も し、女性と同棲するなら……(松田幸久の未来日記より)。



おとなしく てつつましやかな女性がいいな。

何も言わず俺の帰りを待っていてくれて、いつも笑顔を絶やさない。
料 理が上手で、白いエプロンがよく似合う。

朝は挽きたての新鮮なコーヒーの香りで目が覚める。
そ の香りとベッドのぬくもりが嬉しくて、俺はつい寝たふりをしてしまう。

彼女はカーテンをシャッと開けながら言 う。

「幸久さん、もう、朝よ。早く起きないと……」

朝の光が眩しくて 一瞬顔をしかめるも、俺は彼女にかまってほしくてこう言う。

「お早うのキスがないと目が覚めない……」
「も う……幸久さんはいつまでたっても甘えん坊さんなんだから……」

そして彼女の柔らかい唇が降りてきて……。




「松 田さん……お腹が空きました……」

ベッドの脇にぬぼーっと立つ黒い影。
ヒイイッと悲鳴を上 げると、そこにはジャージ姿で髪がボサボサののだめが立っていた。

「今日の朝ご飯は何デスか?」
「…… おいっ!!普通は女性が料理をするもんだろう!?なんで俺がっっ!!」
「のだめ……明け方まで飲まず食わずでピアノ弾いてたから…… フラフラなんデス」

見ると本当にげっそりとしていて……今にも倒れそうにも見える。

「あ あっっ!!もう!!」

松田はベッドから飛び降りた。

「ったく……しょ うがないから朝食作ってやる……その代わりちゃんと食えよ!!。
 俺様の手料理なんだからありがたく一口一口味わって噛みしめて食べ ろ!!。
 ……ちょっと待て」

松田は鼻をひくつかせた。

「く さっっ!!。
 お前、何日風呂に入ってないんだよっ」
「何日……今日はいったい何日デスか……?」

ぷ ち。

松田の脳内の血管が切れる音がした。

「朝飯ができるまでに、シャ ワー浴びて来い!!。
 ちゃんと、耳の後ろと髪も洗えよっ!!」
「……ハイ」

の そのそと浴室に歩き出すのだめの後ろ姿を見ながら、松田は溜息をついた。

……いったいなにがどうなって、こうい うことになってしまったんだか……。







対 決(中編)








「俺 と一緒に……千秋とRuiに勝負を挑んでみる気はないか……?」



そう 告げたその日の夜。
ピンポーンと松田のアパルトマンのチャイムが鳴った。
この部屋は、いつもフランスで公演があ る時に、短期で借りているなじみのアパルトマンである。
ミラーを覗いた松田はぎょっとして、慌ててドアを開けた。

「…… のだめ!?」

のだめは、すっかり立ち直ったかのようにそこに立っていた。
大量の荷物を風呂 敷包みに包んで、まるでおのぼりさんの様に背中にしょっている。
のだめはスチャッと敬礼をした。

「松 田さん!!野田恵!!しばらくの間お世話になりマス!!」

呆然と突っ立っている松田の横をすり抜けて、のだめは 勝手に部屋に上がり込む。

「ふぉ〜ここが松田さんの部屋デスか〜」

物 珍しげに部屋中を見渡すのだめ。

「ムキャーッ!!よかった!!。ちゃんとピアノがありマス!!」

と 喜びの奇声をあげるのだめに、松田は切れた。

「おいっ!!。勝手に部屋に入るなよ!……なんなんだ、いったい」
「へ? 合宿デスよ」
「合宿ぅぅぅ〜〜〜?なんじゃそりゃああああっっっ!!」
「知らないんデスか?。熱血漫画の主人公 は追いつめられると、合宿するんデスよ。
 ガラスの仮面の北島マヤは、ヘレンケラーの役作りをするために、目隠しをして耳を粘土で塞 いで、別荘にこもってたという感動の逸話が……」
「なんの話だ、それはっっっっ!!」

のだ めは噛みしめるように言った。

「時間が惜しいんデス……」
「………」
「音 楽祭まで後一週間……集中してやらないと……間に合わない……」
「……それにしたって……」

松 田は少し言いにくそうだった。

「よく考えろよ。男一人暮らしの部屋に、女が転がり込むなんて……あるか?普通」
「………」
「千 秋は知ってるのか?」

のだめは無言で首を振った。

「……おいおい」

松 田は肩をすくめた。

「勘弁してくれよ。……悪いけど、揉め事はごめんだ」
「……わからない んデス。」

のだめが俯いたまま、ポツンと呟くように言った。

「……わ からないって……何が?」
「のだめは……あんなに長い間……先輩と一緒にいて……誰よりも一番、先輩のオケを聴いていたのに……」


そ れなのに。


「それなのに……先輩の指揮と合わせることができなかった……」

…… あの時は、まず出だしからして狂っていた。
長い前奏曲が終わりピアノ導入の部分、のだめは千秋だけを見ていた。
の だめが千秋の指揮を見て「ここだ!」と思って弾いた瞬間からすでに、オーケストラが音を出すタイミングとずれていることに気づいた。
そ れからだった。
のだめがパニックになってしまったのは。

「Ruiは一回で合わせられたの に……」
「……本格的な協奏曲は……初めてだったんだろう。
 仕方がないさ。どんなソリストでも、最初から完璧 に合わせられる人間なんていない。
 指揮を見るだけではなくて、オーケストラの人たちが弾くタイミングを狙うと言うか、感じるという ことは……経験を積まなければわからないんだ」
「……演奏の間中、ずっと先輩の声が聞こえてました」

 
『の だめ!もっと、俺の指揮を見ろ!!』

『のだめ!!もっと、周りのオケの音を聴け!!』


「そ の声が聞こえていたのに……その悲痛な叫びが間違いなく心に響いていたのに……のだめにはどうすることも出来なかったんデス」
「…… 千秋にも責任がない訳じゃない。
 普通ソロがどう突っ走っても対応できるだけの準備をしておく……ソロがやりたいように集中させてや れるのが、プロのオケだ」

だが。

多分、突然の共演に、あの千秋もかな り動揺していたのだろう。
のだめのピアノソロが大きく逸脱してしまっていていても、オケにそのフォローをさせることが出来なかったの だ。
きっと苦い思いをしているのは彼も同様であろう。

松田は、しばらく考えた後で、ふうっ と溜息をついた。

「……わかった……」
「え?」

の だめの顔がぱっと輝く。

「しょうがないから、しばらくの間ここに置いてやる」
「ありがとう ございマス!!」
「音楽祭まで、あと1週間……ここで猛特訓だ」





そ れからの松田の行動は早かった。
ルセール管弦楽団に、半ば強引に曲目の変更とソリストの指名を認めさせた。

ノ ダメグミ。

誰も聞いたこともない名前にとまどう団員も多かったが、団員達は特に抗議をすることもできずに、しぶ しぶそれを受け入れた。

「松田のそこまで言う演奏者なら……」

松田と の長年のつき合いで、経験上、彼が一度決めたことはなかなか覆せないことを知っていたのだ。
それに加えて、性格が歪んでいるだのなん だの影で言われながらも、松田の才能と実績は誰もが認めていた。






次 に松田は、シュトレーゼマンの事務所に向かった。
エリーゼに案内されて、部屋をノックして入ると、偶然にも千秋がソファーに座りシュ トレーゼマンと音楽祭の打ち合わせをしていた。
松田の顔を見ると、途端に不機嫌そうになる千秋。

ちょ うどいいと思った。

「……お話中すみません、マエストロ、ちょっといいですか」
「ん?何デ スか?」
「今度の音楽祭に参加する演目ですが……」
「ああ、何か変更でも?」
「はい。…… 予定していた曲を変更して、ピアノ協奏曲をやろうと思っています。……ピアニスト野田恵と」

松田が言った途端 に、千秋がガタッとソファーから立ち上がった。

「……なっ!!」

その 顔は、驚愕で目を見開いている。

「どうして……なんでっ……あいつを……」
「チアキ……落 ち着いて座りなサイ」

シュトレーゼマンの冷静な声に促されて、千秋もしぶしぶ腰を下ろす。
だ がその肩は興奮で小刻みに震えていた。

「……昨日の演奏を見たデショ。彼女はまだまだ経験不足で、オーケストラ と合わせられる段階ではありまセン。
 音楽祭まであと1週間……間に合うと思っているんデスか」
「……必ず間に 合わせます」

松田の力強い声に、シュトレーゼマンはふっと微笑んだ。

「い いですヨ……好きにおやりなサイ」
「マエストロ!!」

千秋がシュトレーゼマンにくってかか る。

「そんな……まだ、学生でコンクールにも出れないあいつを……どうして!!」
「選曲と ソリストの選出は、ゲストの自由デス」
「……でもっ!」
「黙りなサイ!!千秋!!」

ま だくってかかろうとする千秋を、シュトレーゼマンが恫喝した。

「……これは私のための音楽祭なんですヨ。
  私がいいと言ったら、いいんデス。
 私が聴きたいゲストだけを呼んで、私の聴きたい音楽だけを演奏してもらう……」
「………」

そ してシュトレーゼマンは、相変わらず思考の読めない微笑みを浮かべて言った。

「……楽しい音楽祭になりそうデス ね……」






の だめは、決意を持って、練習室の前に立っていた。
こんなに緊張するのは、もじゃもじゃ組曲をオクレールに弾いてもらった時以来だと思 う。

のだめは入るなり、ぎゅうっと目を瞑ると必死の思いで、オクレールに頭を下げた。

「オ クレール先生!!。お願いがありマス!!。のだめを……のだめを音楽祭のコンサートに出演させてくだサイ!!」
「いいよ」

あっ さりと許可をするオクレールに、拍子抜けするのだめ。

「あ……あの?ヨーダ?」
「松田幸久 の指揮する、ルセール管弦楽団とでしょう」
「あ、ハイ……どうしてそれを?」

のだめは目を ぱちくりさせる。
そんなのだめに向かって、オクレールは言った。

「今日、松田が私を訪ねて きました。
 ……そして、今の貴方と同じように私に頭を下げたんですヨ。
 野田恵と共演させて欲しいって」
「松 田さんが……」

彼女の音が自分にとって未知の可能性を秘めていること。
自分と共演すること は彼女にとってはけっしてマイナスにはならないだろうということ。

熱く語る松田の話を、オクレールはただ黙って 聞いていた。

「……君と松田はどういう関係なの?」
「どうって……」

ど うと改めて聞かれても困る。

別に恋人ではないし……かといって友人かと問われるとそれもまた違う。

「あー、 えーっと……先輩の先輩で、一度だけ先輩の家に来たときに偶然バスルームで鉢合わせしたというか、ズボンを下ろしてする所を見たというか……」
「全 然意味わかんない」

オクレールは呆れたように溜息をついた。
それからのだめに向き直って 言った。

「私は、今、貴方にコンサートに出てもいいと言いました。
 しかし……この判断が 正しいかどうか……正直、私にもわからない、と言うしかないです……。
 もしかして大失敗をして、大きなトラウマが残ることも考えら れるし。
 その結果、貴方はピアニストとして使い物にならなくなってしまうかもしれません。
 だけど……」
「…… だけど?」

オクレールはいたずらっ子のように目をくるくるっとさせて言った。

「彼 の熱意に賭けてみたくなった……とでもいいますかね。
 もしコンサートが成功しても……失敗しても……貴方にとって悪い方向にはいか ないような気がするんです。
 ……ただのカンですけど」
「………」
「……そんなあやふやな ことで、こんなことを決めるのは、指導者失格だとは思うんですけどね?」

そう言ってオクレールは笑った。






そ れから怒濤のような合宿生活が始まった。

普通は、オーケストラとソリストはそんなに通して合わせない。
本 番前に1日だという場合も多い。
そしてその時点で、問題があるところだけピックアップして小返しをする。
あとは 当日のゲネプロと本番のみというのがほとんどだ。
オーケストラはソリストが来るまでに、前もって演奏曲の譜読みをしておく。
ソ ロのパート無しでオーケストラだけで演奏し、難しい所を練習しきってソロがどうきても対応できるような体裁を整えておいてから、初めてソリストを迎えるの だ。

しかし今回は違った。

ソリストの経験値が多分に不足しているの だ。
オーケストラとともに、のだめのピアノパートも練習し呼吸を合わせていかなければならない。
それはもう、何 度も演奏して体に叩き込ませるしかないのだ。

のだめの目は松田の指揮を見る。

い つものにやけた顔とは違った、真剣な眼差し。

美しく波紋を描くように指揮棒が振られる。

そ して耳は周囲から流れてくる音に集中し、それを正確に感じ取る。


そこに自分のピアノの旋律 が重ねられる。

……身震いするような感動。


最初 は、のだめに対して不信感を抱いていた団員達も練習が進むにつれ、次第にのだめの実力を認めるようになってきた。

「マ ツダ、あの子はいったい誰なんだい?」

ルセール管弦楽団のコンマスが、興奮して松田に言う。

「…… まだ荒削りだが……素晴らしく人の心を惹きつける演奏をする。
 あんな子が、コンクールにも出ないで……今まで表舞台に立ったことが ないなんて……」

松田は頷いた。

どうやらのだめのカンはいいようだ。
初 めはとまどっていたオーケストラとの呼吸合わせだが、何度も繰り返すうちに、少しずつ周囲と一体化する術を覚えてきた。

こ の調子なら……。





「ただい ま〜」

松田は買い物袋を抱えて、玄関を開ける。
その瞬間に、大音量で飛び込んでくるピアノ の音。
ルセール管弦楽団も、ピアノ協奏曲だけをする訳ではないので、他の演奏の練習をする時にはのだめに用はないので、先に帰っても らう。
そして、そこからは松田の部屋で、のだめの一人だけのピアノ練習が始まる。

すごい集 中力だと思う。

ほっておくと、何も食べないし何も飲まない。
促さなければ睡眠も取らないく らいだ。
もちろん風呂にも入らずに平然とジャージ姿のままだ。

もう、彼女の世界だけに入っ てしまっている。

後は自分自身との戦いなのだろう。

……時々、両手の ひとさし指をくっつけようとして、うまくいかないと地団駄を踏む。
あれはいったい何なんだ?。
……変態の考える ことはわからん……。

松田が煙草を燻らしながらそんなのだめに見入っていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。

「……っ たく、いいとこなのに」

そう言いながら、ドアを開けた松田は、あっと驚いた。
強ばった表情 の千秋が立っていたのだ。

「ち……千秋?」
「……このピアノ音は、のだめですね。……失礼 します」

千秋は固い表情のまま、無機質な声でそう言うと、松田の脇をすりぬけ部屋にずかずかと入っていった。
部 屋の中央のピアノでは、まさしく彼の愛しい恋人が曲に没頭している最中で。

「……のだめ」

千 秋はのだめを呼んだ。
だが、集中しきっているのだめに千秋の声は聞こえない。

「のだめ」

今 度はもう少し、強い口調で言う。
それでものだめの反応はない。
かーっと頭に血が上った千秋は、つかつかとピアノ に歩み寄り、鍵盤をバーンと弾いた。

「ムキャ!!何するんデスか!!」

突 然、演奏の邪魔をされてイラだったのだめは、その音の方向をキッと睨み付けた。
……そこには千秋が憮然として立っていた。

「…… 先輩」
「……のだめ……ここで何をしている?」

千秋の声は静かだったが、明かに怒りを含ん でいた。
それがわからないのだめではない。

「………」
「携帯にかけて も出ないし……アパルトマンに行ってもいないから、探しまわっていたら……こんなところにいたなんて……」
「………」

千 秋はのだめの腕をぐいっと掴んだ。

「……帰るぞ。さっさと荷物まとめろ」
「……離してくだ サイ!」

のだめは千秋の手をさっと振り払った。
千秋は信じられないものを見る目つきでのだ めを見る。

「……帰りまセン」
「のだめ……」
「……絶対に、帰りまセ ン!!」

部屋が険悪な雰囲気になってきたことを敏感に察知した松田は、溜息をつきながらこう言った。

「…… 悪いけど、俺、煙草買ってくるわ。こういった修羅場は苦手なんだ……頼むから俺のいない間にケリつけてくれ」

そう 言うと松田は上着をまとうと、部屋を出て行った。
部屋には沈黙が訪れる。

「……どうし て……お前が、松田さんの部屋にいるんだ」
「それは……今度の音楽祭で、のだめが松田さんとピアノ協奏曲をするから……合宿なんデ ス」
「馬鹿か、お前は!!」

千秋は、怒りを露わにして怒鳴りつけた。

「協 奏曲をするから、指揮者と同棲?。そんな話、聞いたことがないぞ!」
「………」
「……松田さんだって一人の指揮 者である前に一人の男なんだぞ……もっと常識を考えろ」
「じゃあ……」

のだめは顔をあげ て、千秋をキッと睨み付けた。
その瞳は涙が滲んでいる。

「……じゃあ、先輩は、目の前に チャンスがぶらさがっているのを、みすみす見逃せって言うんデスか?」
「………」
「……協奏曲はのだめの夢なん デス。ずっと……ずっと……憧れていて……でもコンクールも許されなくて、オーケストラと共演なんて夢のまた夢で……」
「………」
「そ の、降ってわいたようなチャンスに飛びついたのだめのどこが悪いんデスか!!言ってくだサイ!!」
「のだめ………」
「…… もう、待つのは嫌なんデス!!」
「………」
「もう待ち続けるのはうんざりなんデス!!」
「………」
「の だめはー」

そこから先は言葉にならなかった。
千秋はのだめの体をぐいと引き寄せると、強い 力で腕の中に閉じこめる。
そして突然の出来事に対処できてないのだめの唇に唇を重ねて、強引に深く口づけた。
驚 きで目を見開くのだめ。

「………」

のだめは逃れようとするも、千秋の 力は強くのだめを押さえ込む。
そして。

「ぼへえーーーーっっ!!」

バ キッッ。
猛烈な音と共に、千秋の右頬に強烈な痛みが走った。
のだめが千秋を左手で容赦なく拳で殴ったのだ。

「…… 何、やってんデスかっっ!!」

はあ、はあ、と息を切らせながらのだめが言う。
千秋は口の中 に鉄の味を感じた。
きっと、のだめに殴られた時に、口の中を切ったのだろう。

「……のだめ は、自分からチャンスを掴みに行きマス」
「………」
「……先輩に構っている暇なんてないんデス!!」

そ して呆然としている千秋をぐいぐいと押しながら、ドアの外へ追い出した。

「……帰って!!……帰ってくだサ イ!!」

ガシャーンとドアが閉められる。
ガチャリと鍵がかけられる音がした。

千 秋は、為す術もなく、ただ阿呆のようにそこに突っ立っているだけだった……。




ど のくらい時間が過ぎただろうか。
煙草を片手に廊下の端から現れた所を見ると、どうやら買い物に行くと言ったのは嘘ではなかったらし い。
そして、千秋の腫れ上がった頬を見て、一瞬驚きで目を見開き、ぷっと無遠慮に笑う。

「…… こりゃ、また、派手にやられたもんだね……」
「………」
「色男だいなしだ」

千 秋は、松田をキッと睨み付けると、感情を押し殺すように努力しながら、ゆっくりと言う。

「松田さん……いった い、どういうつもりですか?」
「ん?どういうこと」
「……あいつを……のだめをどうするつもりかって聞いてるん だよ!!」

千秋がすぐ隣の壁をバンッと拳で殴りつける。
あーあ、手が痛いだろうに……とひ そかに思いながら、松田は静かに答えた。

「……別にどうもしないよ。彼女とコンチェルトをしたいだけだ」
「…… 俺に対しての嫌がらせですか……?」

千秋のこの言葉を聞いた瞬間、松田の目の色が変わった。
松 田は千秋の胸ぐらを掴み、ダンッと壁に押しつける。

「……もういっぺん言ってみろ」
「………」
「お 前への嫌がらせ?そんな、ちっちぇえことを、この俺様がすると本気で思ってるのか?」
「………」
「……俺が目指 しているのは、お前の……もっともっと上だ」
「………」
「もし、お前が本気でそんなことを思ってるんだとした ら……俺とのだめに足下掬われるぞ」
「!!」


のだめ。


松 田は、今、確かにそう呼んだ。

まるで自分達の関係を深く意味づけるかのように。


「男 の嫉妬は見苦しいぜ、バーカ」

松田はそう言い残すと、部屋の合い鍵を取りだし、ドアの向こうへと入っていった。
後 には呆然と立ち尽くす千秋だけが取り残されていた……。






「駄 目だ!!」

マルレオケのシモンの声に、千秋ははっとなる。
そして周りの団員達の冷たい視線 を感じる。

……どうやら、指揮に集中していなかったらしい……。

「…… いったい、どうしたんだ。この間からのお前は……まるで人が変わったように……もしかして彼女が」

そう言いかけ て、シモンは口をつぐむ。
千秋の表情が途端に強ばったからだ。

「……とりあえず、10分の 休憩だ。……頭を冷やせ」

あーあ、やってらんないよな〜と伸びをしながら、ホールを出て行く団員達。
そ の後ろ姿を、千秋はぼんやりとした目で見つめる。


いったい俺は何をやっているんだろう。

自 分のオケすら満足に操れないで。


のだめとの初コンチェルト……完全に失敗してしまったそれ は、千秋の中で苦い記憶として残ったままだ。

あの時の千秋にはのだめしか見えていなかった。
本 来なら、オケ全体を把握してリードする筈の指揮者が、突出するピアノ一人に振り回されていたのだ。


も しシュトレーゼマンなら……もし、あの松田幸久なら……。

いったいあの時どんな演奏をしたのだろう……?。


コ ン。

千秋の額に冷たいものが押し当てられた。
Ruiが微笑んで、千秋に缶コーヒーを差し出 している。

「……ちょっと、一休みした方がいいヨ」
「ああ……ありがとう、Rui」

そ のまま、Ruiは千秋の隣に座り込んで、ミネラルウォーターを開け、ごくごくと一気に飲み干す。

「……すごい な」
「だって、演奏って喉が渇くんだもの。千秋もそうでしょう?」
「ああ……」

千 秋もコーヒーを口に含んだ。
まだ生々しい傷痕に、ちくっと染みる。

「別に……その顔の傷が どうして出来たのか知らないけど……別に、聞くつもりもないけど……」

Ruiは、慎重に言葉を選びながら言っ た。

「ここ、2、3日の千秋はおかしいヨ……まるで上の空で……」

Rui が千秋を心配そうに見つめる。
千秋はうつろな表情でRuiを見た。

……Ruiが悪いんじゃ ない。



だけど。


も し、彼女がのだめだったら……。


そうしたら……。



「な あ、Rui」

千秋は不意に切り出した。

「俺って……まだまだ半人前の 指揮者なのかな?」
「はあ?」

質問の意図が読みとれずにRuiは首をかしげる。

「…… お前のような、才能も実績もあるピアニストと共演できたから、上手くいっているだけで……本当は、自分では何一つ出来ない、駄目な指揮者なんじゃないのか な……」
「………」

だから、のだめというピアニストの音を、自由に走らせてやることが出来 なかったのだろうか。

あんなにずっとずっと……長い間、熱望していた、2人のコンチェルトがあんな形で実現する なんて……。

最悪だと思った。


「ええっと……ど うしようかな」

Ruiが独り言のように呟く。
その言葉に千秋が不審そうな顔でRuiを見 た。

「うん、やっぱり、こうしよう」

Ruiは頷いてそう言うと……。

バ キイッッ!!。

千秋の左頬にRuiの右ストレートが決まった。
思わず後ろにふっとんで倒れ 込む千秋。
飲んでいた缶コーヒーがこぼれて、茶色の液体が床にどんどん広がっていく。

「…… Rui?」
「せめてもの情けで、のだめとは逆の頬をぶん殴ってやったヨ」

なんだなんだ…… とその騒ぎにマルレの団員達が集まってくる。
Ruiは涙を浮かべながら言った。

「千秋…… 何、情けないこと言ってるのヨ!!」
「Rui……」

千秋は呆然としたまま呟いた。

「あ なたのオケはここでショ!!
 このマルレオケが、あなたのオーケストラでショ!!。
 ……そして……貴方の今の パートナーは、のだめじゃない!!のだめじゃなくて、私ヨ!!。
 そんな単純なこともわからないの!!」

千 秋はRuiの涙の溜まった顔をしばらく見つめ……そして、ゆっくりと視線を周囲に動かした。
ずっと一緒にやって来た、苦楽を共にし た、マルレオケの団員達が千秋を心配げに覗き込んでいる。
中には気むずかしい顔のシモンの姿も、心配そうに見つめるテオの姿もあっ た。



……ああ。


そ うか。

そういうことだったんだな……。


俺の場所 は、他のどこでもない。


ここなんだ。




千 秋はふっと笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
そして、涙で顔をぐしゃぐしゃにしているRuiにそっと手を差し伸べる。

「…… ごめん、Rui」
「もう……知らない」
「俺が悪かった……」
「………」
「俺 が悪かったら……このオケで最高の音楽を作り出すために、頼む……一緒に協力してくれないか?」

Ruiは顔をあ げて千秋の顔を見つめた。
さっきのような弱いうつろな目ではなく……その瞳には力がやどっていた。
千秋はパンパ ンと手を叩くと、団員達を呼び集めた。

「さあ、練習を再開するぞ!!」







そ して、あっと言う間に一週間が過ぎた。
明日はいよいよ、フランツ・フォン・シュトレーゼマン音楽祭の日だ。
松田 とのだめは、最後のゲネプロを終わらせると、そのまま帰宅して簡単な食事を取った。

いつもは松田がベッドで寝て いて、押しかけ同居人であるのだめにはソファーを提供してやっている。
(床に寝かせないだけ、ましな方だと思えというのが松田の持論 だ)

明日の本番のために……今日は、早く床につこう……。
そう思って、松田がベッドに入 り、ライトの光を落とそうとした瞬間。

コンコン。

松田の寝室のドアが ノックされた。

カチャ……とドアが開いて、ばつの悪そうなのだめの顔がひょっこりと現れる。
今 日は入念に風呂に入らせて、松田自身が洗濯してやった清潔なパジャマを来ているので、普通の女に見える。

「どう した?」
「……なんだか、興奮して眠れないんデス……」

そしてのだめはこう言った。

「…… 松田さんの隣で寝てもいいデスか?」
「はああああっっっ?」
「一晩だけでいいんデス!!お願いしマス!!」
「あ のなあ……男と一緒にベッドに入るってことは……」
「もし、松田さんがのだめに手を出そうとしたら、その時は松田さんの○○○○を握 りつぶしマス」

松田は、のだめの手の大きさと力強さを思った。
……あの握力で握りつぶされ たら、きっとひとたまりもないだろう……。
そして溜息をついた。

「ほれ」

松 田は布団をめくり、自分のベッドの隣を開けポンとベッドを叩いた。

「ムキャ!」

の だめの顔がぱあっと輝いて、ここぞとばかりにベッドに潜り込む。

「はう〜ん、久し振りのベッドの感触デス……」

やっ ぱりソファー生活はつらかったらしい。
松田が、ちょっと居心地が悪いように、身をもぞもぞと動かした。

「お い、あまりひっつくな」
「ムキャ?」
「……いくら変態といえども、お前も女だろうが。……くっついてこられると 変な気分になるんだよ」
「あうう、そういったものデスか……」

そう言ってのだめは、布団を 首まで被ると、松田と共に天井を見つめた。

「……どうしたんだ?」
「なんだか……松田さん と、同じ目線で物が見てみたくなったんデス」
「………」
「指揮者って……どんな景色を見ているんだろう……オー ケストラの一人一人に目を配って……どんな音1つも聞き逃さないで……」
「………」
「どんな風に、音楽を完成さ せていくのでしょう……どんな風に……」
「………」
「のだめは……いつか、千秋先輩と共演できるようなピアニス トになれるのかな……」

松田はしばらく黙っていたが、不意に口を開いた。

「そ れさ」
「ハイ?」
「それ、やめにしない?」
「え……」

松 田は上半身を起こすと、のだめを見下ろした。

「お前も……千秋も……ゴールデン・ペアっていうものに執着しすぎ ているように思えてしかたがないんだよ」
「………」
「それは、愛しあう恋人同士、舞台の上でお互いにうっとりと 愛を囁きあうのもいいのかもしれない。
 ……だけど、それって満足するのは自分達だけじゃないのか?。
 他人に 見せるものじゃないだろう。
 わざわざ聴きに来てくれる観客のことを、お前達はちゃんと考えているのか?」
「え……っ と」
「例えば……そうだな、人のセックスシーンを見ていて楽しいか?」

のだめはしばらく考 えた後でこう言った。

「……裏ビデオのことデスか?。のだめは楽しいデスけど……」

思 わぬ返答に松田は頭を抱える。
そうだ。
こいつは普通の女じゃない。

変 態だったんだ。

「……お前にとってはそうかもしれないけど……普通の観客にとっては違う。
  演奏する自分達だけが楽しい、自分達だけが満足する音楽を演奏するオナニープレイのようなものを見せられて、観客はポツリと置き去りか?。
 …… 舞台は、お前達ゴールデンペアのためだけのものなのか?」
「………」
「観客に演奏を聴かせるからには、『自分が この音楽をやっていて幸せだからそれでいい』だけでは駄目なんだ」
「………」
「……俺はな」

松 田は珍しく真面目な表情になって言った。

「音楽家も、一種のサービス業だと思っている」
「サー ビス業……デスか?」

意外な松田の言葉にのだめは目を見開いた。

「そ うだ。
 もちろん音楽というのは、音楽家が自分の魂を込めて、納得のできる作品を命がけで作り上げて、多くの人々を感動させるもの だ。
 だけど……音楽家は常に、聴いてくれる観客のことを考えなければならない。
 観客が本当に楽しんでくれ て……この演奏を聞けて良かったと思える……そんな演奏でなければ意味がないんだ。
 奏者達が互いに聴き合い、指揮者が1つにまとめ 上げるオーケストラ。
 奏でる音楽が会場と一体となって空気に溶け込む……そんな瞬間を大切にしたい……。
 自 分達だけで満足する音楽ではなく、聴いてくれる観客全ての人達に楽しんで、喜んでもらえるような……そんなオーケストラを目指しているんだ」
「………」

そ う語る松田の目はとてもキラキラと輝いていて……すごく眩しかった。

「……お前も……千秋も……俺から言わせれ ば、まだまだだよ」
「………」

そういう俺もまだまだだけどな、と松田は小さく呟いた。

の だめは両手で目を隠した。
なんだかべそをかきそうになったのだ。

「のだめ……なんだか、頭 が混乱してきました……」
「そうだな。……俺も少し、しゃべりすぎた。……もう寝るぞ」

そ う言ってライトを消そうとした瞬間、のだめが松田の背中をくんくんと嗅いだ。

「……松田さん」
「な んだ?」
「松田さん……なんだか加齢臭がしますヨ。ちゃんとお風呂はいりましたか?」
「お前が言う かーーーーーーーーっっ!!」

むかっと来た松田はそのままのだめにキックを食らわせた。

「て めーーっっ!!。一週間、ただで泊めてやった優しい俺様に対して言うことがそれかっ!!」
「きゃーーーーっっ!!。松田さんに襲われ るっっ!!先輩、助けてーーーっっ!!」

じゃれあってふざけ合う2人。
ふとしたはずみで、 松田がのだめを組み敷く体勢になった。
仰向けになったのだめの顔の左右に両手をついて、顔と顔が今にも触れあいそうな近い距離。

松 田の瞳にはのだめが映っていた。
のだめの瞳にも松田が映っていた。

しばらくそのまま2人は 動けずにいた。

かすかに。

ほんのかすかに、のだめの瞳に怯えの表情が 浮かんだのを、松田は見逃さなかった。

松田はふっと笑って溜息をつくと、のだめの額をコンと小突いた。

「ほ ら……明日に差し支えるから、もう寝るぞ」
「松田さん」
「……本番前のソリストをソファーに眠らせる訳にはいか ないから、今日だけ俺がソファーと交換してやる」
「あの……」
「……とにかく、今は何も考えずにぐっすり休め」
「………」

松 田はそう言うと部屋を出て行った。






そ して……音楽祭が始まった。





続 く。