スパイ シースパイス


明日に控えた演奏会のリハーサルを終えて、 こっそりとスタジオを
抜け出そうとしたらマネージャーに呼び止められた。

「リュ カ?!どこ行くの!」
「…おじいちゃんのところだよ。少しだけいいでしょ?」
「明日は演奏会なんだか ら、きっちりしてもらわないと困ります!
久々の地元公演でチケットも飛ぶように売れてるんだから」

コ ンヴァト卒業後、奨学生としてウィーンの音楽院に留学したボクは
作曲や室内楽を学びながら本格的な演奏活動を開始していた。
音 楽事務所にも所属して、マネージャーもついて、勉強と演奏会の
忙しい毎日を送っている。

「教 会でオルガンを聴くのも勉強の1つだよ」

口うるさいマネージャーを振りきってボクは教会へ向かった。

12 月。パリの街はノエルの飾りつけに彩られている。
この季節になると必ず思い出すのは、コンヴァト入学後のノエルだ。
の だめとヤスに劇の代役を頼んだんだっけ。しかもロバの役。
のだめってば張り切って変な動きしちゃったりして…ぷぷ。
そ してあの夜、ボクはのだめに1回目の失恋をしたんだっけ…。
ふう…とため息をつくと、それは白い息となって空に浮かんだ。



パ リの街を歩くと、あちこちにボクの演奏会のポスターが貼ってある。
なんか恥ずかしいな…。
そういえば、 さっきから気になっていたけど、通りすがる人の視線。
それに後ろからついてきている女の子たち…。
ボク が後ろを振り返ると、彼女たちは黄色い声で騒ぎだした。

「きゃあ〜vv やっぱり貴公子リュカ・ボドリー様よ!」
「うそぉ、ホンモノ?!」
「金髪きれい〜かっこいい!」

し まった、変装とかしてくればよかった…。もう遅いけど。
揉みくちゃにされながら、求められるがままにサインと握手をする。
デ ビュー直後のボクなら戸惑っていたけど、もう慣れたものだ。
励ましのメッセージをもらった後、最後に記念撮影をして…
よ うやく解放されたかと思うと後ろからまた声をかけられた。

「ぷぷぷ…さすが貴公子さまデスネ。サイン下さい v」
「…え」

それはボクの大好きな懐かしい声。
声の主は ボクの3rdアルバムを持って、にっこり微笑んでいる。

「のだめ!!」

思 わず声をあげて、そして次の瞬間には抱きしめていた。
だって…だってこんなところで会えるなんて!!

「ア ハ。リュカったら苦しいデスヨ〜」
「日本に帰ってたんじゃなかったの?」
「真一くんがまたマルレで振る ので、ついてきちゃいましたv」

…シンイチ・チアキ。
ライバルの名前を聞いて、沸 騰していたボクの気持ちはしゅんと
温度を落とす。ボクはそっとのだめを離した。

「… チアキも忙しそうだね」
「ハイv 世界中を駆け回ってマスよ〜」

日本公演でチアキ とコンチェルトをやったことや、チアキが日本の
クラシック誌のグラビアを飾ったこと、英国国営テレビで密着取材
さ れたことなんかをうれしそうに語りだす。
彼女が彼の名前を呼ぶときの顔は、学生時代と変わらない。
あれ から何年も経っているのに、恋する少女のままだ。

「リュカはどこか行くところデスか?」
「ボ クはちょっと教会に…あ、のだめも一緒にどう?!」
「…それが、これからオクレル先生んちに行くとこなんデス」

の だめは手に持っていた紙袋を持ち上げて、ボクに見せるように
カサカサと振った。中には“通りもん”の箱。
彼 女の師であるオクレール先生が好きなお菓子だ。
もっとたくさん話したかったけど時間がないならしょうがない。
そ れなら、せめて…

「じゃあ駅まで一緒に歩きまショウ♪」
「あ。それボクが言おうと したのに!」

のだめもボクと同じように考えてくれたんだと思うとうれしくて、
頬が ゆるんでしまう。
こうやってのだめとパリの街を歩くのは何年ぶりだろう。
のだめはボクのポスターを見つ けては、しゅごい〜と笑ってる。
ちょっぴり照れくさいから、ボクは話を変えることにした。
話題を探して いると、ボクの目線の下でぴょこぴょこと弾むように
動いているのだめの頭。

「ねぇ、 のだめ。なんか小さくなってない?背が…」
「うぎ…リュカが大きく育ちすぎなんデスヨ」

の だめは口をとがらせてボクを見上げる。ああ、可愛いな。
コンヴァト在学中の頃とちっとも変わってなくて、まるでタイムマシンで
過去に戻ったような錯覚を起こしてしまう。
…でも、あの頃のだめを見上げていたのはボクのほうだったっけ。
この身長差や昔を懐かしむ会話が、錯覚から現実へと引き戻してくる。
変わらないのだめを見ていると、まるで ボクだけが変わってしまったように
思えて少しさびしさを感じた。


「明 日コンサトなんですネ」
「うん。よかったらのだめも聴きにきてよ」
「でもチケット完売って聞きマシ タ…」

そっか。今回の公演、発売と同時に売り切れたってマネージャーが
はしゃいで たっけ。

「あげるよ、ボク何枚かもらってるから」
「もきゃvv じゃあ2枚下サイ♪」

2枚?それってもしかしなくても…

「… チアキの分?」
「? そうですケド?」
「じゃあ、1枚は有料だネ」
「え 〜〜〜」

「トクベツなのは、のだめだけだよ」

さり気なく告 白。
でも、のだめはそんなことにはまったく気づいてないようで
お財布の中身を気にしていた。

ほ んとに、のだめは変わらないんだから…。

フッと笑いがこみあげてきた。そして、ボクは気づいたんだ。
変 わったなんて思ってたけど、ボクだって、ちっとも変わってないということに。
今でものだめを想うと、胸がキュンとして心がぽかぽ かと温かくなる。
のだめのことを忘れようとして他の女の子とつきあったりしてみたけれど
君に会うと、こ うやってまた恋に落ちてしまうんだ。きっと何度でも。

あーあ。のだめの運命の人がボクだったらよかったの に。
そろそろ思い出にしてしまえればいいのになあ…。
おじいちゃんに似たしぶとい性格は、音楽業界で生 きていくために
とても必要なんだけど、時には自分でも持て余すほどだよ。

のだめと たわいない話をしているうちに、あっという間に駅についた。

「ボクは反対方向だから、ここでお別れだね」

左右の頬に1回ずつキスをして別れを告げる。

「それじゃあ…。次 会える時は絶対連絡してよね!」
「ハイv 明日のコンサト、楽しみにしてますネ」

の だめはボクの手をそっと両手で包むと、いい演奏ができマスようにと
小さく唱えた。

遠 ざかっていく地下鉄のライトを見送った後、じっと手のひらを見る。
うん、明日はいい演奏ができるような気がするよ。
グッ と拳を握って小さくガッツポーズ。
のだめへの愛をこめて弾くから、チアキと一緒に聴いてほしい。

… まあ、ボクの想いに気づくのは、どうせチアキのほうだろうけど。



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それから1ヶ月後、ウィーンでのリサイタル。

「見・ た・わ・よ〜!」
「ほんとにしぶといなー、リュカは」

わざわざウィーンに足を運ん でくれたターニャとフランクが
ボクの楽屋にきて、ニヤニヤしながらそう言った。

「見 たって…何を?」
「これよ!」
ターニャの手にはフランスのゴシップ誌。その表紙に踊る文字は…

“恋 多きピアノ界の貴公子リュカ・ボドリー氏に新恋人?!”

「え、ええー?!何これ」

慌 ててページをめくると、のだめと再会したあの日の写真。
いつのまに撮ったんだろう。
ボクがのだめを抱き しめている写真だった。

「“お相手は伝説の日本人ピアニストMEGUMI NODA”だって」
「や るじゃな〜い」

そんなんじゃないんだけど…まァ、あえて否定はしないでおく。
これ を見たチアキはどんな顔をするだろう。
想像すると可笑しくて、笑いをこらえるのに苦労する。
これぐらい のスパイスがあったほうが、恋愛も音楽も幅が広がって
いいんじゃないの?なーんて。

い つまでも2人のスパイスでいるつもりはないけど、悔しいから
こうやって時々からかっちゃおうと、ボクはほくそ笑んだ。



fin