!!」

ぎゃ あぎゃあと騒ぐ連中に呆れたように肩をすくめたターニャは、ふとリュカの異変に気づいた。
下を向き俯いたままその身体をぷるぷると小 刻みに震わせている。

「リュカ……?どうしたの?」

ターニャの言葉に 今にも千秋に襲いかかろうとしたのだめも振り向いた。
皆の視線が一斉にリュカに注目する。
リュカはきっと顔を上 げた。
いつの間にか頬を真っ赤に紅潮させて目からは今にも涙がこぼれそうになっている。

「…… か……」
「え?」
「……のだめの馬鹿っ!!」

リュカは突然叫ぶと呆然 としたままののだめ達を残し、そのまま部屋のドアをバタンと締めて外に駆けだして行った。







さ すがにこの季節になってくるとパリは寒い。
コートの襟を立てながら、千秋はアパルトマンの外に出た。
冷たい空気 がぴりっと澄んでいて、頭上には無数の星達が輝いていた。
思ったとおりアパルトマンのロード・オブ・ザ・リング門の所に少年はぽつん と佇んでいた。

「ーおい」

千秋が声をかけるとリュカは一瞬びくっとし たように反応して、それから手の甲でごしごしと顔をこすった。

「……なんだよ」
「皆、お前 が突然出て行ったから何事かと思って心配してるぞ」
「……なんで、迎えに来るのがのだめじゃないんだよ」

千 秋は軽くため息をついた。

「のだめは部屋で落ち込んでるぞ。『リュカに嫌われた〜』って」
「………」

リュ カは鼻をすするとぐっと唇を噛みしめた。

「……どーせ」
「は?」
「どー せ、のだめは僕のことを子供だと思ってるんだろ?。だから千秋に負けそうになった僕をかばってグラスのワインをぶちまけたんだ」


やっ ぱり気づいてたか。


千秋は無言のままリュカを見つめた。

…… やっぱりこの少年は聡い。

多分、他の連中はそのことに気づいてない筈だ。
のだめがいつもの ようにドジをやらかしたのだと思っている。
そう、あの時、確かにのだめはわざとグラスを落としたのだ。
もしその ハプニングが起こらなければ、まだ感情のセーブが効かない年齢であるリュカは負ける悔しさのあまりボロボロと泣いて醜態を晒していただろう。
誇 り高い彼が鼻っ柱を折られる瞬間を、のだめは見たくなかったのだ。


……だけど、それは男に とってはプライドを深く傷つける行為でしかありえなくって。


それをあの馬鹿はわかってない のだ。


「……とりあえず、部屋に戻ろう。ここは寒い」

肩 に置かれた千秋の手を、ぱっと振り払いながらリュカは言った。

「ーお前もだ!!」

そ してキッと真正面から睨み付ける。

「お前も僕のこと、子供だと思ってるんだろう?」
「………」
「ガ キが年上の女性に憧れるのは、はしかみたいなものだからそのうち冷めるって……そう思ってるんだろう!?」
「……思ってないよ」
「嘘 だ!!」

千秋はリュカに向き直ると、ゆっくりと静かに口を開いた。

「…… 思ってない」
「………」
「お前のことを子供だなんて思ってない」
「………」
「だ から、真剣に勝負した。……絶対に負けられなかったから」
「……千秋?」

千秋はリュカを じっと見据えた。
思わず息を呑むくらい深く真剣な眼差しだった。

「あいつは渡さない」
「………」

二 人の視線が交差して、お互いの感情が複雑に絡み合う。
張りつめた空気が漂う。
長い長い沈黙が二人の間を訪れた。


…… しばらくの沈黙の後、リュカはふーっと息を吐き出した。


まるで体中の力が抜けたみたいに。


「…… そんなこと、どーせのだめ本人には言えやしないくせに……」
「……確かに……って……どうしてそんなことわかるんだよ」
「わ かるさ。だって千秋ってヘタレだろ?」
「おいっ!!」

憤然とする千秋に、リュカはぷっと吹 き出した。
表情が途端に柔らかくなり、年相応の少年の顔に戻る。
千秋もふっと微笑んだ。

「…… 部屋に戻ろう。……のだめが待ってる」
「………」

リュカは千秋の言葉には返事をしないで ぷっと彼の横を通り過ぎると、無言のままスタスタと入り口へ歩いていった。
千秋はその後をついていくようにゆっくりと歩き出す。
そ して部屋の前まで来た時、突然くるりとリュカが振り返った。

「千秋!!」
「へ?」
「いっ とくけど、僕はのだめのこと諦めた訳じゃないからね!!。
 いつか、絶対にお前よりも背が高くたくましくなって大人のいい男になっ て、お前よりもすっごく有名なピアニストになって、
 絶対にのだめを振り向かせるんだ!!。
 ぼやぼやしてたら すぐに追い越してやるからな!!」

一気にそうまくし立てるとリュカはバタンと千秋の鼻先でドアを閉めた。

中 からは、のだめが「リュカ〜、ごめんなさい〜」と言っている声が聞こえる。
多分のだめのことだから、泣きながらリュカの首に抱きつい て許しを乞うているのだろう。
大丈夫、気にしてないよと背中を撫でながら、ニッと不敵な笑みを浮かべている少年の顔が容易に想像がつ いた。



千秋はこれからも続くであろう長い長い戦いのことを考えて、深 くため息をついた。









終 わり。