練習
室
「のだめ、いるの?」
夕
方の日差しが窓から差しこみ、練習室のピアノを逆光で照らしていた。
そこに確かに人が座っているが、その人はピアノを奏でていない。
ち
かづくと、捜していたのだめが、ピアノの蓋につっぷして、すうすうと寝息を立てていた。
***
僕
はその日も、レッスンが終った後、のだめを捜していたんだ。
確かにコンヴァトに来ているはずなのに、カフェで会うことが無くなった。
レッ
スン室からレッスン室に、ものすごい速さで移動しているにちがいなく、追いかけても追いかけてもその甲斐なく、まわりの関係者生徒から、
「ノ
ダメ?今日は帰ったよ。」
「ノダメなら、マジノ先生の家に行くんだってさっき出て…。」
携
帯に電話を掛けても、最近いつも電源を切っている。
なんで最近こんなに会えないんだよーーー!
い
らいらしながら廊下を歩いていると、ばったりターニャに会った。
「のだめなら、今日は507号室って言ってたわ
よ。最近課題が多いのを、ムキになって消化してるんだから。一番端っこの部屋で集中したいんだって。」
聞いたと同時に駆け出す。
507!
5階の一番奥の部屋!
僕はエレベーターを使って5階に上がると、目指す練習室に廊下を走ってたどり着いた。
ドア
のハンドルを持ち上げて、おそるおそるの中を覗く。
あ、れ、防音扉を開けても、ピアノの音がしない。
いない?
「の
だめ、いるの?」
夕方の日差しが窓から差しこみ、練習室のピアノを逆光で照らしていた。
そこに確かに人が座って
いるが、その人はピアノを奏でていない。
ちかづくと、捜していたのだめが、ピアノの蓋につっぷして、すうすうと寝息を立てていた。
「の
だめ……。」
眠っているのだめの顔はかわいらしくて、ぼくはこっそり見惚れた。
東洋人のき
めこまかい肌はそばかす一つ無い。
いつもぱっちりと開いて、くるくるよく動いている目が、今は閉じて濃い色の睫毛が、影を作りながら
瞼を縁取っている。
そして、そして、唇が!
薄く開かれた唇には、透明
なグロスが塗られていて、呼吸のたびにかすかに震えている。
磁石に引かれたように顔を近づけて、唇を重ねた。
挨
拶じゃないキス。
2度。
3度。
年
上ののだめの唇をこっそり奪う。
「んん……。」
ねむり姫が目を開けた。
そ
れがわかっててももう一度唇を重ねて、びっくりしている目を見つめ返した。
「リュ……リュカ……?」
「よく寝て
たね、のだめ。」
のだめにキスしたのがうれしくて、笑いながらぷっくりした頬にもキスをした。
「ほあああ。のだ
めの寝こみを襲いましたね!」
のだめは上目使いに睨んできた。
ぜんぜん怖くないよ。
「う
ん、よく寝てたから。」
「ふおお、迂闊です。油断してまシタ。」
「えっへっへーーー。」
姿
勢を起こしたのだめが少し赤い顔になって、服をひっぱったりつまんだりしていた。
僕はそんなのだめを、可愛いなあとしか思えない。
「大
人をからかうんじゃありません!も、だめデスヨ。こんなキスしちゃ。」
「なんで?」
子供扱いを感じた。
で
も僕は、のだめの椅子の横に座ったんだ。
「のだめはリュカの彼女じゃないんですから。」
「ぼくはのだめが好きだ
よ?恋人になりたい。」
「……。」
のだめは言葉を失っている。
「ダ
メ?千秋はもういないんだろ?」
「いなくなった訳じゃありまセンよ!ちゃんと今も会ってるし!まだ付き合ってますから!」
「え、
そうなの?」
「そうです!!」
「…………なあんだ。」
また瞬殺。
引っ
越すって、普通別れたとか思うじゃんか。
このところののだめがやたらに課題に打ちこんで、カフェにも来ないのは「失恋のショック」と
かかなと思いついて、必死に探したのに。
「チャンスかと思ったのに――。」
「リュカー……
もしそうだったとしても、年の差がありすぎデスヨ。」
のだめは一緒のイスに座っていても、ちっとも照れたりして
いない。
さっきのキスも、もう忘れちゃっているみたい。
「僕はそんなこと気にならない
よ!」
「リュカが気にしなくたって、のだめの方はほんとに24ですしー。気にされないというのも、かえって気になりマスよ!」
の
だめはすこし頬をふくらませて、ピアノ譜を片付けている。
「……ごめんね。でも、でもさ、僕がもっと大人になったら、もっと背が高く
なっら、あまり気にならないんじゃない?
年下の恋人でいいじゃない?」
「だからー……のだめはもう好きな人いる
しー、リュカと恋人になったら浮気になっちゃうじゃないでスカ。」
「クララ・シューマンとブラームスだって、年の差すごいじゃん
か!」
「クララはそれで心変わりしてはいなかったデスヨ多分。」
「そんなのわかんないよ!僕にもチャンスあると
思わない?」
練習室の扉を出て、廊下に立つとのだめは振りかえった。
見た事ないような無表
情で、僕を見つめ返す。
言い過ぎた……かな。千秋が邪魔だからって、のだめの不幸を願うような事を僕は口にして
しまった。
男らしくない。
だけど、だけどさっきのキスは、本当にやわらかくて、甘くて、今でも感触が口元に残
る。
こちらを見るのだめの顔の、何かいいたげなその唇にばかり目がいってしまう。
「の……。」
「やっ
ぱりまだ、子供デスネー、リュカは。」
「え…。」
のだめはにっこりと鮮やかに笑った。
「ど
ういう意味?」
聞き返したのにのだめは歩きはじめた。その表情を確かめたくて、のだめと並んで歩こうと追いかける。
「日
本にのだめ、弟いマス。リュカはその弟より年下です。リュカの事はのだめには、もうひとり弟ができたみたいに思ってます。」
―――
おとうと?!
「リュカはのだめがコンヴァトに入学して、はじめて出来た友達デス。友達は大切ですが、今恋人にな
れるかというのと違いマス。」
少しギクシャクした、でも丁寧なフランス語でのだめはたんたんと話した。
「リュ
カ、あのエレベータに二人で乗っても、二人が友達のままなら、いっしょに帰りましょう。
でもリュカがそうできないなら、のだめは一緒
に乗りたくありません。」
僕達は、さっき乗ってきた廊下の端のエレベーターの間近にきていた。
階
数を示すランプがゆっくり移動して灯り、今はここより上の階を点している。
のだめが、呼び出しボタンを押す、細い長い指先をスロー
モーションで見た。
僕は今からそこに、のだめと2人で乗った時の事を、まざまざと想像できた。
絶
対に抱きしめる。そしてもういちど、唇を味わう。のだめの耳に、愛してるとたくさん囁く。
そしてのだめが気を失うくらいきつく身体を
抱きしめて……。
そんな白昼夢を見た。
『ポーン』
エ
レベーターの扉が開く。
「ベーベちゃん、まだいたのかい。」
「ほわ
あ!センセ!!」
エレベーターの中にいたのは、のだめの担当のオクレール先生だった。
「夜
道は危ないよ。練習は大切だけど、ほどほどで切り上げないとネ。」
「ハイ、センセ。」
「君は?乗らないの?」
講
師のなかでも有名なオクレール先生。やわらかな雰囲気は忽ちのだめを庇護するような雰囲気を作って、エレベーターの中から光を放ったようだった。
黒
い情動が頭の中にうずまいていた僕は、そこにとても乗り合わせる事ができない。
さっきまでの心の中の情景は一瞬
で吹き飛ばされ、僕は立ちすくんだ。
「……い…いえ、僕はまだ練習時間が残っているので、ここで。」
「そう。そ
れじゃ。」
「またデス。リュカ。」
「うん、またね、のだめ。」
すうっ
と扉が閉まり、廊下はまた薄暗くなった。
僕は数秒、そこにたたずんだままだった。
――また
デス。リュカ。
のだめの笑顔が、目に焼き付いている。
僕はさっき、やはり乗り合わせたほう
が良かったんだろうか。
一緒に乗らなかった事を、のだめは変に解釈してしまわなかったろうか。
オクレール先生が
いなかったとしても、僕は本当にのだめと友達でいられたろうか。
先生がいたから、エレベーターに乗るのを遠慮し
たんだと、思ってもらえたろうか。
のだめは明日会った時も、あの笑顔を見せてくれるだろうか。
エ
レベーターの横の階段をひとりで粛々と降りる。
夕日は沈んで、吹きぬけの階段の明り取り窓は濃い紫色の光線で空間を満たしている。
は
た、と気がつけば、オクレール先生に注意されるほどの遅い時間ではまだ無かったんだ。
どうして先生は、もう真っ暗なほど遅いような言
い方をしたんだろう。
「見透かされちゃったのかなあ…。」
言いようも無い暗い不安で気分が沈む。
さっ
きまでのわくわくした感じが今はない。
僕はこれからものだめの友達でいられるだろうか。
本
当は恋人がいいのだけど、そんなチャンスは果たしていつかおとずれるんだろうか。
そうなるまで、のだめは変わらずあの笑顔で僕と接し
てくれるだろうか。
僕はその途中で彼女を壊してしまったりしないだろうか。
「弟みたいな内
は、無理かー……。」
急に客観視できて、大きく溜息をつく。
あせるなあ。早く大人になりた
い。
校舎を出て、夜空を見上げると、金星が夕日の跡を次いで空に輝いていた。