「……ったく何やってるんだよ!!。すっかり遅くなったじゃないか!!」
タクシーを降りて走りながら凱旋門を抜けるのはリュカ。
すっかり背も伸びて凛々しい青年になったものの、まだ少し昔のあどけなさが残っている。
その横を、ヒールをカツカツいわせて、深紅のカシュクールドレスのスカートの裾をたくしあげながら、こちらも懸命に走るRui。
「仕方ないじゃない。昔から女性は、準備に時間かかるものヨ!!」
「だいたい、Ruiがディズニーランドに行きたいなんて言うからいけないんだよ……すっかり時間くっちゃったじゃないか!!」
「何、言ってるのよ。リュカだって、スプラッシュマウンテンで大喜びでワ〜とか言って両手上げてたりして、じゅうぶん楽しんでた
じゃない」
「うぐ……だいたい、なんで僕がパレードの場所取りまでさせられるんだよ」
「やっぱりパレードは一番前で見ないとネ♪」
「Ruiは世界中を演奏旅行で回ってるんだから、どこの国でもディズニーランドには行けるでしょ!!」
「あー早く上海ディズニーランド出来ないかなあ」
全然懲りてないRuiに、リュカは溜息をついた。
偶然にもスケジュールがタイミングよく合って、同じ頃に来日したこの二人。
当日の夜まで時間があるから、ディズニーランドに行こうというRuiの提案で千葉県浦安市まで足を運んだ訳だが。
どうしても最後にホーンテッドマンションに乗りたいといってきかないRuiにつき合っていて行列に並んでいたら、すっかり遅くなっ
てしまった。
広い園内を一日中さんざん歩き回ったので、リュカの足はカチカチの棒のようだった。
「明日は一緒にシーに行こうネ♪」
両手を組んで片目を閉じる、Rui必殺のおねだりポーズである。
これに落ちない男はいない……筈なのだが。
「行かない」
「えー、なんでーーーっ」
「そういうのは彼氏といけばいいじゃない。都合良く僕を引っ張り回さないでよ!!」
ぶつぶつと文句を言うリュカにRuiは笑って言った。
「いいじゃない。リュカだって今のところ特定の彼女はいないんでショ」
「ぐ……」
図星である。
遊ぶ相手には不自由していないが、今まで誰か特定の女性を本気で好きになったことはない。
……ただ一人をのぞいては。
「……私も残念ながら、もっかバキューンの人はいないしネ」
「……何の話?」
「さあ」
建物に入ると、もうすでに時間だったのか、受付のテーブルを片づけはじめていた。
どうやらリュカとRuiが最後のゲストだったらしい。
1人の女性が振り返って目を見開くと大声をあげた。
「キャッーーーーーッッ!!」
そしてもう1人の女性に声をかける。
「ねえ、レイナちゃん!!。ピアニストのリュカ・ボドリーだよっ!!」
「えーーーーーーーーーーーっっっ!!本当だ、マキちゃん!!」
マキとレイナという女性達は、キラキラした目つきでリュカを見つめる。
「あ……あの、リュカさん……ファンなんです!!」
「私もです!!」
「一緒に写真撮ってください!!」
日本語が堪能ではないリュカは振り返ってRuiに助けを求める。
「なんて言ってるの?」
「……一緒に写真撮ってくれだって」
何故かRuiは不機嫌そうに翻訳した。
「ああ、いいよ」
最近、世界でも注目されてきたリュカは、どこに行ってもそんなことを言われることには慣れていた。
そうしてリュカを挟んでマキとレイナは最高の笑みを浮かべる。
……なんで、私がカメラマンなのヨ。
Ruiは渡されたマキのデジカメでぶすっとしたまま、3人の姿を撮影をした。
何度も何度も頭を下げてお礼を言い、ちゃっかりとリュカに握手も求めるマキとレイナを後ろに、Ruiはずんずん一人で先に歩いてい
く。
リュカが慌てて後を追う。
「ちょっと待ってよ。何でむくれてるの?」
「べっつに〜〜〜。むくれてないヨ」
「だって、その顔……」
「ふんっ。なによ……リュカなんてこの世界じゃまだまだヒヨッ子のピアニストのくせに!!」
「何それ……感じ悪っ!!。だいたい、Rui、今日のメイクいつもより濃くない?いくらチアキに久し振りに会うからって」
「リュカこそ、朝からのだめのこと考えて、でれーっとしてるくせに!!」
「そ、そんなことないよっ!!」
ギャーギャー言いながらチャペルへ進む二人の若きピアニストであった。
桜 第5話
このゲストハウスのチャペルは、大理石の白いバージンロードが印象的なシンプルで開放感あふれるチャペルである。
昼間であれば、広々とした空間に高い天井からステンドグラスを透過した優しい自然光が降り注ぐ。
ステンドグラスはパリのノートルダム寺院の美しい「バラ窓」をイメージしたものでブルーをベースにデザインされており、清らかな
光が荘厳でしかも温かい。
だが夜になれば一変する。
美しくライトアップされたチャペルが夜の闇の中に幻想的に浮かび上がり、なんともいえないロマンティックな雰囲気を醸し出す。
昼間は緑であふれていたガーデンにも無数のキャンドルがともされその煌めきが目映いくらいだ。
参列者達は、ベストマンである黒木泰則の誘導で席についた。
新郎の介添人ともなるベストマン役を、峰は是非自分にやらせて欲しいと千秋に頼み込んでいたが、あっさり却下された。
理由は千秋曰く
「なんか嫌だから」(笑)。
辰男と洋子、征子が一番前の席にすわり、次にリングボーイとフラワーガールの両親である多賀谷彩子夫妻、親族、次に友人達の順番
だ。
全員が着席したのを確認したら、神父が入場する。
そして新郎である千秋が入場する。
ワンランク上の上品な黒いフロックコート姿の千秋に会場からほうっと溜息が漏れる。
実は千秋の衣装決めでも一悶着あったのだ。
「黒しか着ない」
と言い張る千秋に、征子や洋子、周囲のスタッフが「ウェディングドレスとの相性もあるから、とりあえず白も」と無理矢理白いタキ
シードを試着させた。
ぶすっと不機嫌になりながらも、とりあえず言われるがままに白いタキシードに袖を通した千秋。
黒のタキシード姿に見慣れていた皆の目には、白いタキシード姿の千秋はとても新鮮で魅力的に映った。
「あら……白いタキシードも素敵じゃない!とてもよく似合うわよ!!」
「千秋くん、なんだか王子様みたいで格好いいわ〜」
母親達、そして衣装スタッフからも賞賛の声が次々と上がり、ちらりと鏡で自分の姿を見て自分でもまんざらでもないといった表情を
浮かべる千秋。
だが。
「あーでも」
のだめがポツリと呟いた。
「白いタキシードは白王子のジャンとキャラがかぶりますネ」
……… ……… ………
「やっぱり着ない」
途端に無表情のままもくもくと白いタキシードを脱ぎはじめる千秋。
「恵、余計なことを!!」
「え……ええっ!!いやいや!!先輩の白いタキシード姿、良く似合いマス!!」
「そんなこと言わずに、真一、これも着てみて、ね、ね」
それから先は周囲がどんなに勧めようとも、千秋が黒の礼服以外に袖を通すことは二度となかった。
会場全員の注目を浴び、コンサートとは違った緊張を感じながら千秋が祭壇の前に進む。
神父の開式の言葉。
そしていよいよ新婦入場となった。
まず先頭を切って、少しぎこちなくだけどしっかりと歩いてくるのは、本日のリングボーイだ。
2人のリングをリボンで結んだ、白いサテンのリングピローを持って、バラ色の頬をしながら歩いている。
次に可憐なドレスを着た天使のようなフラワーガールが、持っている花かごからバージンロードに花びらをまき、新婦の行く道を清め
ていく。
美しいバラの花びらの香りがチャペルを包む。
入り口で「べールダウン」の儀式が行われた。
洋子が、この世で今、最高に美しい瞬間のウェディングドレス姿の娘の顔に、ふわっとベールを下ろす。
ベールダウンとは、挙式直前に新婦のベールを母親が下ろす儀式の事だ。
ベールは清浄のシンボルで、悪魔や悪霊から身を守る意味がある。
生まれてまず新婦の顔を見るのはこの世に送り出した母親。
大切な娘をずっと愛情を持って守ってきた。
だけど、その自分の役目は終わったのだ。
これからは、両親が守らなくても、命をかけて守ってくれる人がいる……。
母親がベールを下ろすという事で、両親のもとから完全に離れてしまうという意味があるのだ。
その意味をあらかじめ聞いていたのだめは、ベールがかぶせられた瞬間に、思わず涙が出て来そうになった。
それを洋子が、笑って送り出す。
「きばって、いきんしゃい!!」
唇を噛みしめたまま、のだめは頷いた。
そしてエスコート役である、父辰男に手を絡ませる。
辰男は何も言わず、ただ前だけを向いている。
まるで気を抜いてしまったら、この場で泣き出してしまいそうな、そんな表情だ。
そんな辰男の姿にも胸がつまる。
2人で、一歩、また一歩とバージンロードを歩く。
ドレスの後ろ姿の美しさにゲストからほうっと溜息がもれる。
ゆったりとした空間と長めのバージンロードに映える長いトレーンやベールがさらさらと音をたてて床の上を滑る。
のだめは嬉しさと切なさを同時に噛みしめていた。
そんなバージンロードを歩くのだめの耳に聞こえて来たのは……。
え……?。
……ピアノの音……。
千秋も、打ち合わせになかった曲にしばし戸惑う。
確か、パイプオルガンの生演奏と聖歌隊の歌声でという場面の筈だった。
今流れているこの曲は生演奏ではないようだが。
でも……。
これは……。
この音は……どこか、懐かしい……。
「!!」
はっと気がついた千秋は、母、征子の方を振り向いた。
征子は微笑んで、ゆっくり頷く。
千秋はしばし呆然としながらも、自分に向かってくるのだめの顔を見た。
笑顔で歩いているその瞳にも涙が滲んでいる。
のだめも気づいていたのだ。
……このピアノの演奏者が、千秋雅之氏であることに……。
「舟歌(バルカローレ)嬰へ長調 Op60」フレデリック・ショパン
ショパンの作品中「舟歌」のタイトルで作曲されたのはこの1曲だけで、1846年に完成され、同年に出版された。
シュトックハウゼン男爵夫人に献呈。
恋人ジョルジュ・サンドと絶縁状態になる1847年以降、ショパンは作曲をほとんどしなくなってしまい、その2年後には他界する。
ショパン本人は弟子に「2人以上の人の前で弾いてはならない」旨伝えたといわれている。
今日この曲はショパン晩年の傑作のひとつに数えられている。
「舟歌(バルカローレ)」という音楽は、ゴンドラなどの船乗りが口ずさんだ歌に由来する物で、オールをこぐのに合わせたそのリズ
ムから、8分の6拍子で書かれていることが多い。
ショパンはこれを8分の12拍子に拡大して、伴奏のモティーフが1小説の中に2度現れるようにし、曲の流れをより滑らかで、息の長い
ものとしている。
このモティーフは、最初の短い豊潤な和声進行でひらひらと舞い降りる序奏の後、舟を漕ぎ出すようにして単独で現れ、メロディーを
のせて延々と続く。
最初は3度で重ねられている2声のメロディーは、近づいたり離れたりしながら滑らかなラインを形作る。
常に揺れ続けるような伴奏音型を持ち、その上で歌い継がれる「歌」の何と美しいことか。
幻想性のある高度な転調で一度盛り上がった後、イ長調の中間部に入る。
中間部ではこれが短い伴奏形に変わった後、初めのメロディーと共に再び現れ、曲はフィナーレへ導かれる。
ピアニスティックな演奏技法。
ショパン晩年の高貴な精神を宿す傑作であると共に、ピアノ演奏における高度な表現能力を要求される難曲でもある。
はっきりと彼の音を覚えていた訳ではなかった。
幼い頃は毎回コンサートに行き、その父親のピアノに魅せられ続けていた。
家で、練習する父のピアノを側で聞きたくて、少しでも近くにいたくて駄々をこね、いつも部屋を追い出されていた。
自分がこの世に生まれて一番最初に耳にした音楽はきっと父のピアノだっただろう。
……多分、母の胎内にいる時から聞いていたに違いない。
それも父親がめっきり家に帰ってこなくなり両親が離婚してからは、彼の演奏自体を聞くこともなくなった。
いや、敢えて耳に入れないようにしてきた。
彼の載った雑誌は全てゴミ箱に投げ入れ、テレビに現れる度にチャンネルを切り、ラジオを切り替えた。
彼という存在自体全てを消し去りたかった。
その記憶の奥底に眠っている音すらも忘却の彼方に葬りさってしまった……筈だった。
だけど。
こんなにも、はっきりと、耳が……心が……覚えていたなんて。
音の響きを。
かすかな癖を。
ピアノを弾く時の真剣な横顔。
子供ながらに声をかけてはいけないような、張りつめた空気。
部屋の中に燻る煙草の匂いまでも、昨日のことのように鮮明に思い出されてくる。
「鬱陶しい」と自分を、母を否定された日のことを思った。
悔しくて悔しくて見返したくて必死で音楽を勉強した日々を思った。
「千秋先輩はお父さんと共演するのが目標だったんですね」
のだめから言われたのはいつだったろうか。
マルレ・オケのコンサートに奴が来ていて、演奏に大失敗したあの日。
自分がまだ、父親に何かを期待しているのを知った。
千秋はもう一度、征子の方を向いた。
征子は優しい目で見つめている。
征子がこの曲をメールで受け取ったのは、昨日の夜だった。
忙しい朝、バタバタしながらメールチェックをしていたら、めったに連絡の来ない相手からメールが来ているのに気づいた。
多分、即興で演奏して録音したものだろうという曲が共に送られていた。
もしかしたら……前日、花嫁から届けられたという花束で彼の心の何かが動いたのかもしれない。
こう書いてあった。
好きに使え 雅之
征子は、急遽会場に連絡を取り、予定していたパイプオルガンと聖歌隊の演奏を中止してもらい、この曲を流してもらうことにしたの
だ。
突然、流れてきた曲にとまどうような表情を見せるゲスト達。
会場にいる何人かの音楽関係者は、もしかしたら気づかれてるかもしれない。
その曲は……のだめと千秋の心の一番奧の中まですうっとはいって行き……体の隅々にまで行き渡って……。
「………」
こんなに……あたたかい優しいタッチで弾くような奴だったっかな。
記憶の中の父親のピアノは、もっとシュールで冷たかった。
家で練習している父は、子供の自分や母が部屋に入るのも嫌がり、いつも苛立っているようでもあった。
鍵盤に指も置かず楽譜も置かず、何時間もピアノの前に座ってただ前だけをじっと見つめ、何かを掴もうと苦しんでいる姿。
その背中を思い出す。
あの時の冷たく感じていた音は、突き放されたという思いから、記憶の中で勝手にそう思いこんでいたのだろうか。
それとも、あれから長い年月の間、彼の中の何かが変わったのだろうか。
のだめは千秋雅之のコンサートを聴いて、素晴らしかったけど、悲しかったと言っていた。
ピアノだけなのかって……。
千秋は、不覚にも瞼が熱くなるのをぐっとこらえる。
そんな……。
曲が流れたくらいで泣いてたまるか。
……だいたい、なんだよ……この選曲は!!。
「舟歌」って……ショパンって……。
嫌がらせかっっっ!!。
征子は、悶々と複雑な表情をしている息子の顔を見ながら苦笑した。
よりにもよって……この選曲……ねえ。
雅之さんらしいわ。
多分、「舟歌」だから、舟で漕ぎ出していく感じで、結婚の門出を意図しただけで悪気はないんだろうけど。
「舟歌(バルカローレ)」は愛人ジョルジュ・サンドとの破局、持病の肺結核、すべてにおいて絶望的な状況の中で作られた。
この曲には私的な感情を込め、失われていくものへの憧れ、寂しさ、痛み、悲しみ、孤独が織り込まれている、それが極めて幻想的で
ショパンが晩年に辿り着いた最高の境地、それがまさにこのバルカローレ。
ショパンの一生は波瀾と激動に満ちたものであった。
祖国喪失の悲しみ、そして、ジョルジュ・サンドとの愛と別れ、そして結核にむしばまれてののたれ死同然の最後。
まさに、悲劇の人生を送ることの多かったロマン派の音楽家の中でも、とりわけ痛苦に満ちた一生を送った人間、それがショパン。
……柳川で、舟に乗って「川上り」をして死ぬような思いをしたばかりの真一にとって、この曲はキツイわよねえ。
それにこの曲が作曲された背景も微妙だし。
そういう空気が読めないところが雅之さんらしいというか。
この辺りのタイミングが悪くてすれ違ってしまうのがこの父子らしいというか。
全く笑っちゃうわ。
だけど。
もう、貴方にもわかってるんでしょう、真一。
音楽でしか、思いを伝えることができない人間もいるんだってことくらい……。
そしてついに辰男にエスコートされたのだめが祭壇にたどり着いた。
2人の父親に送られながら、バージンロードを歩いてきた白いレースのベール越しののだめの瞳は感動の涙で光っていた。
それに答えるのが癪だったので、思わずそっぽを向く千秋。
祭壇の前に着くと、神父がのだめに向かって言った。
「あなたを今日まで守りそだてたのは?」
のだめは大きく息を吸った。
「父と母です」
そして今度は父親である、辰男に向かって神父が尋ねる。
「あなたが今日まで守り育ててきた娘をこの男に託しますか?」
本来ならば、ここで父親が「はい」と頷く瞬間なのだが……。
いつまでたってもその言葉が出てこない。
「辰男……辰男」
小声でのだめが囁いているのがわかる。
涙で顔を濡らした辰男が、のだめの腕をしっかりと掴んだまま放さない。
どうにも往生際が悪いらしい、九州男児、野田辰男(笑)。
見かねた神父が注意を促して、やっと了承し、のだめを千秋の手に渡すという有様。
そして、新郎と父親が、がっちり握手するという、ここは重要な場面なのだが。
ぎゅうううううううう。
海苔栽培で鍛えた辰男の握力が、千秋の右手を思いきり締め付ける。
その顔は「娘をよろしく頼む」ではなく「てめー、よくも俺の娘を取りやがったな、コノヤロー」というどす黒い気持ちがバレバレで
。
あの……かなり痛いんですけど……。
千秋は作り笑顔で、その痛みに耐えた。
周りからは感動的な場面に見えるのか、すすり泣く声などが聞こえていた。
ついに観念したのか、辰男はしぶしぶ自分の席につき、千秋とのだめは並んで祭壇の前に立った。
ここでパイプオルガンに合わせて参列者一同で祝福の讃美歌の合唱。
「いつくしみ深き友なるイエスは」
参列者にはあらかじめ楽譜付きの歌詞が配られているが、ほとんどの人間がわからないので普通なら口パクなのだが。
楽譜を初見し慣れている音楽関係者が多いこの会場では、普通ではあり得ないほどの大合唱となった。
峰や真澄も、大声で歌っている。
そして神父により聖書が朗読され祈りが捧げられる。
「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。
また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
たとえ、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましい銅鑼や、うるさいシンバルと同じです。
また、たとえ私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っ
ていても、愛がないなら、何の値打もありません。
また、たとえ私が持っているもの全部を貧しい人達に分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも
立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」
(コリント人への第一の手紙13章4〜8節)
清良はちらりと隣に座ってさくらを抱いている峰を見た。
「ん、どうした清良」
その呑気な顔を見て清良は溜息をつく。
「……結局、結婚って……忍耐ってことよね……」
「なんか言ったか?」
「いや、別に」
そして、神父は千秋とのだめの前に歩み寄り、2人に結婚の誓いを求めた。
「汝、千秋真一は、この女、恵を妻とし、良き時も悪き時も富める時も貧しき時も病める時も健やかなる時も、共に歩み他の者に依ら
ず、死が二人を分かつまで愛を誓い妻を想い妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
千秋は一呼吸置いた。
世にありふれたお決まりの文句ではあるが、この荘厳なチャペルの前では静粛な気持ちになる。
そしてしっかりとした口調で言った。
「……はい、誓います」
そして神父は今度はのだめの方を向いて言った。
「汝、野田恵は、この男、真一を夫とし、良き時も悪き時も富める時も貧しき時も病める時も健やかなる時も、共に歩み他の者に依ら
ず死が二人を分かつまで愛を誓い夫を想い夫のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
「ハイ!!誓いマス」
これは迷うことなく明朗快活にはっきりと答えるのだめ。
向かい合い両手を握り合う二人の手にかかるようにクリスタルの十字架を垂らす神父。
誓約の証としてお互いの愛を込めた指輪交換が行われた。
前もって用意していた指輪を神父がリングボーイから受け取った。
その指輪は二人でパリで選んだものだった。
「ムッキャーーーーーーーーーーッッッ!!。たくさん種類がありマス!!」
「オイ……そんなにはしゃぐなよ……恥ずかしいから……」
のだめはショーケースに陳列された光り輝く指輪達を嬉しそうに眺めながら言った。
「先輩、どれがいいデスか?」
「いや、俺はどれでも……」
「そんなことを言って、マリッジリングを買ったはいいものの、面倒くさいからってつけないってタイプじゃないんデスか?」
じとっとのだめに睨まれる千秋。
「面倒くさいって……そりゃまあ、つけるのは面倒くさいけど……」
「ほら、やっぱり。そうやって独身のフリをして若い女性をたぶらかすんですネ!!」
「お前こそ、ピアノ弾く時には外すんだろう?そのまま忘れてあの汚部屋の中に埋もれてしまうんじゃないのか?」
「そ、そ、そんなこと……ない……とは言い切れまセンが……」
「ほら見ろ」
千秋に言われたのだめは一瞬シュンとなったが、それでも千秋を真剣に見つめた。
「……でも、大事にしマス」
「………」
「すごくすごく、一生大事に、宝物にしますから……だから……」
「………」
ポス。
千秋はのだめの頭に軽く手を置いた。
「バーカ。誰も買わないなんて言ってないよ」
「先輩……」
感動したように目を潤ませるのだめの視線を避けるようにして、わざとぶっきらぼうに千秋は言った。
「……どれがいいんだ。どれでも好きなのを選べ」
「あ、なるべくならデザインがシンプルでデザインがずっと変わらないものがいいデス。無くしちゃった時にそっと買い換えてもばれ
ないような……」
「てめえっっ!!。すでに無くすこと前提じゃねえかっっっ!!」
のだめは、はりきってスタンバイしていたメイドオブオナー役のターニャに、手袋やブーケを預けた。
(この時のターニャはさすがに式場から用意されていた衣装を着ていた)
神父から、千秋が左手で指輪を受け取り、右手に持ち替えてそっとのだめの左手の薬指にはめる。
のだめも千秋の左手をとって薬指に指輪をはめた。
のだめは、どんなコンサートを終えて拍手をもらう時よりも、ずっとずっと幸せそうに、にこおっと笑っていた。
新婦であるのだめは少し腰を落としお祈りする様なポーズをとった。
新郎となる男にベールを上げてもらう、これがベールアップの儀式。
ベールは二人の垣根を意味し、夫婦となるためにその垣根を取り払い、新たな人生を始めるという意味があるのだ。
新郎である千秋は、そっとのだめの顔を覆っていたベールをあげる。
2人を隔てるものは何もなくなったところで誓いのキスを交わす。
クライマックスであるウェディングキス。
……の筈なのだが。
突然、教会内の異様な雰囲気に気づき、はっと正気に戻る千秋。
今まではこの厳かな雰囲気にのせられて、流れるように何も考えずに指示にしたがってきていた。
しかし。
ふと周りを見渡すと。
会場のゲスト達は、皆、この瞬間を待っていたかと言わんばかりに、くらいつくように見ている。
ビデオやカメラが一斉に構えている。
のだめの横に立っているターニャは、目をギラギラさせて興奮しているようだ。
きっとゲスト席の後ろの方では、峰や菊地など悪友達が興味を持ってこの展開を見つめているのだろう。
それに……のだめ。
なんで、キスするのにそんなタコみたいな口で待っているーーーーっっっっ!!。
早く……。
早く……。
早く……。
kiss the girl。
kiss the girl。
kiss the girl。
会場内から、無言の圧力とプレッシャーを感じる。
さっきから辰男が殺気めいた目で千秋を睨み付けているのも、突き刺さるように痛い。
千秋の背中を冷たい汗が流れる。
だ……だめだ……。
俺には出来ない……。
ここは、頬か額に軽く唇をつけるくらいで勘弁してもらおう……と思ったのが、のだめに伝わったのか。
のだめはふうっと溜息をついた。
「……全く……世話がかかるったい」
小声で呟いたかと思うと、いきなり両手で千秋の襟首を掴むと、自分の方へ引き寄せた。
そして。
ぶちゅ。
強引に千秋の唇に自分の唇を押しつけるのだめ。
おおうっっとその瞬間、会場内からどよめきの声が響き渡った。
千秋は予想できぬ出来事に目を白黒させている。
のだめはそのまま3分間という長い間、唇を重ね続けていたが、やがて離れるとふうっと息をついた。
酸欠状態になった千秋が思わず咳き込んだ。
新婦が新郎に強引にキスするという珍しい光景を見て動揺しながらも、神父が2人の結婚が成立したことを宣言して、結婚式は終わった。