ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調。

「え……?」

それを聞いた瞬間、千秋が戸惑いの表情を見せた。

「それは……」

のだめがコンセルヴァトワール時代に、カントナ国際コンクールピアノ部門本選で聴き、一瞬で魅せられた曲。
満面の笑みで飛ぶように帰ってきて、いい曲を聴いたんだと嬉しそうにはしゃいで弾いていた曲。
千秋とともに絶対に共演したいと語り、初めてのだめが執着した曲。

……だけど、それは千秋とRuiがウィルトールオケで共演することになっていた曲であった。

Ruiと千秋のコンチェルトは激しくのだめに衝撃を与えた。

自分がどうしても千秋と、やりたかった曲が、すぐ目の前で演奏されている。
あんなに熱望した曲。
どうしてもと願った千秋との共演。
だけど。
……その場所に座っているのは……自分ではなかった。
コンクールに出ることも許されないのだめと違う、世界でも名の知られたピアニストの孫Ruiだ。

千秋と彼女の息のあったコンチェルトはのだめの心に槍のように突き刺さる。



お願いです、Rui。


その場所をのいてください。


その場所はのだめの場所なんデス。


……のだめだけの……。




心の中で必死で叫んでいた。


千秋とRuiの演奏は、のだめの予想を遙かに超えていた。

その会場にいた全ての観客を完全に酔わせて魅了した。
Ruiとの差をありありと見せつけられたのだめは、激しく打ちのめされることになったのだ。

のだめにとって……苦い……苦い記憶の曲である。

「それは……その曲は……」

千秋はのだめの顔を見る。
のだめは何も答えない。
峰が、念押しするように千秋に力強く言った。

「のだめがどうしてもお前とやりたかった曲なんだろ?」
「………」
「あんなに興奮して……はしゃいで……即興でピッカピカの演奏をして」
「………」
「だけど、先にお前はRuiと共演することになって……のだめがかなり落ち込んだっていう話は後から聞いた」
「………」
「そりゃ、確かに、お前とRuiが演奏したというウィルトールオケに比べたら、ここにいるのはお粗末なメンバーかもしれない。
 だけど俺達、この日のために一生懸命、一生懸命練習したんだ。
 あんなにのだめがお前とやりたがっていたあの曲を、苦い思い出のままで残すなよ。
 この、一番幸せな瞬間に……お前達をずっと見守ってきた俺達と共に、一生記憶に残る演奏をしようぜ」

そして峰はのだめを振り返る。

「なあ、のだめ」

のだめは瞼をじっと閉じていた。
千秋がのだめの方に視線を向けると、目を開けて千秋の真剣な眼差しを受け止めた。

「……ごめんなサイ、先輩」
「え?」

急に謝られて千秋は戸惑う。

「本当は、峰くんからこのサプライズ演奏の話を前もって聞いていたんデス」
「のだめ……」
「黙っててすみませんでした」
「………」
「峰くんから、この曲を指定された時……どうしようかってしばらく悩んだけど……」
「………」
「だけど……」

のだめはくすりと可笑しそうに笑った。

「……のだめ、昔から、R☆Sオーケストラの中に入るのが……ずっと……ずっと夢だったんですヨ……」

それを聞いた千秋は言葉を失った。

「……連絡うけてからも、スケジュール忙しくってあまり練習できなかったし……」
「………」
「……多分、あの時のRuiと先輩との演奏ほど上手くはできないかもしれないけど……」
「………」
「それでも……」

そしてのだめは笑った。
何かをふっきった様な清々しい笑顔だった。

「……のだめは、先輩と……このメンバーで……あの曲を演奏したいデス」
「のだめ……」
「峰くんが送ってくれたR☆Sオケの練習ビデオ見て……合わせられるように一生懸命、一生懸命練習しました……だから」
「………」
「……いいですか?」

千秋はゆっくりと皆の顔を見渡した。
そこにいる全員が、優しい笑顔で2人を見つめている。
そして千秋はのだめに視線を戻した。
しばらくの間、のだめの顔を見ていたが……やがて、ふっと笑った。

「わかった」

千秋はそう言うと、R☆Sオーケストラの仲間達の方を向いて言った。

「……皆、よろしくな」
「おうっ!!そう来なくっちゃ!!」
「まかせといて!!」
「千秋様!!、この曲で真澄はあなたから卒業します!!」
「僕はまだ諦めてないけどね……」
「高橋くんまだ諦めないんだ……」
「のだめちゃん、おめでとう!!」
「幸せになってね!!」
「ピッコロは僕にまかせろ!!」

皆の暖かい声が聞こえてくる。

「千秋!!。最高の演奏をやろうぜ!!」

今からすっごく楽しいことが始まるんだっていうわくわくと期待に溢れた表情の峰。
いつだってやる気120%の峰。
思えば、彼がR☆Sオケをここまで引っ張ってきて、そして千秋達の帰るべき場所をずっと守っていてくれたのだ。

そして彼は、長い間、のだめにかけられた呪縛を、今、断ち切ろうとしている。

「……ありがとな」
「ん?なんか言ったか?千秋」

きょとんとする峰。
千秋はそれには答えずに、スタンバイしたR☆Sオーケストラに向かって深々と頭を下げた。

「じゃあ……皆、よろしく頼む。
 いい演奏をしようとかそんなこと考えなくていいから……めいいっぱい気持ちよく、演奏を楽しもう!!」

おおーーーっっ!!と皆が叫んだ。







ジョゼフ=モーリス・ラヴェル 「ピアノ協奏曲ト長調」

1875年、フランス南西部、スペインとの国境近いシブールに生まれたラヴェルは、バレエ音楽「展覧会の絵」「ボレロ」などで有名なフランスの作曲家である。
このピアノ協奏曲は「オーケストレーションの天才」「管弦楽の魔術師」と言われる卓越した管弦楽法を持つラヴェルが、アメリカのジャズを意識した、華やかで粋な作品。
これと並行して、作曲されたのが第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、ウィトゲンシュタインの依頼による「左手のためのピアノ協奏曲」。
ラヴェルは生涯にピアノ協奏曲をこの2曲しか書いていない。
この曲について、ラヴェルは、モーツァルトおよびサン=サーンスの協奏曲がそのモデルとして役立ったと語った。
2度目のアメリカ演奏旅行の際自身が演奏するつもりで作曲したが、体調不良のため、ピアノをマルグリット・ロンに任せ彼女にその曲を捧げた。


千秋が指揮棒を片手に、ピアノの椅子に座ったのだめを振り返る。
視線が交わった瞬間に互いの意志が通じ合う。

言葉なんていらない。

千秋は、唇に笑みを浮かべて指揮棒を振り下ろした。


第1楽章 Allegramente 4/4拍子 ト長調

パシインッッ!!。

鞭の音が会場に響き渡る。

ゲスト席の由衣子が一瞬、びくっとしたような表情を浮かべる。

意表をつかれたその瞬間に、ピッコロが趣味だという大河内が軽快に音を鳴らす。
スペイン舞曲風のフレーズが、軽やかに響き渡る。
どこかお祭りのような音。
この時点ではのだめのピアノは、あくまでもオーケストラの一員として軽快に鍵盤の上を転がるのみで。
ピアノの鍵盤の端から端までをのだめの指が流れるように走る。
徐々に他の楽器が加わりながら、だんだん音が大きくなって盛り上がった瞬間に、のだめのピアノの音がはたっと消える。
そしてトランペットが勇ましい音で先ほどのフレーズを繰り返した。

わくわくしてくるような盛り上がりを見せ、一転!!。

しっとりしたのだめのピアノ。

どこか仄かな感傷的部分を漂わせながらも、突然人をからかう悪戯っ子のようなユーモラスな箇所が現れる。
複調のピアノとフルートとホルンの協奏がジャズのブルースを思い起こさせる。

一見、はちゃめちゃなように思えるけれども、全ては計算されているのだ。

なんともいえないその対比!!。

のだめの指が鍵盤の上を舞う。

のだめのピアノを久し振りに、生で耳にした峰は、その演奏に驚く。

いつだったかパリでラヴェルを弾いた時も、一度しか聴いていないと言いながら軽々と弾きこなす姿に圧倒されたが、今回の演奏はそれとは比較にならなかった。

格段にそのスケールが大きくなっている。

ともすればオーケストラを置いていってしまいそうなテンポの速さ。
男性顔負けの強靭なタッチを駆使して、情熱的でな躍動感溢れる圧倒的なピアノ。
いきいきとした抜群のリズム感覚。
色彩豊かな音色がキラキラと輝いて。
卓越したテクニックとセンス。
のだめの、自由奔放な魅力がそこら中に溢れている。

……のだめは常に進化し続けているピアニストなのだ。

ああ、こいつは一生こうなんだろうなと峰は思う。

いつも枠には収まらず、常人の範囲内を越えて、常に前へ前へと進み続ける。
けっして後ろを振り返ったりしない。

そして、その側にいるべきものは……やはり、千秋真一、その人なのだ。

一見冷静沈着に見える千秋も、のだめに負けないほどに、この曲には熱い情熱を持っている。

その目はオーケストラの隅から隅まで把握するかのように忙しなく動く。
音の全ては彼の手中に。
彼の意のままに。

……だけど。

ただ一人。

彼女だけは。

ソリストであるのだめだけは、自由に走らせる。

気ままに。
気まぐれに。

……歌うように。

ピアノの色彩豊かな音色を引き立たせるかのように、オーケストラを操り確実にサポートする。

ハープの優しい音色が優しく響く。

そこからまた徐々に楽器が加わっていく。
のだめのソロを交えながら、弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器、賑やかに盛り上がりを見せ、第1楽章が終わった。




第2楽章 Adagio assai 3/4拍子 ホ長調



完璧なピアノ独奏で始まる。

……甘美でとても切ない旋律。

ここはピアニストの独断場であり、腕の見せ所だ。

さきほどのリズミカルな演奏にうってかわったかのように、静かに小川の水のせせらぎのようなピアノの音。
豊かに溢れる詩情。
その音は、儚げでつかみどころがなくて。
どこか神秘的でもある不思議なメロディ。
のだめの指が、先ほどとは対照的に、女性ならではの繊細で優美な旋律を奏で、人々の胸を打つ。

千秋はのだめを見た。

白いウェディングドレスがのだめが動くたびにさらりと揺れる。
ドレスのスワロフスキービーズがライトを浴びてキラキラと宝石のように輝く。
その輝きにも負けないくらい、表情は輝いていて。

やはり、のだめは、ピアノを弾いている時が一番奇麗だ……なんて絶対口が裂けても言えないことを考える。

その思いは、実の両親にとっても同じだったらしい。
辰男が鼻をすすった。
洋子がそっと目にハンカチを当てた。

のだめはウィルトールオーケストラでの千秋とRuiの共演を思い出していた。
Ruiのラヴェルのピアノ協奏曲。
完璧な演奏。
それを客席から見ることしかできなかったあの時の自分。
その時に感じた苦しみ、痛み、妬み、あらゆる全ての心の中の黒い部分がずっと、ずっとどこかに残っていた。
一番深い心の奥底に。
まるで小さい棘が刺さったみたいに。
普段は忘れているけれども、この曲を聴く度にその棘がちくりと痛んでいた。。

それが……。

少しずつ……ゆっくりと……。

ゆっくりと、溶けていくように無くなっていくのがわかる。

……まるでそんなことなどなかったかのように。

多分、この曲を弾き終わる頃には、そんな苦い思いも、古い記憶の片隅に埋もれて、笑って話せるようになるのかもしれない。

だけど、今は。

……今はただ流れる美しい旋律だけ。

ピアノを奏でる自分の音だけが今の全て……。


長いピアノの主題提示の後に弦のドゥーン、清良、峰、高橋、木村などが繊細な和声を奏でる。
フルートの舞子と萌。
オーボエの黒木。
クラリネットの薫。
それぞれの木管が途切れること無く旋律を唄い続ける。
まるでそれぞれの思いを伝えるリレーのように。

さらに引き継ぐコールアングレの物憂げな楽想。
それを取り巻いてひたすらくるくると回り続け、煌びやかなアルペジオで彩りを飾り、答えを返すようなのだめのピアノ。

その後もファゴットやホルン等も出て来て盛り上がった後、イングリッシュホルンのソロで最初の主題を再度演奏する。
ピアノは伴奏に回り、不協和音を奏でる弦が一層感傷的なものにする。

イングリッシュホルンが終わった後、フルート、オーボエ、イングリッシュホルンがまた一つの旋律をつなげ……。
最後にコールアングレが存分に美しい主旋律を歌い上げる。

そして……ピアノのトリルで儚げに終わった。


 


第3楽章 Presto 2/2拍子 ト長調


トランペットと小太鼓で不意をつく冒頭の音!!。

うっとりした2楽章の余韻をひきずっていたゲストはこの始まりに驚かされる。

千秋の腕が激しく動く。

よりアグレッシブに!!。
より軽快に!!。
当時最新の流行音楽であったジャズの影響を大きく受けている楽しい楽章。

ピアノは速いパッセージで弾きならし、軽快なノリでエスプリ満載だ!!。
細かな音の変化など即興的な楽曲で、超絶技巧的な表現も求められるこの楽章。

のだめの指がある旋律を奏でた時、一部のゲストが笑った。

「ゴジラだ!!」

ここで登場するテーマは「ゴジラの逆襲」を思い起こすフレーズで、繰り返し現れてはゲストを沸かせた。

いろんな楽器が次々に飛び出すようなおもちゃ箱のようなわくわくする楽しさ。
舞子と萌のフルートは歌うように。
薫のクラリネットが雄叫びをあげる。
非常に長い主題に息も絶え絶えになりながら、ポールが演奏する超絶ソロ。
黒木の研ぎ澄ましたオーボエ。
ちょっとシュールに気取った菊地のチェロ。
個性溢れるヴァイオリン達は、それぞれが競うように掻き鳴らして。

管弦楽の魔術師らしいラヴェルの超絶技巧ぶりが、もう楽しくて!!。


「この曲ってのだめみたい」

そう言っていたRuiの言葉を千秋は思い出していた。

滑稽で。
ふざけてて。
かわいくて。
飛んで……跳ねて……。

のだめがこの曲を好きだといった理由が、わかるような気がする。
このコンチェルトはのだめそのものなのだ。
自由奔放で、優しくて楽しくて、かかわりあった全ての人々を渦の中に巻き込んでいく。

のだめと出会ってから……千秋の運命の歯車が動き出した。

諦めていた夢を取り戻し、未来への道も開いた。
のだめと千秋を中心として、これほどものたくさんの人達が集まってきた。

なあ、のだめ。

俺達は、ここにいる全ての人達に支えられてきたんだよな。

ある時は叱咤されて……ある時は励まされて……そして助けられて……そうしてここまでやって来たんだ。
けっして自分達だけの力だけで歩いてきたんじゃない。

千秋は、思わず瞼が潤むのを感じた。

なあ。

のだめ。


……これは。

これは……とても……とても、幸せなことだよな。

そう言って千秋はピアノを弾いてるのだめを見る。
鍵盤の上で指を走らせ続けていたのだめが、一瞬だけ千秋を見てふわっと笑った。

……そうですネ。

まるで千秋の思いが伝わったかのようにのだめの口元が動く。

のだめのピアノの音が、飛んで、はねて、気ままに気まぐれに……歌うように踊った。

この世で一番大切な人と共に。
最高の仲間達と共に。

テーブルの上に置かれたブーケの桜の花びらが一枚、ひらりと舞い降りて……曲が終わった。







先ほどまでの音の洪水が、まるで嘘のように静まりかえる会場内。
時間が止まってしまったようだ。
千秋は、はあ、はあと息を切らしている。
ウェディング姿ののだめも汗びっしょりだ。

「ブラボーーーーーッッッ!!」

シュトレーゼマンが立ち上がり、拍手をする。
その拍手がきっかけとなったように、会場内から惜しみない拍手が、波のように押し寄せた。

千秋はその拍手に答えることも、礼をすることも忘れた。

のだめしか見えなかった。

演奏している間中、千秋はずっと……ずっと……のだめを感じていた。

今、指が跳ねるのがわかる。

今、どんな表情をしているのかもわかる。

演奏の間中、千秋は確かにのだめの中にいたと言い切れる。
千秋の視界にはピアノの鍵盤が見えて、それを奏でる自分の指の感覚がまだ残っている。
きっとのだめにも自分が見ていた視界が全て見えていた筈だ。
まるで、のだめが千秋に乗り移ったかのように、千秋がのだめに乗り移ったかのように。
のだめという存在と自分という存在が溶け込んで……交わり合わさってお互いの体中を満たして。
ずっと探していた自分の半身を得てやっと1つになれたような、そんな感覚。

2人で1つなんだ。

その瞬間、ぎゅうっと胸が締め付けられた。

我を忘れた。

……のだめがとても愛しくて……。

その存在が今ここに、側にいることが奇跡のようだと思った。

あんまりにも幸せすぎて、これはまるで儚い夢のように思えて。

目が覚めてしまったら消えてしまうんじゃないのか。

今ここで、ちゃんと捕まえておかないと、どこかへ行ってしまうんじゃないか……。

そんな不安にかられる。

千秋は、立ち上がりウェディングドレスの裾を整えながら、ゲスト達に向かって礼をしようとするのだめにゆっくりと近寄った。
不思議そうに千秋を見るのだめを……思いきり抱きしめた。

「せ……」

のだめが息ができないくらいその腕は強く、強く……もう二度と離さないように。

ゲストは皆、拍手をやめて固唾を呑んで見守っている。

千秋は、世界で一番大切な女性を、抱きしめながら言った。

「のだめ……愛してる」
「……え?」

のだめが驚いて息を呑む。
千秋は、まるで子供が今にも泣き出してしまう一歩手前のように、目を潤ませて掠れた声でこう続けた。

「ずっと……ずっと……一緒にいよう」

その言葉を聞いた瞬間、のだめの頬を涙が、つうっと一筋つたう。
おずおずと千秋の背中に腕を回して、抱きしめ返す。
泣き笑いの表情で……とても幸せそうな笑顔で、その言葉に答えた。

「……ハイ」

峰がヒュウと口笛を吹いた。
清良が全く、この2人はしょうがないわねと言った表情で苦笑いした。
木村と萌は顔を見合わせた。
舞子が、そっと菊地の手を握った。
真澄は滝のような涙を流している。
高橋はそっぽを向いていた。
薫がぐすっと鼻を鳴らした。
黒木とターニャも幸せそうに笑っていた。
マキとレイナはじ……んとしたように目を潤ませていた。
フランクとユンロンとポールは、よっしゃというようにガッツポーズをとっていた。
リュカが憮然としたまま頭をかいて、それを面白そうにRuiが見つめている。

千秋は抱きしめていた手をほどき、代わりにのだめの手をぎゅっと握りしめると会場の方を振り返った。
目を真っ赤にしたまま、礼をする。

「本日は……ご多用中にもかかわらず、私たち二人の結婚式に、ご列席賜りまして……誠にありがとうございました。
 心よりお礼を……申し上げます。
 今日からは恵さんと、共に……」

言葉がつまる。
今にも号泣してしまいそうになる心を必死で押さえる。

「頑張れ!!」

と誰かが叫ぶ。
のだめは千秋を励ますように、繋がれた手にぐっと力を込めた。

「恵さんと共に……二人力を合わせて、生きていきます。
 だけど……何分、若輩者の二人です。
 皆様方にご迷惑をお掛けすることも多々あろうかと思います。
 その時は……よろしくご指導ご鞭撻を頂きますようお願い申し上げ、簡単ではございますが私のお礼の挨拶とさせていただきます。
 ……ありがとうございました」

千秋とのだめは、共に深く頭を下げた。
のだめには、その瞬間、千秋の足下に涙のしずくが一滴落ちるのが見えた。

ヴィエラが拍手をした。
静まりかえっていた会場から、割れんばかりの拍手が巻き起こり……しばらく止むことはなかった。






「びっくりしたな〜、まさか千秋が公衆の面前で愛の告白をするとは!!」

峰が心底驚いたというような声で言う。

「愛の奇跡ね!!」
「今、ここに世界のゴールデンペア誕生って感じ?」
「もうなんだか映画のワンシーンみたいだった〜!!」

その後、皆から取り囲まれてひやかし続けられた千秋は、俯いたまま顔が上げれない。
耳まで真っ赤になっている。

どうしてあんな行動をとってしまったのかが、自分でもよくわからない。

この結婚式というシチュエーションがまずかったのか。
その雰囲気に流されてしまったのか。

普段の自分なら絶対にありえない行動だった。

「一生の不覚だ……」

頭を抱えて千秋は呻く。
それに対してのだめは、さきほどから、幸せそうににこにこ笑っている。
その手はしっかりと千秋の手と繋がれていて。

「のだめ!今の気持ちはどうだ!!」

峰がまるで、インタビューするかのようにのだめの口元にマイクを持っていった。
のだめは、うまく言葉が出てこないのか、途切れ途切れに言う。

「あ……えっと……その……びっくりしたけど……でも、とても嬉しかったデス……」

のだめが答えた瞬間、周囲の皆がおおおおおっとはやし立てた。

「多分……一生にいっぺんのこと……だと思うので……絶対に忘れまセン!!」
「でも、のだめちゃん」

征子がさらっと言った。

「多分、さっきのあれ、ビデオに撮ってるわよ。係の人がずっとビデオ回してたから」
「あ、そういえば、よっくんもビデオ撮ってるわ〜」

と言うのは洋子。

「私達のビデオは、松田さんにお願いしたんだっけ」
「ばっちり撮れてるよお〜ん」

清良の言葉にニヤニヤしながらビデオを抱えているのは松田。


……… ……… ………


「ムキャーーーーーーーーッッッ!!。」

のだめが叫んだ。
それとは対照的に、さっと血の気がひく千秋。

「これで、いつでも、あの愛の告白の瞬間を、何度でも再生することができますネ!!。
 皆様のお手元にも永遠に残って……はうん」
「やめろ!!。頼むから皆、焼き捨ててくれ!!」






宴は終わった。
後は集合写真を残すのみだ。
そんな中、最後の挨拶回りをしていた征子を捕まえて、千秋はその耳元で何かを囁いた。
征子が驚いたような顔をする。
それからふっと笑うと、携帯電話を取りだしてどこかにかけていた。

「うん……うん……じゃあ、真一と代わるわ」

しばらく電話の相手と話していたかと思うと、携帯を千秋に差し出した。
黙ったまま受け取る千秋。
携帯を耳に当てる。

「………」
「………」
「………」
「………」

言葉にしようと思うのに言葉にならない。
それは電話の向こうの相手も同じ思いのようだ。
お互いに無言のまま、時だけが過ぎていく。
あまりにも長い時間、無言なままでいる千秋に征子が呆れて、促そうとしたその時。

「曲……」

千秋がポツリと呟いた。

「……『舟歌』……ありがとう」
「………」

電話の相手は相変わらず何も答えない。
千秋は、ふうっと息を吐き出した。
最初から答えを期待している訳ではなかった。
ただ、自分が言いたいことを言いたかった……それだけだった。

「じゃあ……」

どこかすっきりした表情で電話を切ろうとしたその瞬間、耳に聞こえてきたのは……。

「真一」

千秋は目を見開く。
ずっとずっと長い間、聞いていなかったその懐かしい低いビブラートの声が、千秋の心を震わせる。
そしてしばらくの沈黙の後、その声の主はこう言った。

「……結婚、おめでとう」









「先輩、早く早く、何やってるんデスか!!」

のだめが手招きをして千秋を呼ぶ。
ゲスト全員で、集合写真をとる準備をしているのだ。
並べられた椅子の中央にはウェディング姿ののだめがすでに座っており、隣の席が空いている。

「……ああ」

千秋は急いで駆け寄って隣に座った。
千秋の隣には征子、三善竹彦と妻の千春、俊彦と由衣子が座る。
のだめの隣には辰男と洋子、喜三郎と静代、佳孝が座る。
後は我先にだ。
シュトレーゼマンとヴィエラは少しでもいいポジションを取ろうとまだ争っている。
ドゥーンはその隙にちゃっかり美奈子の隣をキープ。
オリバーはシュトレーゼマンを止めようと必死になっているが、エリーゼとゆうこはまだ睨み合ったままだ。
ジャンと片平はそれを気にもしなくて、にこにこしながら並んでいる。
デプリーストは車椅子でニナがその横に並ぶ。
峰と清良はさくらを抱いて。
真澄と高橋は千秋のすぐ後ろに回り、千秋はなんだか背後から怪しいオーラを感じていた。
リュカはまだぶつぶつ言いながらRuiとともに並ぶ。
そのすぐ側をキープしようとマキとレイナがすかさず続いて。
ターニャと黒木はそっと手をつないで。
ポール、フランク、ユンロン、菊地、舞子、木村、萌、薫も次々に並ぶ。
大河内もちゃっかりいつの間にか端の方にいたりして。

千秋はのだめにそっと囁いた。

「……いいかげん……『先輩』じゃないだろう」
「あ……すいません、いつもの癖で……」

のだめは、頬を赤く染めながら千秋の手にそっと自分の手を重ねた。

「これから……よろしくお願いします……真一くん」
「……うん」

そこへ、カメラマンの声がする。

「じゃあ、撮りますよ!!いいですか、こちらの方向いてください!!」

カメラマンの合図とともに全員がカメラの方を向く。
全員がめいいっぱいの笑顔を向けて……。

カシャリ。








「これがその時の写真ですヨ」

母親が写真を子供に見せる。
まだ幼いその子は、父親の膝に抱かれて。

「わあ〜すごい!!おとうさんもおかあさんもすごくかっこいい!!」

子供は両親の顔を交互に見上げて、無邪気に笑う。

「いっぱい、いるね!!。これはタツオでしょ、ヨーコでしょ、セーコさんでしょ」

1人1人、知っている顔を指を差して名前を言う。

「よっくんと、トシヒコにいちゃんに、ユイねえちゃん。リュウおじちゃんに、さくらちゃんに……これは、エロジジイ?」

ぷっと母親が吹き出す。
父親が笑いながら、子供の頭を温かい手で愛おしげに撫でて。
子供が、首を傾げて聞いた。

「ほかのひとたちは、だれなの?」

父親と母親は顔を見合わせて、幸せそうに笑うと、こう言った。

「……この人達はデスね……」
「お父さんとお母さんにとって、とってもとっても大事な人達なんだよ……」

窓の外はあの日と同じように桜が咲き誇っていた。







終わり。