「ム キャ!!。ミルヒー音楽祭デスか?」
「あのなあ……」

千秋は呆れたように溜息をつき、のだ めの頭をごつんと小突く。

「フランツ・フォン・シュトレーゼマンだ!。いい加減ジジイの本名くらい覚えろ!!」
「は うう……」

頭を押さえてしょんぼりするのだめ。
それから、目の前のポスターを見る。

そ こにはこう書かれていた。

Festival de la musique〜Franz von Shutrezemann〜


Orchestre ROUX-MARURET

「つ まりだ……ジジイの指揮者デビュー50周年を記念して、音楽祭をやるらしい」
「ふぉぉ50年……すごいデスね。
 …… あれ?でも、こないだミルヒーはのだめに、『私の年デスか?今度の誕生日で46歳デース♪』とかなんとか言ってましたが……?」

すっ かりだまされているのだめであった。

フランツ・フォン・シュトレーゼマン音楽祭。

世 界のマエストロと呼ばれる彼の50周年を記念して、思い出深いマルレオケを中心にその拠点となるプラン劇場を会場とする。
3日間に 渡って、朝9時から夜11時までの間、世界中からシュトレーゼマンの旧知の仲である一流のアーティストを迎えての演奏を連続して行う。
シュ トレーゼマン曰く『明日のクラシック音楽を支える新しい聴衆を開拓したい』と言うのがコンセプトだ。
クラシック初心者でも気軽に一流 の演奏をを楽しめるように低価格の入場料を設定してある。
……その辺りに関してはエリーゼとかなり揉めているようではあるが、彼を指 示する投資家たちもかなり協力するらしいのでなんとかなるのだろうと千秋は思っている。
現在の時点で、国際的に名声のある音楽家の名 前がずらっと並んでいる。
こうした一流のアーティストを次々と招くことができるのは、ひとえにシュトレーゼマンの名声と人徳だろう。

「ま あ、ちょっとしたお祭り騒ぎっていう感じだな」
「ミルヒー、峰くんと同じで、賑やかなのが好きですもんネ」

の だめは嬉しそうにポスターを見つめながら、くるっと振り返って言った。

「ところで、先輩は何か演奏をするんデス か?」
「あ……ああ、一応、現マルレオケの常任指揮者で、シュトレーゼマンの弟子だから、数曲は予定しているが……」

何 故か千秋の表情は硬い。

「ふーん、楽しみデス!!」

キラキラと期待に 溢れて輝くのだめの笑顔を見ながら、千秋はそっと溜息をついた。







対 決(前編)






「Rui と共演…!?」

エリーゼからの電話をうけた千秋はしばし呆然と佇む。

『そ うよ。せっかくパリに在住しているんだし、駄目もとで依頼してみたんだけど……意外の他あっさりとオッケーが出たわ』

神 童と呼ばれ幼い頃から世界で活躍してきた、最も期待されている若手ピアニスト、孫Rui。
現在彼女は、コンセルヴァトワールに在籍し ており、就学中は学業に専念したいという本人の意向もあり、活動休止という姿勢を崩していなかった。

それが、ど うして急に考えが変わったのだろうか。

「音楽祭に出演する条件として出されたのが、千秋、あなたとの共演よ」
「え……?」
「何 よ……不服なの?」

バリっと音がする。
きっと大好物のビーフジャーキーでも食べながら電話 しているのだろう。

「いえ、もちろんやらせていただきます」

千秋は きっぱりとした口調で言った。

「これで、Ruiの活動再開いうことでかなり世間の注目が集まるわ。せいぜい圧倒 されないように気をつけるのよ、ぺーぺーの新米指揮者さん」

そう言ってエリーゼは電話を切った。
ツー、 ツーという音を聞きながら、千秋はしばらくの間動けなかった。

もちろんこれはチャンスだ。
活 動を再開するRuiとの共演ともなれば、エリーゼの言うとおり、かなりの話題性があるだろう。
そこでの演奏が成功すれば、各メディア の注目も集められて、いろいろな道が開ける。
一気に、階段を駆け上がるチャンスだ。

だが。

そ の一方で、千秋はその共演をのだめになかなか告げられずにいた。
あっさり言えばいいんだと頭ではわかっている。

の だめだって、昔とは違うんだ。
自分が誰と共演しようとも、この厳しい音楽界では仕方がないこととその事情も把握している筈だ。

「今 度の音楽祭でRuiと共演することになった」

とさらっと言えばいい。。
そしたら、あいつは 一瞬、目を見開いて驚いた表情になるだろうが、すぐに笑顔になるだろう。

「良かったデスね!!。先輩、頑張って くださいネ!!」

……だけど、きっとその瞳には寂しさが隠せなくて。

千 秋はその表情を見たくはなかった。
もちろん、それが逃げているということはわかっている。

…… 知らせなきゃ。

だけど、あと少しだけ。

あと少しだけ。

こ んな風にのだめが無邪気に笑っていてくれたなら……。






「楽 しみデス〜!!ミルヒー音楽祭!!」

のだめは歩道の縁石の上を、おっととと平均台のようにして渡りながら嬉しそ うに言う。

……ミルヒーって……何?

リュカは内心疑問に思ったもの の、目の前の憧れの女性が子供のように無邪気に笑うのを目を細めて眩しそうに見ながら言う。

「フランスでの最大 の音楽祭『ラ・フォル・ジュルネ』は、日本でも行われてるんだよね」
「ハイ。日本では『熱狂の日』音楽祭とも呼ばれてて、 毎年GW 期間中に、世界中から1700人以上のアーティストが400もの演奏やイベントを開催するんですヨ!!。
 チケットも極安だし、 オープニングパレードや、キッズ・プログラムや無料イベントも盛りだくさんでもう、すっごく楽しいお祭りデス!!」
「今度やる シュトレーゼマン音楽祭も、会場周辺でもミニコンサートがぞくぞく行われるみたいだし、シャトル便も出るみたいだし関連イベントや、レストランの特別メ ニューも出来たりして……パリの街も一気にお祭りムード一色になってきたね!!」

そこでリュカはぶすっと表情を 変える。

「……チアキも出るの?」

どうしてそこで不機嫌になるのか理 由が思い当たらず、のだめは可愛らしく小首をかしげながら言う。

「ハイ!!。もちろんデス!!。なんてったっ て、先輩はミルヒーの一番弟子デスからネ。きっと素晴らしい演奏を……」

ガバッッ!!。
後 ろから誰かがのだめに抱きついてきた。
そしてその人物の手は、背中からそのままのだめの胸を鷲掴みにする。
あま りの出来事にとっさに反応できないのだめ。

「のだめちゃん、コマンタレブ〜」

…… こんなことをするのは……世界中にただ一人しかいない!!。

「ミルヒーのエロオヤジッッッ!!」
「の だめに何するんだっっ!!」

バキッドゴッガス!!。

のだめとリュカの 容赦ないパンチとキックを受けて、ボロボロになって倒れるその人物。
すると横から、

「のだ めちゃん、私はここデスよ〜」

と声がする。
のだめはその方向に振り返って叫んだ。

「ミ ルヒー!!」

そこには疑惑の人物、フランツ・フォン・シュトレーゼマンが、恐怖の表情で顔を引きつらせながらの だめとリュカを見ていた。

「……え?……じゃあ……この人は……」

の だめはおそるおそる倒れている人物に目をやる。
その人物は「いてて……」と殴られた箇所を押さえながら、ゆっくりと立ち上がりパンパ ンとスーツの土ほこりを払う。
松田幸久は言った。

「……お久しぶり、のだめちゃん」






「い きなり何するんデスか!!」
「だってさ〜。マエストロがのだめちゃんとのフランスでの挨拶はああするって言ったんだも〜ん」
「ム キャーーーーーッッ!!」

のだめは怒り心頭で叫ぶ。
それから、はあっと息をついてこう言っ た。

「……なんで、松田さんがこんな所にいるんデスか?」

のだめは不 機嫌そうな口調を隠そうともしない。
ここはパリにある、シュトレーゼマンの事務所だ。
エリーゼは救急箱は持って きてくれたもののもちろん手当などをする訳はなく、しかたなくオリバーがごつい手で松田の顔に絆創膏を貼る。
松田幸久は、いつものよ うにニヤッと笑おうとして、いてて…と顔をしかめて言う。

「もちろん、音楽祭のゲストとして呼ばれたんだよ」

の だめは驚いてミルヒーの方を振り返る。

「本当デスか!?」
「今回は、パリ・ルセール管弦楽 団も協力してくれますからネ。ちょうど、以前の常任指揮者だったマツダが来仏していたので、お願いしたんデ〜ス!!」
「いやあ……僕 も、以前からマエストロのことは尊敬していて……ずっとお会いしたいと思っていたんですよ。ちょうど良かった」

松 田は熱い瞳で、シュトレーゼマンの手を握る。
ここで巨匠に取り入っておこうという、邪な意図が見え見えだ。

「オ オ!!私も貴方からは同じ匂い(笑)を感じマス。どうデスか?今夜辺り……」
「いいですね!!。どこかいい店がありますか?」
「も ちろん、クラブ『One more kiss』パリ支店で……」

わいわいと夜の親睦会に向けて盛り上がる男達。
松 田がのだめに言った。

「そういえば、千秋くんに連絡とれる?まあ、ついでだから誘ってやってもいいんだけ ど……」

ミルヒーの一番弟子は先輩なのに!!とむくれながらのだめは言った。

「…… 先輩は、マルレオケで練習ですヨ!!。今度の音楽祭に向けて頑張っている最中なんで、邪魔しないでくだサイ!!」
「あ〜そうか」

松 田はのほほんと言った。

「活動休止していた孫Ruiの復帰コンサートだもんな。そりゃ気合いも入るよな」
「え……」

の だめは凍り付いたようにその場に立ち尽くした。





「あ あ、奥さん、いらっしゃい」

にこやかに笑って迎えるテオは、のだめの後ろから来る人物達を見て仰天した。

「シュ、 シュトレーゼマン……それに日本のマツダ……」
「ちょっと練習を見学させて頂けマスか〜?」
「も、も、もちろ ん、こちら前の方へどうぞっっ!!」

緊張で恐縮しまくるテオに案内されながら、のだめと松田とシュトレーゼマン は席の方についた。
舞台では練習のまっただ中らしく、皆真剣な顔をして千秋の指揮に集中している。

の だめは先ほどから一言も口を聞かない。

そんなのだめの気持ちを知ってか知らずしてか、シュトレーゼマンは千秋の 指揮するオーケストラを見て感慨深げだ。

「……このオケも、千秋のおかげでようやく立ち直ってきましたネ……一 時はどうなることかと思いましたが……」
「別に千秋くんだけの努力って訳じゃないですけどね。彼は常任指揮者としては若すぎるって意 見も多いですよ」
「そのプレッシャーを乗り越えてこそ、私の一番弟子デース。あ……Ruiが出て来ましたよ」

舞 台袖から、孫Ruiが出てくるのが見えた。
千秋と笑顔で挨拶を交わし、にこやかに会話をしているのが見える。
の だめは膝に置かれた手で、ワンピースのスカートをぎゅっと握りしめた。
そして、Ruiがピアノにつくと……演奏が始まった。



ヴォ ルフガング・アマデウス・モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466


華やかさが 求められた当時の協奏曲とはうってかわって激しい性格を帯びている。
1785年作曲、翌日ウィーンで彼自身の主催による予約演奏会 で、自らの独奏で初演。
同年作曲された3曲のピアノ協奏曲はその中でも完成度が極めて高く、モーツアルトの全作品の中でも屈指の名作 とされる。
この短調の協奏曲は構成上の緊密度が高いだけでなく、ロマン的とも言える情熱の表出力が極めて高いことでも後に大きな影響 力を与えた

現在でも人気があるピアノ協奏曲の1つである。


第1 楽章 アレグロ ニ短調 4/4拍子、協奏風ソナタ形式
 


低 音楽器の地獄から湧き上がってくるようなアウフタクトの上昇音。
ヴァイオリン、ビオラの切分音に低音の弦が呼応、とても有名で印象的 である重々しい陰鬱な感じ出だし。
冒頭からぐいぐい聴く者を引き込んでいき、気が付けば一気に曲にはまり込ませる。

少 し進むと第1ヴァイオリンが弾かれ、不気味さをさらに加速させている。
その後一気に音が下降し激しく奏され、ヘ長調でオーボエとバ スーンの重奏にフルートの美しい旋律が答えている。

長い前奏曲の後、独自の主題によるピアノのソロが静かに入 る。

ごく単純な分散和音、しかもむき出しでストレートな無伴奏。
極限までミニマイズされな がら限りなく芳醇な一瞬…それを生み出しているのはその波紋のような響き。


あまりの美しさ にのだめは息を呑む。


Ruiは、響きを思うように操っていた。
前後の 音と見事に調和する音であり、それだけではなく分散和音に和音としての体裁を整えるために、個々の音を一連の響きの中に包摂させている。
ぴ ちぴちと若鮎が跳ね返るようなリズムと絶妙の息遣い、神々しく光り輝く宝石のような音色、可憐にささやきかける優しい歌。

そ して、ヘ長調による第2主題がピアノソロから管弦楽へ受け渡され、展開部を経て再現部に入る。
オーボエ、バスーン、フルートによる副 主題はヘ長調のまま第2主題がニ短調で再現される。
カデンツァ(独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部 分のこと)の部分。
若きベートーヴェンやブラームスがこの曲に心酔し自作のカデンツァを作曲している箇所であり、現在ではベートーベ ンのカデンツァがよく使われる。
音階が上昇していき……静かに終結する。



第2 楽章 ロマンツェ 変ロ長調 2/2拍子、三部形式


この楽章はミロス・フォアマン監督 製作のモーツァルトを主人公にした映画『アマデウス』のエンディングに使われたほど美しい旋律で知られている。
他の楽章と違ってゆっ たりとした旋律である。
安らかなモーツアルトを表す代表的な緩抒楽章でもある。

しかし、中 ほどのト短調の中間部の激しいピアノソロが緊張感を与えている。
まったりと流れがちな第二楽章の中間部でいきなり転調とテンポアップ して不穏な雰囲気になる。
1楽章以上に憂鬱な気持ちにさせられ、一種えもいわれぬ気だるさを覚えたまま曲は終わる。

父 レオポルトは、この楽章を「気高いほど荘重な」と評している。



第3 楽章 ロンド:アレグロ・アッサイ ニ短調→ニ長調 2/2拍子、ロンド・ソナタ形式


一 転変わって激しい曲想でピアノの分散和音のソロから始まる。

そしてピアノのソロの後は弦楽器でピアノの旋律を一 斉に奏し、ロンド・ソナタ形式で遊び戯れるような無邪気なものであるが、曲が進むにしたがって華やかさも更に増す。
そしてカデンツァ の後には長調に転じ、トランペットも加わり壮大に曲が閉じ、それまでの緊張を解放する。

尚、この第三楽章はもう 一つの未完の草稿が残っている。


マルレオケの演奏は、Ruiのピアノを追い込むことな く、淡い色づけで温かく包み込む。
聴く物は、ただただその美しさに感動する。

威厳と品格に 満ちた千秋の指揮も素晴らしく、ピアノと弦や木管がからみ合いながら、細部まで冴えに冴えていく音楽の表情が抜群にみずみずしい。



「ふ…… ん、なかなかやるじゃない」

松田は頬杖をついて言った。
いつものようにふざけた態度ではな く、その瞳は真剣な眼差しだ。

「千秋も成長しましたネ〜。曲にもオケ全体にも余裕が伺える。……たいしたもんデ ス。後は、やっぱりRuiのピアノは素晴らしいですネ……」
「のだめだって……」
「え?」

の だめの震えるような声に、松田とシュトレーゼマンが反応する。
のだめは俯いたまま、呟いた。

「の だめだって……のだめだって……あのくらい弾けマス……」
「………」
「………」

そ してキッと顔をあげた。
その瞳には涙がにじんでいる。

「パリに来てから……のだめ……一生 懸命勉強しました!!。
 ……ミルヒーの言うとおり、ちゃんと音楽と真正面から向き合いましタ!!。
 ずっ と……ずっと……死にものぐるいで先輩を追いかけて……追いかけて……」

なのに。

そ れなのに。

「どうして、のだめはあそこに行けないんデスか?。
 どうして、のだめは客席か らいつも先輩の後ろ姿を見つめ続けなければいけないんデスか?。
 どうして、のだめはRuiになれないんデスか?。
  いつまで……」


……いつまで、のだめは、頑張ればいいんデスか?


嗚 咽が漏れそうになるのを、ぎりりと歯を食いしばって耐える。
そんなのだめの表情を見たシュトレーゼマンは……しばしの沈黙の後、肩を すくめて溜息をついた。

「……わかりましタ……。じゃあ、こうしまショウ」

シュ トレーゼマンは不意に立ち上がると、パンパンと大きく手を打った。
その音に演奏中だったオケが演奏を中断する。
千 秋はその方向を見つめ、そして驚きで目を見開いた。

「のだめ……」

ど うして、のだめがここに?。

Ruiは呆然とする千秋の姿を見て、チクンと胸が痛む。

「マ エストロ……」
「シュトレーゼマンがこんなところに……」

ざわつくオケのメンバー達。
シ モンが立ち上がると言った。

「マエストロ……お久しぶりです。この度はお世話に……」
「あ あ、シモンさん、お久しぶりデス。挨拶はいいデス。
 マルレ・オケの皆さん、演奏を中断して大変申し訳ありまセン。
  実は、少し皆さんにお願いがありまして……ここにいるこの子と一緒に今の曲を一度だけ演奏してもらえませんか?」

そ う言って、のだめの肩を持ち立たせる。
のだめは突然のシュトレーゼマンの提案に呆然となっていた。
ざわざわと戸 惑う団員達。

「な……っ!!」

千秋は叫ぶ。

「何 を言ってるんですか!!。そんなこと……そんな、いきなり出来る訳ないじゃないですか!!」
「のだめちゃんはやれると言ってマス」
「そ んな無茶苦茶なっ!!」
「……これは、師匠命令デス。やりなさい、千秋」

シュトレーゼマン はこれまでになく厳しい表情で、千秋に有無を言わせなかった。
千秋は口まで出かかった抗議をぐっと押さえ込む。
そ してシュトレーゼマンはのだめの肩をポンと叩く。

「……さあ、いってらっしゃい、のだめちゃん」
「…… ミルヒー……」
「弾けるんでショ?。Ruiと同じくらい。……それだけ言ったからにはちゃんと演奏を見せてもらわないとネ」

シュ トレーゼマンの口調は優しかったが、その目は笑っていなかった。
のだめが今までに見たことのない厳しい目だった。
松 田がふーっと溜息をつきのだめを促す。

「……マエストロがそう言うんだから演奏してきたら?たかだか一介の学生 には出来ない貴重な経験だよ」

その言葉にのだめは、はっとしたかのように顔をあげた。
もう 後には引けない。

きっと表情を改めて、のだめは舞台にむかって歩き出した……。







「…… どうも、ありがとうございましタ!!」

のだめは元気よく頭を下げた。

「プ ロのオーケストラと共演できるなんて……夢みたいでしタ。
 とっても貴重な経験が出来ましタ!!」

の だめの表情は晴れ晴れとした笑みを浮かべて満足しているように見えた。

……表向きは。

「の だめ……」

千秋が声をかけようとすると、のだめはびくっと反応した後、千秋の方に向き直って無理矢理口の端をあ げて微笑んだ。

「ムキャーッ!!先輩と念願のコンチェルトができて……すっごく嬉しかったデス。
  なんだか本当に天国にいるみたいで……とてもとても幸せでした……。
 皆さん!!。お忙しいところを邪魔してしまってどうも申し訳あ りませんでしタ!!」
「………」
「Ruiもすみません、ピアノを変わってもらって」
「のだ めサン……私は別に……」
「まだまだ、のだめは修行中で、Ruiには及びもつかないことがよくわかりました!!。
  いい勉強になりましタ」

オケのメンバーも居心地の悪いような雰囲気に包まれる。

「で は、失礼いたしマス!!本当にありがとうございましタ!!」

そう言って、ぺこりともう一度頭を下げると、のだめ はくるりと背中を向けて走り出した。
会場の出口にむかって一直線に……一度も振り返ることなく。

Rui が千秋にそっと囁く。

「千秋……追わなくていいの?」
「……練習中だから」

そ う言うと、千秋は何かを振り切るようにして、タクトをまた構え直した……。






「…… こういう展開は読めていたんでしょう?」

松田が隣に座っているシュトレーゼマンに向かって言う。
シュ トレーゼマンは何事もなかったかのように、続行されたマルレオケの演奏の方を向いたままだ。

「……さあ?。…… まあ、そういう事になるだろうとは思ってましたけどネ」
「じゃあ……これから俺が取る行動も、マエストロは先は読めてるって事ですよ ね」

シュトレーゼマンは松田の言葉に、何も答えずに静かに笑った。
松田はすくっと立ち上が るとこう言った。

「マエストロ…… ク ソ ジ ジ イ とか言われたことありませんか?」
「年 中、言われてますヨ。不肖の弟子にネ」

シュトレーゼマンはニヤリと笑った。
松田も負けずに ニヤリと笑い返す。
そして、次の瞬間、松田は客席の階段を一気に駆け上り、会場のドアを開けて外に出た……。






さっ きまでは曇り空だった天気が、いつの間にか雨がどしゃ降りになっていた。
松田はスーツが濡れることを厭わずに、栗色のボブカットの女 性を捜して、会場周辺を走り回った。
……すると、前方にずぶぬれになってとぼとぼと歩いているのだめを発見した。

「の だめ!!」

松田は叫んだ。
あ、「ちゃん」をつけなかったな……なんて細かいことがちらりと 頭をよぎるが、今はそんなことはどうでも良かった。
側に駆け寄るとその腕を無遠慮に掴む。
うつろな目で、松田の 方を振り返るのだめに、松田は息を切らしながらこう言った。

「……こんな雨の中、傘もささずに何やってるんだ よ」
「………」
「……とにかく、雨がしのげるところに行こう……」

そ う言って促そうとした瞬間、パンッと松田の手は払いのけられた。

「……ほっといてくだサイ……」

の だめはぽつりと呟くと、くるりと松田に背中を向けて、また歩き出した。
松田はその後ろ姿に向かって言った。

「…… 全然、駄目だったな。お前の演奏」
「っ!!」

のだめが振り返る。
怒り を含んだような眼差しで松田を睨み付けるも、松田は動じなかった。

「……全く周りが見えていない。
  一人でひたすら突っ走って……勝手に編曲して……突出しすぎて誰もついていけれない……千秋の指揮にすら合わせられない。
 まるで手 のつけられない暴れ馬のようじゃないか……。
 ……それで、よくRuiと同じことが出来るとか言えたもんだな」
「………」
「…… 本当に……お前がやりたかったのは、あんな演奏なのか?」
「違いマス!!」

のだめは叫ん だ。
どしゃ降りの雨が降っていて良かったと思った。
頬を流れ落ちる大粒の涙を気にしなくてすむから。

「の だめがやりたかったのは……のだめがやりたかったのは……」

見つめ合い、微笑んで頷き合う、千秋とRui。
…… お互いに信頼して信頼されて。
まるで千秋の振る指揮棒が魔法を使ってピアノを奏でているように、そのピアノの音色は指揮者と通じ合っ ていた。
調和して、溶け込むようにオーケストラの一部となる。

……そんな……そんな、ピア ノ。

Ruiになりたいと初めて思った。

誰がどんなピアノを弾こうが、 自分には自分だけの音がある……それは、いつか千秋とも交わる時が来る……そう信じていたのに。

今、現在での自 分自身の限界。
越えられない壁。
……心がはり裂けそうなほどの……激しい嫉妬。

思 わず、胃の中にあるものを全て吐き出してしまいそうな気持ちの悪さを覚える。
目の前がくらくらして、のだめは思わずしゃがみ込んでし まった。
そんなのだめの背中に容赦なく雨が叩きつける。

「……のだめ」

松 田はのだめを見下ろしながらゆっくりと言った。

「……最初に言っておくが、俺は別に、お前みたいな女はタイプ じゃない。
 後輩の彼女を取るほど、別に女に不自由はしてないつもりだ」

松田の髪も服も雨 でびしょぬれだ。
それでもなおも言葉を続ける。

「……俺は、お前に同情している訳でも憐れ んでいる訳でもない。
 だから……今から本当の事だけを言う」
「………」

松 田は言った。

「俺は、お前が欲しい」

のだめは俯いていた顔を、はっと 上げた。
松田の真剣な目線がぶつかる。

「俺は……お前の『音』が欲しい……」
「………」
「…… 本気でそう思った……」
「松田さん……」

のだめのピアノは確かに未熟で経験不足だった。
そ んな状態で、オーケストラと即興で合わせることなどできる筈もない。
それをシュトレーゼマンも重々承知していた筈だ。

そ れでも、敢えて、のだめを千秋、そしてオーケストラと共演させた。

……その真意は不明だとしても。


『音』。


の だめのピアノの音色を聞いた瞬間……松田の心は雷に打たれたかのようにショックを受けた。


人 の心を鷲掴みにして離さない、魂を激しく揺さぶるようなその音。


なんだ……なんだ?。


な んだこいつ。


……こんな……こんな話は千秋からも聞いてなかったぞ……。


ピ アノの音がオーケストラの音を完全に打ち消して、まっすぐにストレートに松田の心臓を直撃する。

松田はさきほど からずっと胸の動悸が収まらなかった。
こんなに……こんなに……わくわくしてきたのは久し振りだと思った。

松 田はのだめの正面にしゃがみ込んだ。
同じ目線の高さから、のだめの目を真っ直ぐに見つめる。


「俺 と一緒に……千秋とRuiに勝負を挑んでみる気はないか……?」


松田がのだめに手を差し出 した。

遠くで大きな稲光が走り、ガラガラドッシャーン!!と雷鳴が響き渡った……。









続 く。