ドアを開けた瞬間、のだめの部屋にはピアノの音が響き渡っていた。
千秋が入ったことにも気づかないで、一心不乱にピアノを弾き続けるのだめ。
どうやら長くなりそうなのでソファーに腰を下ろしてその演奏を聴く。

ピアノ協奏曲第21番ハ長調KV.467 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

のだめにしては珍しい選曲だなと思う。
ピアノ・リサイタルでモーツァルト責めにあって、プレッシャーになっていたのがずいぶん昔のように思える。
今弾いているのは2楽章だ。
音符を慈しむようにその音色を心で感じ尽くすかのようにじっくり弾きこなしているのだめのピアノに耳を傾けて聴いていると、心が落ち着いてくるようだ。
千秋はしばし、のだめのピアノに酔いしれた。

演奏が終わる。
ふうっと息をつくのだめの背後から、パンパンと拍手の音が聞こえてきた。
振り向くと千秋が笑顔をたたえながらそこにはいた。

「ムキャッ!!先輩、来てたんですか!!」

いつものように抱きつくのだめ。


そう、いつもと変わらずに。


「モーツァルト……良かったよ」
「ハイ!!ありがとうございマス」

そう言いながら、のだめは何かを思い出したかのように、ポンと手を叩いた。

「あ、そうだ、先輩、のだめ、先輩に言いたいことがあって」
「なんだ?」
「のだめ、できたんですよ」
「今の演奏か?……ああ、うん、よく出来てたな」
「そうですか?えへへ。胎教にもいいって聞いたんで」
「は?」

千秋は今、聞き慣れない単語を聞いたような気がして、思わず聞き返す。

「お前……今、なんて言った?」
「え?ああ、だからモーツァルトの曲は胎教にすごくいいそうなんデス」
「……何の話をしてるんだ?」
「だから胎教の話デスよ。モーツァルトの曲は心地よいパターンが繰り返し働きかけるので、脳によい刺激として伝わるのだそうデスよ。先輩、知ってましたか?」
「いや、まあ、そういう話は聞いたことがあるが……」

なんだか話がつながらない。

「……だから、胎教とお前と何の関係があるんだ」

のだめはぷぷぷと笑うと、立ち上がってふんぞり返った。
そしてすちゃっとピースサインをする。

「じゃーーんっっ!!なんと、のだめに赤ちゃんが出来ました!!」

にこにこ満面の笑みを浮かべるのだめ。
千秋は、あまりの展開に絶句して言葉を無くし、口を金魚のようにパクパクしているだけだった。





 第1話





「ヒイイッッ!!動いた」
「先輩……飛行機なんですから、動くの当たり前デスよ。あ、ほら、どんどん地面が遠ざかって行きますヨ」
「言うな!!見たくない!!」

ガタガタと毛布にくるまってのだめにしがみついている千秋は、既に機上の人であった。

「だいたい、お前、妊婦なんだろう?飛行機乗っていいのか?」
「あ、のだめ、もう4ヶ月なんで、お医者様からもオッケーが出ました」
「4ヶ月!?」

ケロっとした顔で言うのだめに、千秋は怒鳴りつけた。

「どうしてそんなになるまで妊娠がわからなかったんだよっっ!!」
「えーと……のだめ、あんまり周期とか気にしてなかったんですよネ……。
 最近、生理来ないなあ……ま、面倒くさくないからいっか♪くらいにしか思ってなくて」
「つわりっっ!!つわりは!!」
「あ、それも無かったデス。御飯も毎日美味しく頂きました♪。食べ過ぎて最近お腹出て来たな〜と思って腹筋してたくらいで」
「腹筋する妊婦がどこにいるーーーーーーっっっ!!」

千秋は思わず大声で怒鳴り、他の乗客からじろっとにらまれて慌てて声をひそめる。

「……それで、なんで妊娠ってわかったんだ」
「いえ、ターニャがもしかしたら黒木くんの子を妊娠かも!!って検査薬買ったんデスけど、どうやら違ったみたいで……あれ、2本セットなんで、余った1本くれたんデスよ。
 のだめも1回やってみたいな〜って思ってたんで、やってみたら陽性だったという……」

千秋は溜息をついた。
変態変態だとは思っていたが、ここまで無頓着な女だったとは……。
しかし……。
千秋には頭をひねることがあった。
だいたいにおいて……セックスをする時にはきちんと避妊をしている筈なのだ。

「お前……それ……本当に俺の子か?」

バシーーーーーンッッ!!

いきなり顔面に平手打ちをくらう。

「何言ってるんデスか!!先輩じゃなかったら誰の子だっていうんデスか!!」
「のだめ……声が大きい……」

またしても注目を浴びているようだ。
客室乗務員がやってきて「申し訳ありません……お客様、もう少し静かに……」とたしなめられた。

「いや……だって……そんな覚えないぞ、俺……」
「あー、それについては、のだめもいろいろ考えたんデスけどね。
 ほら、あれじゃないデスか?。
 12月初めのコンサートで、盛り上がって興奮状態のまま衝動にかられて楽屋で……」
「わーっ!!それ以上言うなっっ!!」

千秋は慌ててのだめの口を塞いだ。







何はともあれ、成田空港に着いた。

「うー、荷物が重いデス」

スーツケースなどは現地で空港に預けたものの、とりあえずの手荷物はいつものように風呂敷に巻いて肩にかけている。
溜息をつきながら、無言でのだめの肩から、荷物を取る千秋。

「先輩……」

千秋のさりげない優しさにじーんと感動しているのだめ。
一方、千秋はその荷物の、予測できないあまりの重さに顔をしかめる。

「……重い……何が入ってるんだ、これ……ごろごろしてるぞ」
「あ、プリごろ太コミックスデス。やっぱりどこに行くにも一緒でないと落ち着かないんデスよね」
「馬鹿かっっ!!お前は!!」

そして空港建物に入って、動く歩道に乗る。

「あー、これって、よくハワイ帰りの芸能人をマスコミが待ちかまえてるんデスよね〜。もしかして千秋先輩目当てのマスコミ来てるかもですヨ」
「そんな訳ないだろう。今回の帰国は誰にも言ってないし……だいたい俺みたいな新人の指揮者を追ってる奴なんて……」

ん?と千秋は前方に不思議な物体を見つけた。
それは動く歩道に沿って並んでいる団体で、何か垂れ幕のようなものを持っている。
その人物達にはよく見覚えがあり……。

「げっっ!!」
「あー、峰くん達デス。やっぱり迎えに来てくれたんデスね」
「お前しゃべったのか!!」
「あ……その……真澄ちゃんとのチャットでつい……」

そしてだんだんR☆Sオケの団体が目の前に迫ってきた。
皆は嬉しそうな顔で、ぶんぶんと手を振っている。

「あ、おーい、千秋〜!!」
「のだめちゃん、おめでとう〜」
「千秋様……あんな女にだまされて……」

そしてR☆Sメンバーが持っている、長い長い垂れ幕の全貌が見えてきた。
そこには太く大きな字でこう書かれていた。

『祝☆のだめ懐妊おめでとう!!やったぜ!!千秋!!このムッツリ♪』

「だああああああっっっっ!!」

歩道を飛び降りた千秋は、全員から垂れ幕を奪い去ると、ぐしゃぐしゃにして丸めた。

「あーあ、せっかく徹夜で作ったのによ〜」

残念そうに言う峰に、千秋は怒鳴りつけた。

「恥ずかしい真似するんじゃねえっっ!!」

その間にものだめは女性達から囲まれていた。

「のだめちゃん、よかったわ〜」
「それで経過は順調なの?」
「ハイ!!おかげさまで母子ともに健康デス!!」

高橋と真澄がすすり泣きながら、千秋に左右からがしいっと抱きつき、千秋はヒィィと悲鳴をあげた。

「千秋くん……なんであんな女と……あああっっ!!考えたくもない」
「千秋様……私が子供が出来る身体だったら、やすやすとのだめに渡したりしないのに……」
「……頼むから……少し言動を控えてくれ」

この変わった騒がしい集団はなんだろうと、周囲には人だかりが出来ていた。
千秋は大きく溜息をついた。







タクシーは、横浜にある三善の家に向かう。
のだめは、さきほどから落ち着かない様子で溜息をついてばかりの千秋に気づいた。

「先輩、どうしたんデスか?」
「いや……別に……」

顔は強ばって、その声もどこか震えているようで。
のだめはその理由に検討がついた。

「……先輩……もしかして……怖いんデスか?」
「バ……!……」

否定をしないというのは事実なのだろう。
なんと言っても、三善の家では、母征子の他に、連絡を受け急遽上京した、のだめの両親、野田辰男と洋子も待っている。
両家の家族全員できちんと話し合おうということになったのだ。
千秋にとっては、毒蛇の巣に飛び込むような心もちであるのは当然といえよう。
のだめはそっと震える千秋の手に、自分の手を重ねる。

「……大丈夫デスよ」
「………」
「まさか、辰男だっていきなりちゃぶ台ひっくり返したりしまセンよ」
「………」
「……でも、一発くらいは殴られるかもしれまセンね。
 九州男児デスから」
「………」

車はもうすぐ三善家に到着しようとしてきた。






三善邸に着くと同時に家政婦から客間に案内される。
そこでは、重苦しい空気が漂っていた。
ソファーに座り、お互いに厳しい顔で向かい合っているのは、辰男と洋子、そして反対側には千秋の叔父竹彦と征子。
辰男と洋子、征子はお互いに真剣な表情で睨み合っている。
千秋は事の成り行きに不吉な予感を覚えた。

これは……もしかしたら……かなり話がこじれてしまったのだろうか……。

やはり、結婚もしないうちから妊娠という事実が、のだめの両親の怒りを買ってしまったのかもしれない。
いや、それよりも指揮者という不安定な職業の自分が気に入らないという訳では……。

「とにかく……」

征子が重い口を開いた。

「これだけは、絶対に譲ることはできません……。なんていっても真一は一人息子です」
「それを言うなら、うちだって可愛い愛娘ばい!!」

辰男もすかさず言い返した。
のだめはこんな厳しい口調の辰男を見るのは、初めてだった。

「野田家は、確かにこちらさんと比べるとしがない海苔農家じゃけんが、田舎には田舎の誇りというもんがある。それを無視しんさるようでは……」
「誇りとかそういう問題ではないと何度言ったらわかるんですか!!」

思わず声を荒げる征子。
辰男と征子は睨み合い、今にも取っ組み合いの喧嘩をしそうなせっぱ詰まったような雰囲気だ。

「……あら、恵。帰ってきとったん」

洋子が、今気づいたかのように言った。
その言葉に、辰男と征子も二人の方を見る。

「真一……」
「恵……」

千秋は深呼吸した。

どんな歴史ある格式高い舞台にあがる時よりも、初めて指揮者コンクールに出場したあの時よりも緊張していた。
握りしめた手がぶるぶると震える。

「すいません……今回は、僕たちのために集まっていただいて……」

のだめも神妙な面持ちで千秋の隣で俯いている。

「もう、お聞きになったかと思いますが……恵さんは……ただ今、妊娠しています」
「………」
「本当に……今更ながらこんなことを言うのは……申し訳ないのですが……」

千秋は大きく息を吸い込んだ。

「僕に、恵さんをー」
「……ああ、よかよ」

辰男は千秋の言葉を遮って、あっさりと答えた。

「へ?」

洋子も征子もにこにこしながら二人を見ている。

「いや〜、二人とも仕事が忙しい忙しいっていって、なかなか結婚するようにならんやったやろ?。
 恵がいきおくれんか心配しとったんやわ〜」
「出来婚も今風ですよね。いいきっかけです」

そうして母二人は顔を見合わせてにっこりと笑う。

「……まあ、立ってないで座ったらどうだ?恵さんも疲れていることだろうし」

のんびりした口調の竹彦に薦められるがままにソファーに腰を下ろす千秋とのだめ。
そして千秋は、改めておそるおそる聞いた。

「あの……そしたら、いったい何のことで争っていたんですか?」
「はっそうやった!!」
「いけない!!本題を忘れてたわ!!」

そう言ってまた睨み合う辰男と征子。

「うちでは昔から、結婚式は神前式と決もうとる!!。
 神様の前で2人が三三九度の盃をかわして結婚を誓い、親族同士が結びつく厳粛な儀式ばい!!」

………は?

「結婚式は女性にとって最高のセレモニーですよ?。
 チャペルで美しいパイプオルガンの響きに包まれながらヴァージンロードを歩くのが永遠の憧れじゃないですか!!」

………へ?

「あの〜」
「いったい……」

呆然となるのだめと千秋に、洋子がこそっと耳打ちした。

「いやね、二人が結婚することは両家とも諸手をあげて賛成とよ。
 だけど、教会式か神前式かで揉めて揉めてさっきからこの状態でね〜。
 両者とも一歩もひかんとよ」
「はあ……」

そうしている間にも二人の言い争いはヒートアップしている。

「もちろん、真一くんには紋付き羽織袴を着てもらい、恵には白無垢を着せる」
「ヒイイッッ……考えられないわ!!。
 のだめちゃんには純白のウェディングドレスが絶対に似合う筈ですよ?」
「それから親戚一同と、わしの昔からの友人関係もよんで豪勢な披露宴を行わなわんと!!。
 もちろん2人には金屏風の前に座ってもろうて」
「やだわ……金屏風なんて……目眩がします!!。
 神父様の前で指輪の交換……そして誓いのキス!!これがいいんですよ!!」
「キス〜〜〜〜!!。 人前でそんな破廉恥なこと、絶対に許さんばい!!」
「もちろんブーケトスもないと……フラワーシャワーももちろんかかせませんわ!」
「ん?披露宴中にバレーの試合でもしんさるんかい?。
 そして汗をかいたからとて披露宴中にシャワーを浴びるのはいくら何でも招待客に失礼ばい!!」
「とにかくウェディングドレスよね!!のだめちゃん!!」
「白無垢を着た恵の姿が見たいじゃろ?千秋くん!!」

2人に突然話を振られた千秋とのだめは、思わず言葉を失った。

「え……っと」
「どちらと言われても……」

征子と辰男は真剣な眼差しで睨み付け、2人の答えをじっと待っている。
千秋とのだめは顔を見合わせたまま、困惑するばかりだ。
なにしろ、この2人、結婚を認めてもらうことに精一杯でそんなことは全然頭になかったのだ。
仕事もつまっていたこともあって詳細を話し合う余裕もなく、今回も特別に無理にスケジュールを調整しての帰国だった。

「のだめ達はその……」
「式は別にしなくてもいいと思ってるんですが……」

おそるおそるこう切り出す2人に、辰男と征子がキッと2人を睨み付けた。

「なんだって!!」
「なんですって!!」
「恵……結婚するなら、きちんと式と披露宴はせんといかんばい!!」

辰男がドンとテーブルを叩いて言った。

「そげな冠婚葬祭などの重要なことは省いたらいけん……。
 昔からある儀式というものは、存在意味があるからこそ現在でも続いているけん。
 周囲へのお披露目とご挨拶をするという意味もある。
 今まで生きてきてお世話になってきた方々全てに感謝する場でもある。
「……なんより、老い先短いじいちゃんとばあちゃんが、恵の花嫁姿を楽しみにしとるばい……」
「あ……」

それを言われては弱い。
のだめは神妙な顔で黙り込む。

「それに、やっぱり恵の旦那を、とし兄、さぶ兄、やこ姉、みさこ姉とか親戚連中にも紹介せん訳にはいかんばい」
「あと、おとうさんがお世話になってる海苔農家協同組合のお偉方にも声をかけんと失礼やし……あとお父さんの友達とか近所の人とか」
「そげん人まで呼ぶと!?」

思わず、声をあげるのだめ。

「「当たり前たい」」

当然のことのような顔をして頷く辰男と洋子。
征子も、少し落ち着いたゆっくりとした口調で千秋の説得にかかった。

「真一……あなたにとってはそういう儀礼的なことはわずらわしいものかもしれないけど、これだけはきちんとしておかないと……」
「しかし……」
「結婚式は『一生を添い遂げる覚悟』を周囲に披露することによって、人生に区切りをつけるものなの」
「お前も三善関係には今までかなり世話になっている筈だ」

毅然として言うのは竹彦。

「これからも彼らとは長いつき合いになるだろうし……そういうことで礼を欠かす訳にはいかない」
「竹彦おじさんの立場も考慮してね。真一」
「………」
「あなたも指揮者としてやっていく上で、呼ばなければならない人がいるんじゃないかしら。
 そう……例えば師匠のシュトレーゼマン氏とか」

千秋の脳裏に高笑いするシュトレーゼマンの姿がよぎった。

『そっうデ〜ス!!ワタシを呼ばないでのだめちゃんとこっそり結婚するなんて、許しまセ〜ン♪』

……考えただけで頭がくらくらしてくる。

呼ぶのか?呼ばないといけないのか??あのクソジジイを!!。

黙りこくってしまった2人を見た征子は、優しくこう言った。

「とりあえず、長旅で疲れたでしょう?。
 部屋を用意してるからゆっくり休んで、またあとで相談しましょう」






「はうう……」

用意された部屋に入るなり、倒れるようにバタリとベッドに顔をうずめるのだめ。
それを見た千秋が心配そうに声をかける。

「……大丈夫か?」
「あ、ハイ。ちょっと疲れただけデス。でも……」

のだめは、ふうっと溜息をつきながら言った。

「結婚するって……大変なことなんですネ」
「そうだな……俺も甘く考えていたよ」

神妙な顔で言う千秋。

まさかここまで大事になるとは思っていなかったのだ。
とりあえず、籍だけ入れて、あとは両家で食事会をすればいいくらいに思っていた。

結婚式……。

自分が結婚をするという実感もまだ湧いていない千秋には、自分達が結婚式をあげる姿というのがイメージできていなかった。
……そんな形式的なことをしなければいけないのか?。
本当に。
仕事のスケジュールの調整もしなければいけない。
打ち合わせや準備などで時間と手間もかかり、そしてかなりの金を使うだろう。
千秋は、そんな見せ物のようなことに金をかけるのはくだらないことだという意識がある。

正直にいえば……面倒くさいという気持ちの方が大きかった。

そんな千秋の思いを察したのだめは、しばらく黙っていたが……やがてポツリと呟いた。

「先輩……」
「ん?」
「……もしかして……」

何かを言いかけてのだめはやめた。

「……やっぱりいいデス」
「え?」
「えへへ。気にしないでくだサイ」

のだめはいつものように、にこっと千秋に笑ってみせる。
だが、長年のつき合いから、のだめの様子が何かいつもと違うということに千秋は気づいた。


こんな笑顔の時……。

のだめは普通に笑っていても。

……本当は別のことを考えてるんだ……。


千秋はふうっと溜息をつくとのだめに向き直る。

「何だよいったい」
「……別になんでもないデスって」
「……何か、言いたいことがあるなら、ちゃんと言えよ!!」

やはりごたごたの連続で疲れているのだろう。
苛立ったような千秋の口調に、のだめはびくっと身を震わせた。
しばらくの間、黙ったまま思いを巡らせているのか、視線を彷徨わせる。
そして、ごくりと唾を飲み込むとこう言った。

「……か?」

小声でよく聞こえない。

「え?聞こえないぞ。もうちょっと大きな声で言え」

のだめは大きく深呼吸した。

「先輩は……のだめに赤ちゃんが出来て……本当に喜んでマスか?」
「え?」

千秋は絶句した。
まさかこの期に及んでそんな台詞を聞くとは思わなかったのだ。
のだめはわざと軽い口調で言った。

「……なーんか、先輩、全然嬉しそうじゃないもんデスから」
「……それは……」

言葉につまる千秋。

「のだめに赤ちゃんが出来た……って言った瞬間の先輩の顔、すごく覚えてマス。
 すごく……困った顔をしてました」
「………」
「先輩のあんな顔……のだめ、初めて見ました」

のだめはふふっと笑いながら天上を見上げる。

「……それは……急だったから……びっくりして……」
「飛行機の中では、ずっと真っ青な顔してたし……」
「……飛行機はちょっと……」
「空港に峰くん達が迎えに来てたら、すごく迷惑そうな顔してたし……」
「……あんな垂れ幕作られたら誰だって引くだろ……」

千秋は何故かずっとのだめの目尻だけを見ていた。
のだめの瞳は潤んでいる。
窓から差し込む日の光に照らされて光る透明な涙がみるみる溜まっていって、今にも決壊が崩れそうで。

溢れる。

溢れる。

でもその一歩手前で、どうにかぎりぎり踏みとどまっているのがわかる。
その瞳から溜まった涙がこぼれないように、のだめは何度も何度も目を瞬かせて。

「もしかして、先輩は結婚なんてしたくないんじゃないかって思って」
「そんな……」
「子供なんて……本当は欲しくなかったんじゃないかって……」

その言葉を言った瞬間、自分でも感情が溢れ出したのかのだめの声がつまった。
ぽろっと一筋の涙が線を作り頬をこぼれた。
その瞬間くるりと千秋に背中を向ける。
必死に声を押し殺しているが、かすかに肩が震えているのがわかる。

「いや……ですネ。妊婦さんはどうもナーバスになっちゃって……辛気くさくていけませんネ……」

冗談交じりに背中越しに涙声で言うその姿が、あまりにも切なくて。

千秋はしばらくの間、言葉を発することができなかった。

考えてみれば、千秋はのだめとそのことについて何も話をしてなかった。

あまりにも事態の進展が早くて……。
正直、頭が混乱して状況に追いつくのに精一杯で……。
妊娠させたからには、結婚という形をとらなければいけないという意識の方が先に立って。

千秋はずっとのだめの気持ちを思いやる暇がなかったことに気づいた。

突然の妊娠報告から、ここ三善家に来るまで、のだめは明るく元気にふるまっていた。
こんな大事になったのに、当の本人がのほほんとした態度でいるもんだから。
そのあまりにも普段通りののだめの態度に、千秋は呆れかえり……本当のことをいえば少し苛ただしかった。


だけど。


それは見かけだけのことで。


……本当は。


本当は……ずっとずっと不安でたまらなかったのじゃないだろうか。
自分と自分のお腹の子が受け入れられてないんじゃないかという不安に苛まれていたんじゃないだろうか。

いつものように明るく呑気に振る舞いつつも、ずっとずっと千秋に気を使って、心を痛めて……。


それでも……千秋は言葉が出なかった。


今までのだめに「好きだ」とも「愛してる」とも言ったことがない。
千秋は、自分がそんな愛の言葉を囁くような柄ではないことをよく知っていた。
そしてのだめもそんなこと言わなくてもわかっているとずっと思っていた。

ただ側にいるのが当たり前で。

いずれは一緒になるのだろうと漠然と思っていて。


お前のことを愛しているんだ。
結婚しよう。


そんな言葉が自分の口からすっと言えたらいいと思った。

そうしたら。

どんなにのだめの心を安心させられるだろう。
のだめをこれ以上苦しめずにするだろう。

それがわかっているのに。


……それが……わかっているのに……その言葉が出てこない。


千秋はそっとのだめを背中から抱きしめた。
その瞬間ひくっとのだめの口から声が零れる。
思った通り、のだめの顔は涙でぐしゃぐしゃで。
前に回した千秋の手に、後から後から生暖かい雫が落ちてくる。

千秋はさんざん言葉をさがしあぐねたあげくに、こう言った。

「……机……買おっか」

思いがけない千秋の言葉に、のだめは面食らった。
どうして、何がどうなって、そこで机という言葉が出てくるのかわからなかった。

「………」
「机……いるだろう……?」
「……?」
「……子供が……勉強するために……」
「………」
「あれって……小学校入学の時に買うのかな……」
「……そんな……」

のだめは呆然としたまま答えていた。

「産まれてもないのに……まだまだずっと……先じゃないデスか」
「だって……どうせ、必要になるもんだろう?」
「………」
「……ランドセルとかも……」
「……まだ、男の子か女の子かわかりませんヨ」
「あ……そっか……」

そんな基本的なことに気づかなかったというような千秋に、のだめは可笑しくなって泣き笑いの表情になった。

そして次の瞬間。
堪えきれないように嗚咽を漏らした。
そのまま大きく肩を揺らして、しゃくりあげた。


わかっていた。


千秋は自分の気持ちを言葉に出して言うような男じゃない。
きっと「好きだ」とも「愛してる」とも、一生言われることはないだろう。


でも、それでいいんだとのだめは思った。


そういう不器用な人だとわかっていて、好きになって、共にずっといたいと思ったのだ。
そんな男を自分自身が選んだのだ。

そして……そして……ずっと、共に生きていくんだと思った。

自分と……自分の中に宿っている新しい命と……。

のだめはもう堪えようとしなかった。
振り向くとぐしゃぐしゃの顔をしたまま、千秋の首にすがりついて、わああっと大声をあげて泣き出した。
その涙は、熱く自分の頬を伝わり落ちて、千秋の肩を濡らしていく。
泣くがままにまかせて、千秋はのだめの体をずっとずっと強く抱いていた。
時折、落ち着かせるようにポンポンと背中を優しく叩く。

永遠に泣き続けるかと思うくらい、のだめは声をあげて泣いていた。

そして泣きじゃくりながら言った。

「ぜ……ぜんばい……」
「ん?」
「あの……」
「なんだ?」
「先輩のお気に入りのシャツに……鼻水ついちゃたんですけど……いいですか……」
「……頼むからやめてくれるか……この状況で、そういうオチ……」





しばらくした後、千秋と目を赤く泣き腫らしたのだめは客間に戻った。
竹彦と征子、辰男と洋子が心配そうに2人を見つめている。
千秋はのだめの手をぎゅっと握りしめたまま言った。

「僕は、恵さんと結婚します」

誰も何も言わなかった。
のだめが鼻をすすりあげる音だけが部屋に響く。

「だから……ちゃんと、式をあげようと思います。
 ……僕たちが今までお世話になった方々にきちんと認めてもらえるように……それ相応の式を……」
「………」
「だから……どうか……協力してください」

千秋が怯むことなくそう言って頭を深く下げた瞬間、部屋の中にいた4人から拍手が起こった。
手を叩く音が、4人の笑顔が、優しくのだめと千秋を包む。

「い、やあ〜〜、よかったばい!!」
「のだめちゃんの泣き声が聞こえてきたから心配してたのよね〜。こみ入ってるんじゃないかって」
「真一!!。よくぞ言った!!」
「これで、私らも計画を実行しやすくなったばい♪」
「……は?」

千秋は思わず聞き返した。
頭に不安がよぎる。

「計画……って……なんですか……?」

すると、4人は一応ににんまりと笑って言った。

「いやね〜、どうしても教会式か神前式かって、両家の折り合いがつかんもんじゃけんね〜」
「この際だから、2回披露宴をやろうかっていうことになって」
「まず、福岡県大川市で、神前式で式をやってそのまま料亭で披露宴」
「次の日、東京でゲストハウスで結婚披露パーティ」


……… ……… ………


「「はああああ?」」


驚きで目を見開く2人。


「いや、千秋くんの事務所にちょっと電話で相談してみたとよ〜」
「そしたらば、そういうことならばっていうことで4月の初めに、休みを取れるようにスケジュールを調整するっていうもんだからね」
「恵さんの事務所もそこら辺りは調節してくれるそうだ」
「あ、これ、シュトレーゼマンさんからの直々のFAXよ、真一」

征子から手渡されたFAX用紙に目を通すと、そこには。

『千秋〜〜〜。
 のだめちゃんと結婚することになったそうですネ。
 ワタシに何も言わないなんて、水くさいじゃないデスか〜〜〜。
 そういえば、日本には、仲人という重要なシステムがあるということを聞いたことがありマス。
 という訳で、急遽ミーナに連絡を取ってみたところ、オッケーの返事が出ましたので、ワタシとミーナで貴方達の仲人をやらせてもらいマス。  
 ワタシもばっちりスケジュール空けとくので、楽しみにしててネ♪』

千秋の紙を持つ手がぶるぶると震えた。
そして千秋は叫んだ。

「何考えてんだっっっ!!あの、くそジジイーーーーーーーーーーッッッッ!!」



これが怒濤の2日間の始まりだった。