パ リで最近出来たばかりの店。
特に若い女の子に人気と評判の店は、すこしめかし込んだ男女でいっぱいだった。

「ほ どよい甘さ、爽やかな酸味…。この舌に残る、イチゴのような香りと僅かな土の香り。…今年の新酒もいいね…。」
「ほんと…。美味しい わ…。それに、この車エビに添えてあるジュレもとてもいい味だわ。」
「それは、よかった…。」
松田幸久はグラス を卓上の灯に翳して、赤さを楽しんでいた。


『 プリムール 』


今 日の松田は寛いでいた。
織り込まれたシルクが光沢とドレープ感を与えるブラック・スーツ、地模様が美しいグレーのシャツにバーガン ディ(葡萄色)のネクタイ…長身の彼が着るとその華やかさが一層引き立つ。
「ねえ、そのネクタイ…今日、新酒を飲むから?」
「ん?」
「だっ て、同じ色…。」
「あはは…そうだよ。ボジョレーの新酒を君と飲むんだよ。そのくらいは…。」
余裕の笑みを彼女 に向ける。
「君こそ、そのドレス。…実に…セクシーだ…。」
光沢のあるラベンダーのドレスにかかる金色の髪を、 指に絡めながら松田は絶妙なタイミングで言葉を吹きかけた。
「ユキったら…。」


実 は、同じ店にもう一組。
「のだめ、この鹿のクランベリーソース…、旨いよ。」
「あ〜。一口ください。」
「ちょっ と待て…。…ほら。」
「ん。おいし〜い。せんぱい、この青首鴨のオレンジソースも…。あ〜んして?」
「ばか。人 に見られるだろ。そこに置いておいて。自分で食べる。」
「え〜。いいじゃないですか。あっちのカップルだって…ほら、やってる…。」
「お まえ、もう酔ってる?まだ、2杯目だぞ。」
「だって〜。せんぱい、お料理がくる前にワイン飲ませるんだもの。お腹空いていたから、す ぐに酔っちゃいましたよ〜。」
「ば〜か。」
「ありぇ?あれは…松田さん?」

恵 が差す方に視線を走らせると…真一の目は松田を捉えた。
「あ、松田さん…。」
「ね!松田さんだよね。まちゅださ 〜…んぐ…。」
「のだめ、静かに…。」
真一は立ち上がって恵の口を塞いだ。
「あの人に見つ かったら、面倒なことになりそうだから。」
「〜〜〜」

そうは言っても、周りの客たちの視線 が真一たちに集まった。
真一は舌打ちをした。
溜息と共に辺りを見渡すと、案の定、松田と目が合った。

松 田は連れの女性の耳元で何か囁いてから、一緒に席を立って真一たちのテーブルまで来た。
「来てたのか…ボンボン。」

一 瞬、むっとしたが、真一はすぐに顔を作った。
「今日はこの前と違う方ですよね。」
「…ふ…女には困ってないので ね。おまえら、相変わらずじゃれ合って、見ていて恥ずかしいよ…。」
「あなたに言われる筋合いはありません。」
「ま あ…怒るなよ。折角の解禁日なのに…。ねえ〜、変態ちゃん。」
松田は恵を覗きこんだ。
テーブルに突っ伏していた 恵が顔を上げた。
「のだめですよ…。覚えてください…。」
ふっと松田は鼻で笑うと、
「そう だ。のだめちゃん。紹介するよ…俺の今宵のビーナス…クリスティー・バルデ。
今度、バイオリン協奏曲をするんでね…見に来てよ。」と 言った。
「ほぉ〜。綺麗なひと…。」
恵が頬を赤らめて彼女を見上げた。

「は じめまして。千秋真一です。」
真一がフランス語で挨拶をした。
それまで、日本語の会話が分からなくてつまらなそ うにしていた彼女が微笑んだ。
「はじめまして、千秋真一さん。指揮者さんですよね?」
「そうです。マルレの常任 をしています。」
「まあ、お若いのに。」
「そんなに、お歳は違わないようにお見受けしますよ。」
ク リスティーは花のような笑顔を見せた。
一方、恵は口を尖らせて、真一の顔ばかりみている。
「ほら、のだめ、…挨 拶は?」
真一が促す。
恵はくるりと向き直り、姿勢を正した。
「はじめまして。野田恵です。 コンセルバトワールでピアノを勉強しています。」
「はじめまして。コンセルバトワールなの?私も卒業生よ。」
ク リスティーが嬉しそうに、恵の手を取った。

「…それじゃ、席を一緒にしてもらわないか?」と松田が持ちかけた。
「え? 俺達、殆んど食事も終わっているし…。」困った真一が言いかけると、
「なあ、いい事思いついたよ…。乗らないか…?」松田の目が悪戯 そうに光った。

松田はウエーターに事情を説明し、新たに席を整えさせると、自分は席を外した。
そ して、また、不敵な笑みを浮かべて、戻ってきた。

席に座った松田は、卓上のキャンドルに顔を近づけて、ニッと笑 い3人を見上げて言った。
「お嬢さんたち、僕らと、ここにいるお客さんに何か聴かせてよ。」
「「え〜?私たち が…?」」
恵とクリスティーの二人の声が重なった。
「面白そうじゃない?ミューズの協演。」松田がウインクして みせる。
「時間もたっぷりあるし…ピアノは…ほら…。」顎の先で示す。
「クリスは…クロークに預けた楽器、ここ に持って来たよ。」

「松田さん…。」真一が彼女たちに代わって、諌めようとすると、
「今日 はボジョレーの解禁日だぜ。彼女たちのプリムール(新酒の先物買い)になるかもしれない。なに、ここのオーナーは知り合いだからさ、この話、喜んで乗った よ。大丈夫、見てな…。」松田はそう言って、恵の赤いサテンドレスのお尻を押した。
「ぎゃぼ。なにするんですか!」
「い いから、行ってきなよ。君たちなら、いいステージになるよ…。」
「松田さん。」
戸惑いながらも恵がピアノへと歩 み寄ると、クリスティーもついて行く。
しばらく、音を出しながら、檀上の二人は相談をしている。

黒 髪の二人の男はステージから一番離れた席で、彼女らを見ている。
「…クリス…いい体してんだよな〜。」
「松田さ ん、そういう関係ですか…。」
「…ふん…これからするんだよ…。お互い独身。楽しまないと。」
「は〜あ?」

松 田はグラスを高くかざして言った。
「…千秋…ステージ向って左端の真ん前。あのハゲ親父、レーベルの社長。あいつにアピール出来た ら、儲けものさ。」
「え?」
「…おまえさ、こういう話題の店には、美味しい話が転がってるんだぜ。…だから、ボ ンボンなんだよ、おまえは。ただ、『オフですから〜。』って、いちゃいちゃ鼻の下のばしていたのか?」
「………。」
「… やっぱ、おまえ、俺を越えられないよ。ぜったい無理だね。」
松田はワインを旨そうに飲んだ。
真一もつられてグラ スに口をつけたが、同じワインが妙にすっぱく感じる。

「のだめ…大丈夫かな…?」つい、真一が零した言葉に、松 田の口元が緩んだ。
「クリスティーも初めてのコンチェルトなんだよ。あー見えて、結構、内気でね。ちょっと景気づけに、ここでさせる のもいいだろ…?ここなら、別に食事に来た客だから、気楽に聴くだろうし、演奏する方もいい練習だ…。」
「松田さん、あなたっ て…。」
「俺を舐めんなよ。…あ、もうそろそろ…だ。」
「何にしたんだろ…?」
「ああ。… 変態ちゃんは結構うまいよね。コンクールとかは出るの?」
「いや…まだらしい。」
「そうなの?本人にその気がな いの?」
「いえ、ついている先生がOKしないらしくって。」
「ふ〜ん。先生がねえ…。」
松 田は真一のグラスにワインを注いだ。


店内の照明が幾分落とされた。
ス ポットライトが壇上の二人を照らし出す。

張りつめた空気がこちらにも伝わってくる。
恵は下 唇を軽く嘗めた。
クリスティーは小さく咳払いをした。

クリスティーが構えた。

――― マスネ タイス瞑想曲

「…優美な響き……いいですね…。」真一が感嘆する。
「だろ、…で も、そうきたか〜。俺へのメッセージか?それとも、千秋おまえへか?」
「どういう意味ですか。俺はあなたみたいな淫蕩のかぎりをつく す人間じゃありませんから。改心なんかしなくても…。」
「じゃあ、変態ちゃんか?」
「あの、ひとの女を、変態、 変態って呼ばないでください。」
「あれ〜?おまえが言い出したんじゃなかったか?」
「あなたに言われたくありま せん。」
「けっ!」松田はグラスをキュッと空けた。
「しかし…彼女…こんなに上手いのに、コンセルバトワールで しょ、なんで噂にも聞かなかったんだろう…。」真一が呟いた。
「やっぱり、事務所でしょー。プロモも大事よ。」

松 田は冷めたヒラメにイチゴソースを絡めた。
一口頬張ると、口を歪めた。
「冷えると美味くないな。それに、なんで フルーツソースなんだよ。甘酸っぱくてしょっぱいのって、許せないね。」
真一は腹が痙攣しそうになった。
「松田 さん。ちゃんと演奏、聴かなきゃ。」
松田はナプキンで口を拭いながら言った。
「聴いてますよ…。でも、まだ緊張 してんな〜。ピアノはいいじゃん、…思ったより、大人しめ?」
「ですね。」真一は恵を見つめた。

一 曲目が終わり、テーブルから拍手と賛辞がおこった。中には、若い女性演奏者に親しみを込めてからかうような声もあった。

「二 曲目は…?」

―――シューベルト 夜と夢

「お?緊張がとれてきた か?」松田がにやりとした。
「艶がありますね…。こういう曲、合ってますね…。」
真一は呟くように低い声で途中 から歌いはじめた。
「Heil'ge Nacht, du sinkest nieder;
Nieder wallen meauch die Träu
Wie dein Mondlicht durch die Räume,
Durch der Menschen stille Brust
Die belauschen sie mit Lust;
Rufen, wenn der Tag erwacht:
Kehre wieder, heil'ge Nacht!
Holde Träume, kehret wieder!」  (斜部引用)
「おまえ…歌うか〜?」
「俺の祖父さんが、…チェロをたまに弾いてたんですけ ど…これも好きでしたね…。」
「ふぅ〜っ。おまえ相当の坊ちゃんだな…。」
「家のサロンに歌手を招いて、歌を聴 いたこともあるし…。」
「ふ〜ん。」
松田の鼻筋に皺が寄った。
「それでもって、ピアニスト のとうちゃんか〜。」
真一はキッと松田を見た。
「父とは一緒に暮らしてません。」
「でも、 七光、あるだろう?」
「ありません。」
「俺みたいに何にもないところから、って訳じゃないだろ?」
「………。」
「そ うなんだよ。あるんだよ。…おまえにとっては、ウザい事かも知れないが、何もない奴から見れば…あ〜。胸糞悪い。」
二人の男たちは競 争するように赤い液体を飲みほした。

突然、鮮やかなバイオリンの音が店内に響き渡る。
この 男たちの険悪な空気が吹き飛ばされた。
恵の楽しげな音。
バイオリンの旋律がスパイラルを描いて、上へ上へと上っ て行く。

―――モンティ チャルダッシュ

「彼女、テクニックも申し分 ないじゃないですか…。」
「ふふ〜ん。いいだろ〜。俺が見つけたんだぜ。」
「また〜。嘘でしょ?」
「ふ ん。本当は、彼女の事務所から頼まれちゃってさ〜。ほら、俺みたいにネームバリューのある指揮者とやらせてくれって。」
「だから、で すか?さっきの‘いい事’って。」
「まあな。」
松田が自分の鼻を擦った。
真一は二つのグラ スにワインを注いだ。
「結構、いい人なんですね。松田さん。」
「生意気いうな。」
二人の目 が合った。

気がつけば、周りの客たちの目は檀上へと向けられていた。
中には、足や指先でリ ズムをとる者もいる。
どの客も頬を赤らめて、楽しげだ。

店全体が、彼女たちの音楽に、そし て、今年初めての新酒の味に酔いしれる。

クリスティーが弓を高々と上げた。
割れんばかりの 拍手。
賛辞の声。
皆の笑顔。

「上手くいったな。」
「え え。」

「ほら、あのハゲ親父、立ち上がったじゃないか。他の客も…。上出来、上出来。…彼女たちも嬉しそうだ。 俺の読み通りさ。」
松田はグラスを一気に空けると、満面の笑顔で拍手を送りながら、ステージに歩いて行く。
慌て て、真一も恵の方へ歩み寄った。

「せんぱい。どうでしたか?」
興奮冷めやらぬ恵は真一の腕 に飛び込んだ。
「うん。どうなることか、ハラハラしたけど…よかった…。特に、最後の曲は…。」
真一も優しい表 情になる。
「最後にやっと、自分でものれてきて…。クリスティーさんの音も良くなって。」
「…おまえ…そんな風 に…。いつの間にか、他の音も聞けるようになってたんだな…。」
「えへへ…っ。」
紅潮した頬の恵は真一におどけ て見せる。
「よう、ご両人。一緒にもう一杯飲もうぜ。」
クリスティーの腰に手をまわした松田が声をかけてきた。


テー ブルに戻ると、周りの客たちの拍手が再び起こった。
「クリスティー、ここ赤くなってる…痛い?」
恵がクリス ティーの鎖骨を指して心配そうに言った。
「ああ。大丈夫です。心配してくれてありがとう。なんか、夢中で弾いちゃって…。」
そ の様子を松田の優しい瞳が見守っていた。

楽しげに会話する恵たちをを見ながら、松田が真一に耳打ちした。
「俺 は、これから金髪のプリムール(新酒)を味見するけど、…おまえもどう?」
「ええ?」
「スイートでも取って… ん?」
「同じ部屋でするつもりはありません。」
「…ふふっ。あ、そうか…おまえはいつも飲んでる酒だもん な…。」
「…松田さん、プリムール(新酒の先物買い)は2,3年先をみて、買うんでしょ?俺はずうっと前から気付いてましたか ら…。」
「ほう…言うね…。」
「…俺は信じてますから…。」
「…ん…まんざらでもないん じゃない?いいよ…すごくいい…変態ちゃんは。先が楽しみだ。スタイルもいいしね。もし、俺と協演することになったら、テイスティングしてみよう〜。」
「は あ???」
「なぁ〜っ。ボンボン。」
「貴方ねぇ…。」


二 人の若手指揮者の予想が現実になる日も、そんなに遠くない…。


(了)