チャペルの外に出ると、すっかり辺りは暗く闇に包まれていた。
だがガーデンには眩いばかりのイルミネーションが煌き、空には満天の星空、と絶好のロケーションである。
そんな宝石が輝くような光景に思わず感嘆の声をあげるのだめ。

そして、ここでも千秋に試練が待っていた。

付き添っていたスタッフが千秋に耳打ちをする。

「この階段の下にはゲストの皆様が待ってますから、花嫁様をお姫様のように抱いて降りてください」



……… ……… ………



「ムキャ!!お姫様抱っこですネ!!」

喜びで満面の笑みを浮かべるのだめに対し、さあっと一気に血の気がひく千秋。


お……お姫様抱っこ?。

この……俺様に、そんなことをしろって……?。


情けない顔で呆然と立ち尽くす千秋に、のだめが肩をポンと叩いて言った。

「先輩、できないんデスか?」
「………」
「……なんならのだめが先輩を抱っこしますヨ♪……」

にっこりと笑うのだめの笑顔が悪魔の微笑みに見えた。


……こいつなら……やりかねない……。


先ほどののだめの強引なウェディングキスを思い出して、ぞっと寒気がする千秋。


仕方がない……これも演出だ……。


千秋は覚悟を決めて、のだめの背面から腕を回して胴を掴むと共に、膝の下に差し入れた腕で足を支え、ふわっと持ち上げる。
長いベールとトレーンは取り去ったものの、ウェディングドレスがかさばっていて、いささか持ちづらい。
それでも、のだめは感動しているようである。

「ふおお……お姫様抱っこですね……」

思っていたよりも意外な軽さに拍子抜けしている千秋に、そっとのだめが言った。

「気をつけてくださいネ……2人分の体デスから……」

そうだった。

今の今まですっかり忘れていたが、のだめは妊娠中の大事な体なのだ。


そう思った瞬間自分が今抱いているのはただの女性ではなく、神聖な宝物なのだということを千秋は気づかされた。





第6話





千秋の足がゆっくりと慎重に動く。

落とさないように。
大事に大事に抱え込んで。

2人が白亜の大理石の階段の上に現れると、途端にキャーーーーッッ!!と歓声が沸いた。

「かわいい〜!」
「お姫様抱っこだ〜!」
「素敵〜!!」

それと同時に鐘の音が会場全体に鳴り響く。
クリスマスイルミネーションのように華やかでロマンティックな光の演出が2人を待っていた。
背後のチャペルは黄金色にライトアップされ、足下に置かれた無数のキャンドルの灯火が幻想的な世界を醸し出す。
のだめの光沢のあるドレスと、施されていたスワロフスキービーズも照明の光を受けて目映いくらいにキラキラ輝いていた。




その時。




ふわ……。

満天の星のかけらが落ちてきたようなそれは……。

奇麗な花びらのフラワーシャワーと白い羽のフェザーシャワー。

「きれい……」

ピンクの花びらと白い羽毛が、階段に並んだゲスト達から一斉に降り注がれる。
生花の花びらがその重さでふわりと先に舞い落ちる。
その後で余韻を残すようにひらひらと揺れながら舞い落ちる白い羽。
フラワーシャワーとは、花の香りによって幸せを妬む悪魔から2人を守る清めとしての意味がある。
階段を一段ずつ降りる度に、祝福の言葉と色とりどりの花びらと天使の羽に包まれる。
あちこちに見慣れた顔がいて。
誰もが笑顔で祝福の言葉をかけてくれる。
その一人一人にゆっくりと笑顔を返せることがとても嬉しくて。

「……オイ」

千秋が不機嫌そうな声で言った。

「誰かが俺にフラワーシャワーを塊で投げつけてるんだが……」

のだめが後ろを振り向くと、リュカがまるで野球のピッチャーが投球するように花びらの塊を千秋の背中にぶつけていた。

「リュカ……大人気ないヨ……」

Ruiが呆れた顔で隣で呟くのをよそに、リュカは花びらを握りしめると千秋に向かって黙々と憎しみをこめて投げ続ける。

「いたっ……」

そしてのだめも、顔面に大きな塊を受けた。
……正面に当たると花びらといえども、けっこう痛い。
のだめは自分に花びらの塊を投げつけた男の顔を見た。

「……あれは誰デスか?」
「……R☆Sオケのコンマスの高橋だ……」

ああ、あれが噂の……と思った瞬間、千秋の足がピタリと止まった。
不思議に思ったのだめが千秋を見上げると、呆然とした顔をして階段の下を見下ろしている。
階段の真下では、2人の男が待ちかまえていた。

「チアキ!!。貴方の師匠は、ワタシですよネ!!」
「シンイチ!!。ボクの一番弟子は君だよ!!」

シュトレーゼマンとヴィエラ。
2人の世界の巨匠、マエストロが、お互いに両手を広げて待っている。

「さあ!!。チアキ!!。ワタシの腕の中へ来なサイ!!。こんな卑劣な人間よりもワタシの方が素晴らしい師匠だということを証明
してくだサイ!!」
「シンイチ!!。だまされるんじゃないぞ!!。この男は、若く見栄えのいいお前を利用して世界中の女に声をかけて回ろうという魂
胆なんだ!!」
「どっちが!!」
「お前の!!」
「本当の!!」
「「師匠なんだーーーーーーっっ!!」」

のだめを抱く千秋の背中にたらっと冷たい汗が流れる。
以前から2人の仲が悪い悪いと聞いていたが……まさかここまでとは。

……とにかくこの階段は降りなければならない。

右にはシュトレーゼマン。
左にはヴィエラ。

ここはどちらを選ぶべきか……。

やはり、心の師匠であり自分の音楽人生を決定づけたヴィエラ先生か……。

しかしここまで千秋を引っ張り上げてくれたのは、やはりシュトレーゼマンだろう……。

周囲の人間も、世界の巨匠と新郎のやり取りを、真剣な表情で見守っていた。



う……。



……この状況で……そ、そんな……選べる訳ないでしょうっっっっ……!!。




思わず一歩退いた千秋は、階段の端に足がかかり、バランスが崩れるのを感じた。
ぐらっと体が揺れる。

やばい!!。

このままでは倒れてのだめを落としてしまう……。


のだめと……もう一人の大切な命……。


なんとかその体を守ろうと力一杯抱きしめた瞬間。
ふわっと背後から千秋とのだめの体を支える手を感じた。

「……何やってんだよ、このウドの大木」
「リュカ……」
「のだめは妊婦さんなんだから気をつけないと危ないでショ」
「Rui……」

リュカとRuiの2人が倒れそうな千秋の体をとっさに支えたのだ。

階段下ではジャンがヴィエラを、オリバーがシュトレーゼマンを押さえ込んだ。

「ヴィエラ先生、ここはどうか引いて下さい……」
「ジャン!!。お前はどっちの味方なんだっっ!!」
「マエストロ……場所をわきまえて」
「離しなサイ!!。そのインチキ野郎に土下座させるまで、ワタシは引きまセン!!」

わあわあ叫びながら、2人は強制退去させられた。

「……ありがとう」

千秋は支えてくれたリュカに礼を言う。
すっかり凛々しい青年になってしまって、世界でも若手ピアニストとしても評価が高いリュカ。
最近では指揮者も目指しているという噂もある。

「……ふん。あんたのためじゃないよ。のだめが倒れでもしたら大事だからね」
「リュカ……」

のだめが感動したようにリュカを見つめる。
そんなのだめに向かって、リュカは千秋に対する表情とはうってかわって爽やかな笑顔で言った。

「のだめ……結婚おめでとう。だけど、こいつに愛想つかした時はいつでも僕の所に来ていいからね」
「さりげなく、人の花嫁を口説いてるんじゃねえっっ!!」







そして階段下のガーデンの芝生の上で、バルーンリリースが行われた。
ゲストの全員に、スタッフがヘリウムガスで膨らませたカラフル風船を配る。
そして、掛け声と共に一斉に風船飛ばしをするのだ。

「さあ、準備はよろしいですか?」

バルーンリリースの瞬間。

「3・2・1!」

カウントダウンの声で皆で一斉にバルーンリリース!

「わぁっ!!」という歓声と共にバルーンは一気に空へ舞い上がった。
暗い夜空に、思い思いの願いを込めた色とりどりのバルーンが飛んでゆく。
照明に照らされたバルーンが空を舞う光景はまさにファンタジックで。
今回使われたバルーンは環境に配慮して自然に帰る風船を使っているので、安心して空へ飛ばせる。

一斉に飛び立ったバルーンはまるで星空へ吸い込まれるみたいにだんだん小さくなっていった。

「風船がいっちゃった……」

風船が飛んでいってしまったことでさくらが大泣きをして、清良が宥める微笑ましい一幕もあった。

のだめは風船が小さくなってついには見えなくなるまで、その姿を見送っていた。。






チャペルから披露宴会場までは、白馬の馬車で会場内を一周して送るという演出が付いていた。
実際には、披露宴会場となる邸宅は目の前に見えて、歩いて行ってもさほど距離はないようにも感じられるのだが。


……馬車に乗ることにいったいなんの意味があるのか……。


そんな素朴な疑問を持つことを千秋はやめた。


……これも、演出……演出の一つなのだ。


今日の俺はピエロだ……。


そうだ、あえて道化師になろう……。



そう千秋は割り切ろうと固く心に決めた。

日本では数少ないと言われる白馬の白い馬車。
そこには、正装をした御者が、今日の主役の2人を乗せるためすでに待機していた。
まず、フロックコート姿の千秋が先に馬車に乗る。
そしてウェディング姿ののだめが後からスタッフにエスコートされて乗る予定だった。

そこへ。

「ホーーーーーーッッッホッホッホ」

高らかな笑いとともに御者を突き飛ばすようにして落とし、御者席に乗り込んだ者がいた。

アフロヘアにちょび髭の憎い奴。

その名は怪人二十面相……もとい、ティンパニー奏者である奥山真澄であった!!。

「千秋様の乗ったこの馬車は、この真澄がいただくわ!!」

そう高らかに宣言すると、真澄は御者席に自ら座り、千秋だけを乗せたまま、えいっと手綱をしならせるとパシッと乾いた音をたてた

その音を合図に馬が走り出す。

呆然とその姿を見ていたのだめは、やがてはっと気づく。

新潟での真澄によるボート置き去り事件がのだめの脳裏をよぎった。

「ムキャッッ!!真澄ちゃん、先輩は渡しまセン!!」
「ホーーーーーッッホッホッホ、私から奪えるものなら奪ってごらんなさい!!」


突然走り出しそのまま暴走する馬車に白目をむく千秋。
そして花婿を奪取したまま走り去る馬車を、ウェディングドレスの裾をひっつかんで追いかける花嫁。

その光景は、馬車が会場内を一周する間中見られたという……。








「なんだかよくわからないけど、日本の結婚式ってすごくスリリングだネ!!」

興奮して話すポールに対し、黒木は引きつった顔のままボソっと言った。

「いや、……あれは特殊な例だから……」

舞台は「パール ド ラ メール/海の真珠」という名のフレンチテイストの邸宅にと移っていた。
芝生が美しい噴水をのぞむガーデンはL字型のゆったりとしたスペースである。
小花をあしらった白い壁に、サーモンピンクの柔らかさをきかせたカーテンで、配色がなんとも優しく可愛らしいこのメインルーム。

「プリンセス・ルーム」を思わせるキュートな雰囲気の中にも上品さが漂う、甘すぎない大人のインテリアである。

この披露宴のテーマは「桜」。
テーブルなどありとあらゆる場所の装花や、テーブルクロス、ペーパーアイテムなどがピンクでトータルコーディネートされている。

上質で居心地のいい雰囲気に、誰もがこれから行われる披露宴を待ち望んでいた。

そこへ。
いきなり会場の照明が落とされる。
何が始まるのだろうとざわめく会場内。

そして、暗い天井に映されたのは……。

プラネタリウムによって、映し出された満天の星空。
瞬く無数の星達が、一面に美しく広がっている。

「きれーい!!」

とさくらは大喜びだ。

そして次の瞬間、さっと照明がつくと、目を奪われるほど優美な螺旋階段から新郎新婦がサプライズ入場した。

千秋は、先ほどからの激務にげっそりとやつれきっている。

それに比べて、のだめの顔は生き生きと輝いていた。
のだめは白いドレスこそは変わらないものの、腰のベルト部分に刺繍とスワロフスキービーズとパールとダイヤモンドのリボンとコサ
ージュを着けている。
そして首にはネックレスの代わりにチョーカーをつけるなど小物の色をピンク系に統一しての再登場だ。
髪をまとめ直しブーケとお揃いの生花をつけてヘアスタイルとヘッドドレスを変えるだけで。
同じドレスなのにまるで印象が違う。
そしてピンクのバラやスイトピーなど、先ほどとは違い枝を隠すようにアクセントの桜を入れている可愛らしいラウンドブーケを持っ
ている。

わあっと会場内から歓声が沸く。

「奇麗〜」
「すっごく可愛い!!」

新郎新婦が入場してメインテーブルの席についたら、司会者が簡単なプロフィール紹介をした。
そしてこう告げる。

「本日の恵さんのドレスは、御母様の手作りです」

のだめは一番奧のテーブルについている母親の洋子を見た。
洋子は自分の作ったドレスが、娘を最高に奇麗な花嫁にしてあげられたことに、満足したような笑みを浮かべている。

「この日のために、御母様である洋子様は、デザインをおこし、娘の幸せを祈って一針ずつ、寝る間を惜しんで縫いあげました。
 ブーケは、新婦の恵さんが好きだという桜の生花をアクセントとして用いております。
 ピンクの可愛らしいこの花がお二人の前途を祝福しています。
 新郎の胸に着けた桜のコサージュは、花嫁のブーケとお揃いです。
 それでは皆様今一度盛大な拍手をお願いいたします」

会場内に温かい拍手が鳴り渡った。
そして主賓の祝辞。
ここでは2人の大学時代の恩師として、江藤と谷岡に前もってお願いしていた。

……実をいうと、どちらにスピーチを頼むのかで、揉めていた。

「のだめへのスピーチは谷岡センセに頼みますネ」
「おい、ちょっと待て。なんでお前が谷岡先生なんだ。お前がお世話になったのはハリセンだろう!!」
「のだめと谷岡センセには3年間の深い重みがありマス」
「……ハリセン……可哀想に……あんなにのだめを一生懸命指導してきたのに……」
「そういう千秋先輩が、江藤センセにお願いすればいいじゃないですか」
「……俺には2年間の深い恨みしかねー」

そんなこんなで、2人には、新郎新婦両方についての祝辞を述べてもらうことにしたのだ。
まずは谷岡が紹介され、マイクの前に立った。

「真一君、恵さんおめでとうございます。
 そしてご両家の皆様に心よりお祝いを申し上げます。
 ただ今ご紹介に預かりました谷岡と申します。
 私は新郎の真一くんと新婦の恵さんの桃ヶ丘音楽大学時代のピアノ科の担任の教師でございます。
 特に恵さんとは入学当初からのつき合いであり、共に『おなら体操』や『もじゃもじゃ組曲』の作曲に力を注いでまいりました」

おなら体操……?。

もじゃもじゃ組曲……?。

いったいなんのことだろうと首を傾げるゲスト達に向かって谷岡は言った。

「あ、『おなら体操』とは恵さんが幼稚園のお遊戯用に振り付けも考えた秀作です。
 テレビ番組の『ママといっしょ』も狙っていました。
 えーどのように踊るかというと、こう立ち上がって……」
「あ、のだめが実演しましょうか」

ウェディング姿のまま、立ち上がろうとするのだめを、必死で千秋が食い止める。

「やめろっっ!!。頼むからここではやめてくれ!!」

谷岡はハハハと笑いながら続けた。

「残念ながらその曲はここでは披露できませんが、皆様……特に小さいお子さんをお持ちの方にはお薦めの曲です。
 そんな恵さんと真一くんが出会ったのは、真一くんが私の担当生徒に変わってからのことです。
 2人は偶然にもマンションの部屋が隣り合わせということもあり、一気に距離が縮まって行きました。
 一緒に『恋の序曲』を奏でたという恵さんの話を聞いた僕は、2人に連弾の課題曲を与えました。
 『モーツァルトの2台ピアノのためのソナタ』です。
 かなり速い曲で合わせるのも大変なこの曲には2人とも苦しめられたようですが、最後には素晴らしい完璧なユニゾンを聴かせてく
れました。
 特に真一くんは、恵さんとの出会いによって、当時悩んでいた大きな壁を乗り越えられたようです。
 2人のことについてはもっと語りたいのですが、後は江藤先生にお任せしたいと思います。
 真一君、恵さん、本日は本当におめでとうございます。
 お二人の末永いお幸せをお祈りいたしまして、私からのお祝いの言葉とさせて頂きます」

「谷岡先生……」

彼のスピーチを聴きながら、のだめとの出会いのことが千秋の脳裏に蘇ってきた。


そっか……あの連弾が全ての始まりだったんだよな。。


ヴィエラ先生のいう「身震いするほど感動する演奏」をずっと夢見て、だけど諦めていたあの頃の自分。
そんな自分に小さな身震いを感じさせてくれたのだめとの演奏……。

谷岡先生は「落ちこぼれ専」と呼ばれ、大学の中でも困った生徒ばかりを回されていた。
「やる気のない生徒にやる気を出させるほどやる気のある教師じゃない」と自らをそう表現する男。

だけどその一見ひょうひょうとした外観の裏には、深い意図が隠されていて。

谷岡先生は、当時の俺の苦しみを知っていたのだろうか。
のだめとの連弾によって俺がこの世に息を吹き返すのを予測していたのだろうか。
そしてのだめ自身も、俺という存在に刺激を受け引っ張り上げられることを見通していたのだろうか。

……あのタヌキ親父の考えは、相変わらず、わからない。


わからないけど……。


……今となっては、とても感謝をしている……。



次に江藤がマイクの前に立った。
派手に着飾った妻のかおりが、すかさずカメラを構えてバックに花をしょった江藤の晴れ姿(かおり視点のみ)をパシャパシャと写真
におさめる。
当然のことながら、江藤の挨拶は関西弁ではなかった。

「えー、本日はお日柄も良く、新郎・新婦ならびにご両家の皆様に心よりお祝いを申し上げます。
 本日はおめでたい席にお招きいただきまして本当にありがとうございます。
 私は新郎の真一君、新婦の恵さんが通っていた当時、ピアノ科の教師をつとめさせていただきました、桃ヶ丘音楽大学の江藤と申し
ます。
 真一くんは当時からとても素晴らしいピアノの才能の持ち主でした。
 ただ、私の指導能力の不足ゆえ、お互いに行き違いもあり、彼のピアノの才能を昇華させることはできませんでした。
 そのことを、今でも深く後悔しております」

ハリセン……。

確かに上から抑えつけ、ハリセンで殴るという江藤の強引な指導には千秋はついていけなかった。
だけれども、江藤に学んだあの2年間のピアノは、指揮者になった今でも欠かせないものだとキッパリと言い切れる。
彼は必死に千秋を指導してきたのだ。

今にして思えば、あのハリセンも、江藤にとっては「愛のムチ」ならぬ「愛のハリセン」だったのかもしれない……。

「そんな時に恵さんと出会いました。
 彼女の埋もれていた才能を目覚めさせ、昇華させるのが自分に与えられた使命のように感じていました。
 そのこと自体も思い上がっていたのかもしれません。
 レッスンをどうしたら気持ちよく受けてくれるだろうと悩んでいた私にアドバイスをくれたのは真一くんでした。
 彼は恵さんのことを本当に理解してました。
 プリごろ太の人形が好きなこと……食べ物に反応しやすい性格まで……。
 私は真一くんによって、指導者としてあるべき姿への道を見直すことができたのです。
 そして恵さんがコンクールを目指すきっかけとなったのは、まさに真一くんという存在があってのこと。
 留学する彼についていきたい、その一心でピアノに打ち込む姿は、私の心に深く響きました。
 そして、今。
 真一くんは世界でも名を知られた指揮者に、恵さんも新鋭のピアニストとして注目されるなど、世界へ羽ばたいた2人は私の予想を
遙かに超えた存在になりました。
 これからもお互いに2人で仲良く、だけど刺激を与え合い切磋琢磨する関係でいてください。
 本日はお招き頂きまして本当にありがとうございました。
 お二人の末永いお幸せをお祈りいたしまして、私からのお祝いの言葉とさせて頂きます」


「江藤センセ……」

のだめは自分の目が潤んでくるのを感じていた。
千秋がのだめに向かって言う。

「……あの2人の恩師があって……今の俺達があるんだよな」
「……ハイ……」
「後で……一緒にお礼を言いに行こうな」

のだめはぽろぽろと涙をこぼしながら呟いた。

「江藤センセ……最初は嫌がって、逃げ回ってばかりでごめんなサイ……。
 あんなに教えてもらったのに、結局コンクールで入賞できなくてごめんなサイ……。
 ……それでも、コンセルヴァトワールへの願書提出ありがとうございマス……。
 それから……あの時のカニ……とっても美味しかったデス……」
「……言っておくがカニを差し入れしたのは俺だぞ……」






それから司会者がケーキ入刀を告げた。

「本日のウェディングケーキは、新郎新婦のご友人でいらっしゃる峰龍太郎様の御父様、中華料理店裏軒シェフである龍見様が2人の
ために心をこめてお作りになった豪華3段、生ケーキです!!」

え?……なんで……中華料理シェフがケーキを……?。

ゲスト達が疑問に思ったのもつかの間、ワゴンに乗せられて巨大なケーキとともにコック姿の龍見が入場すると、わあっと歓声があが
る。
ケーキとケーキの間に柱を使ってを豪華に盛り上げた3段重ねの生ウェディングケーキ。
真っ白な生クリームがまるでレースのような模様でケーキを覆い、いちご、ラズベリー、ブルーベリー、ブラックベリーなどの赤や紫
の鮮やかなベリーがびっしりと使われていた。
そのケーキの周囲は色鮮やかな本物の白いバラとグリーンの葉で飾られており、その華麗で繊細な仕上げに誰もがシェフのプロ根性を
感じた。

「ケーキだ!!」

一気にゲストの子供達の目がキラキラと輝く。
2人の記念すべきケーキ入刀の姿をカメラにおさめようと、ケーキの前には人だかりの山ができる。

「千秋様〜もっと笑って〜」
「のだめちゃん、こっちこっち」

千秋は相変わらずぶすっとしたまま、のだめはにっこりと笑いながら2人で共にケーキにナイフを入れた。
そして入刀後にケーキを一口ずつお互いに食べさせ合うファーストバイト。

これは、新郎は「一生食べさせてあげるよ」、新婦は「一生おいしい料理を作ってあげます」という意味を込めて行うものだそうだ。


とは言っても……どう考えても料理を作るのは俺だよな……と思いながら、千秋はケーキをフォークですくおうとする。。

「あ、先輩、そこの生クリームの多いところお願いしマス!!」
「はいはい……」

のだめの注文に千秋はフォークですくったケーキをのだめの口元に持っていく。
あーんと口を開けたのだめだが、その瞬間。
スルッとケーキが零れて床に落ちた。

「ムキャーーー!!ケーキが!!」
「お、落ち着け。もう一度やるから!!」

2回目にはなんとか成功。
そして、今度はのだめが千秋に食べさせる番だ。
のだめがざくっとフォークを刺し、大きな固まりのケーキを千秋の前に突き出す。

「ハイ♪先輩、あーんしてください♪」
「……どうするんだこれ……口に入りきれないぞ」
「いいからちゃんと食べて下サイ♪」
「ふごっ!!」

千秋の口に無理矢理ケーキを押し込むのだめ。
ゲホッゲホッとむせながら千秋はどうにかこうにかその固まりを喉に押し込んだ。

ちなみに2人は知らなかったが、ケーキをうまく食べさせられたほうが、その後の新生活で主導権を握ることができるという言い伝え
があるこの儀式。

あ、やっぱり主導権は新婦なんだな……とゲスト全員が思ったことは言うまでもない。









そして乾杯。

ここでの人選にも悩まされた。
千秋のもう一人の師匠であるヴィエラに依頼しようかという話もあったが、シュトレーゼマンとの諍いが懸念されたため、のだめの師
匠オクレール氏に頼んでいた。
乾杯のために用意された、特別な桜色のロゼシャンパンがウェイターによって、全員のグラスに注がれる。
司会者の言葉に従い、それぞれがシャンパングラスの細いところを人さし指と親指でつまむようにして持ち、立ち上がった。
世界を代表するフランス人ピアニスト、シャルル・オクレール氏は小柄な体に、いっぱいの微笑みを浮かべながていた。
そして、この日のために必死で勉強したのであろう、メモを片手にたどたどしい日本語で挨拶をした。

「ただいまごショーカイにあずかりましたシャルル・オクレールデス。
 はなはだセンエツではございますが、ごシメイをチョウダイしましたので、カンパイのオンドをとらせていただきマス。
 シンローシンプのすえナガいおシアワセと、ごリョーケならびにごリンセキのミナサマガタのごタコウとごハンエイをおイノリいた
しまして、カンパイをいたしたいとゾンジマス。
 では、ごショウワをおネガイいたしマス」

そう言うとオクレールはグラスを高くかかげた。


「ルネッサ〜〜ンスッッッ!!」




……… ……… ………




オクレール先生……。

違う……。

違います、それは……。

なんのテレビを見て勘違いしたのかはわかりませんが、それは日本の伝統的な乾杯の挨拶ではありません……。


どこぞの髭の生えた奴がいる2人組のお笑い芸人ーーーーーっっっ!!。


誰もが叫びたくなる気持ちを抱えたまま、仕方なく全員で唱和した。


「「「ルネッサ〜〜ンス……」」」