そ して、ついにその日がやって来た。



フランツ・フォン・シュトレーゼマ ン音楽祭の開幕。

晴れ渡ったパリの青空に、パアン!!パアン!!と花火が打ち上げられる。



い よいよ、街中に音楽が溢れる底抜けに楽しいお祭りの始まりだ!!。



会 場近くの特設ステージでは、華やかにオープニングセレモニーが行われた。
主役であるシュトレーゼマンが自らマイクを持って挨拶をす る。

「本日は、ワタシのための音楽祭にお集まりいただいて、本当にありがとうございマス!。
  話せば長くなりますが……ワタシが世界のマエストロとして、今の地位にいられるのは、ある一人の女性の存在があってのことデス。
 彼 女がいなければ、ワタシは、今、ここにはいませんでした……」

そしてミーナと呼ばれる女性への熱い思い、はては 世界中の数々の女性達との思い出話まで延々と語り続け、集まった人々がうんざりするような長話が続いた後、こう言った。



「皆 サン!!、この音楽祭を、めいいっぱいに楽しんでくだサイ!!」



わあ あああっと集まった群衆から歓声と拍手が巻き起こる。

そして、その後開放的な場所にはぴったりの、地元の音楽パ フォーマンス集団による陽気な演奏が響き渡る。
手拍子で音楽に加わる人、身体を揺らして音楽に身をゆだねている人、「何をやってるん だ?」と思わず足を止めて覗き込む人もいる。
誰もが、素晴らしいことが起きるとの期待に胸を膨らませていた。


最 寄りの駅もシャトルバスも、その日は朝から人の行列がずらっと並んでいた。
チケット売り場もすでに長蛇の列である。


主 な会場となるのはプラン劇場だが、その周辺にあるいくつかのホールでもコンサートが同時並行して行われることになっている。
交響曲、 室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、合唱曲、宗教曲 多様多彩だ。
どこに行っても訓練をうけたスタッフ達が丁寧な笑顔な対応で観客を迎える。


誰 もが気軽に楽しめる低料金チケットなので、クラシックコンサート初体験者も数多く訪れていた。
中には無料コンサートなどもあるのも魅 力的。

「あ、ああ〜、この曲、知ってる!!」
「名前は知ってるけどどんな曲か知らなく て……こんな曲だったんだな〜」
「このフレーズ……聞いたことがあるけど、そうか、こういう名前だったんだ!!」

ク ラシック初心者達の嬉しそうな声が行き交う。


子供達にも本物のクラシックコンサートを体験 してほしいということから、キッズプログラムなども充実していて、家族連れには嬉しい限りである。
近隣の小学校の生徒達も特別に招待 されていて、ステージから流れてくる音楽に、観客席から子供達の興味津々なざわめきが聞こえてくる。

「あの楽 器、なんていうの?」
「私も弾いてみたい〜」

初めて子供をクラシックコンサートに連れてき て緊張している親達も、プログラムが進むに連れてリラックスしてくる。
子供を膝にのせたまま、体をリズムに合わせてゆすったりして楽 しんでいる。
そして子供達は、キラキラと目を輝かせながら溢れんばかりの笑顔で、ステージに釘付けだった。
コン サート終了後には、楽器体験コーナーもあり、普段目にすることのできない楽器に触れたり音をだしてみたりすることができる。


ク ラシック通も初心者にも、そして子どもたちにも、それぞれに合ったスケジュールを自由に組み立て音楽を満喫することができるようにと、プログラムが組まれ ているのだ。


同じ曲を違うオーケストラやアーティストが演奏することもあり、その違いを聞 き比べて楽しむこともできる。
1つの曲を、それぞれ違う多彩な楽器ヴァージョンに編曲した演奏もあったりと、企画も多種多様だ。
そ して、観客達にとっては、ビッグネームから、旬の若手まで、様々なアーティストに出会えるのも魅力の1つだ。


展 示ホールではシュトレーゼマンの今までの経歴に沿った写真ギャラリーのコーナーも設けられている。
(クラブ「One More Kiss」の世界中の各支店の女性達と記念撮影した写真なども展示されているのを見て千秋は溜息をついた)。
グッズコーナーには、 シュトレーゼマンのCDやグッズ、はては写真集なども売られている。

サイン会やトークショーなどもあり、シュト レーゼマンは大忙しだ。


先陣を切ってオープニングを飾ったのは、ジャン・ドナデュウが指揮 者を務めるデシャン・オケ。
相変わらずの白い羽が飛ぶような華のある演奏で会場を沸かせる。
「白王子」と呼ばれ る色彩豊かなジャンの指揮は観客をとりこにし、そのルックスは女性客達に大人気だった。

その他、日本オケの参加 もあり、片平などがゲストとして呼ばれていた。







対決(後編)






千 秋のマルレオーケストラの演奏は、最終日の午後からで松田のルセール管弦楽団の前だった。

……このプログラム は、どう考えてもシュトレーゼマンの嫌がらせとしか考えられない。

千秋は、溜息をついた。

あ れからのだめと話をしていない。

会場内で何度かのだめの姿を見かけるも、その側にはいつも松田がいた。
打 ち合わせでもしているのか、2人が顔をつき合わせて話をしている。
その時、のだめの緊張をほぐそうとしているのだろうか、松田が何か 面白い話をしているらしく、のだめが楽しそうに笑っているのが見えた。

その笑顔を見ると千秋の胸がちくりと痛ん だ。

ルセール管ゲネプロを見学しようかと思ったがやめた。
今、のだめの演奏を聞いて自分が どうなってしまうのかが怖かったのだ。

のだめは、千秋の方を一度も見ようともしない。

最 初はわざと視線を避けているのかとも思ったが、どうやらそうではないみたいだ。
多分、本番に向けて……のだめも意識を集中しているの だろう。

その瞳は常にまっすぐに真剣にステージに向けられている。


きっ とあいつの頭の中には、本番の演奏のことしかないんだ。


そして自分も……。


千 秋は、ふっと笑った。

他のオーケストラに惑わされている場合ではない。
あいつと松田さんが どんな演奏をやるのかは自分には関係ない。

……俺は俺のやるべきことを、やるだけだ。

マ ルレオーケストラと、そしてRuiと共に……。







そ して、千秋の出番がやってきた。

演奏前の舞台裏では、音を出してる人もいれば、出番までじっとしている人、ス タッフと談笑している人などなど、楽員それぞれが思い思いに過ごしている。
そんな中、鮮やかな青のドレスを身にまとったRuiが本番 前の千秋にそっと近づいて囁いた。

「千秋……大丈夫?」

その心配そう な瞳に、千秋は改めてRuiの顔を見つめた。

千秋を拳で殴ってまでも、自分を諫めてくれたRui。
彼 女はのだめのことばかり考えている自分の、弱い心を断ち切ってくれた。

そしてRuiの頭に手を置く。
せっ かく美容師がセットした綺麗な髪の毛が崩れない程度に優しく撫でて。

「ああ。大丈夫だ」

そ して優しい瞳で見つめながら言う。

「Rui……ありがとな」
「え?」
「…… なんだか、お前に助けてもらってばかりだ……いつも……いつも」

シュトレーゼマンの代役でデビューした時も。
一 杯一杯でどうしようもなかった自分を、明るく強く引っ張って、そして導いてくれた。

そして今も……。

「本 当に……感謝している……」
「……そんなこと……」

Ruiはぷいっと横を向いた。
耳 の所までが真っ赤に染まっているのがわかる。

「だけど……もう大丈夫だ」

千 秋はステージの方を強い瞳で見つめながら言った。

「俺たちができる……最高の音楽をしよう、Rui」

Rui は、ぱっと顔を輝かせながら嬉しそうに返事をした。

「うん!!」






千 秋とRuiの演奏が行われている間、松田はのだめの控え室のドアをコンコンとノックした。

「ハイ、どうぞ」

中 から明るい声が聞こえてきて、松田はドアを開ける。
のだめは椅子に座っていた。
その瞳は閉じられていて、何かに 思いを馳せているようにも見えた。

「よう」

松田の言葉に、のだめは目 を開けてその声の主を見る。

「松田さん、どうしたんデスか?」
「もう、そろそろ行く時間だ からね。迎えに来た」
「あ、ハイ、行きマス」

松田はちらりとのだめの様子を観察する。
内 心はどうなのかわからないが、少なくとも表面はいつもと変わらない様子だ。

「へえ……」
「ハ イ?」
「千秋とRuiの演奏を聞きながら、一人でベソかいてるんじゃないかと思って心配だったんだが」

確 かに今歩いている楽屋の廊下にも、舞台から演奏されている曲が聞こえてくる。

ヴォルフガング・アマデウス・モー ツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466

リハーサルで聞いた時よりも、更に精彩さが増しているのを感じ る。
大胆でキレがあり、ますます冴え渡るRuiの演奏に、オーケストラが負けることなく見事に調和していた。

…… どうやら、ふっきったみたいだな。あのお坊ちゃん。

松田はふっと笑った。
のだめはしばらく じっと黙ったまま周囲の音に耳を集中させていたが、やがて口を開いた。

「……のだめには、何も聞こえてません ヨ」
「は?」
「のだめの頭の中には、今から松田さんと演奏する曲しか流れていまセン……ずっとずっと」
「………」

松 田はのだめの顔をまじまじと見た。
その顔はしっかりと前を向いていて、何の迷いも感じられなかった。
松田は言っ た。

「じゃあ、俺からも1つだけお願いがあるんだが……」
「ハイ?何デスか」

松 田は立ち止まると、のだめも足を止めた。
そして瞳を真剣に見据えながら言う。

「……演奏の 間は、俺だけを見ろ。
 俺のことだけを考えろ。
 俺のオーケストラの音楽だけを聞け」
「………」
「…… 一瞬たりとも、他の男のことなんか絶対に考えるんじゃねーぞ」

松田の言いたいことは、のだめにはよくわかった。
こ の一週間……ともに生活をし、ともに音楽を育んできた男が、自分に求めていることが。
まるでテレパシーのように心の中に直接、飛び込 んで来た。

そして、のだめは微笑んで言った。

「了解デス」







千 秋の演奏が終わった。

会場は、歓喜の渦に巻き込まれていた。
人々は立ち上がり、割れるよう な拍手を惜しみなく送り、「ブラボー!!」「ブラーヴァ!!」と叫ぶ声が止まなかった。
Ruiは立ち上がり、晴れ晴れとした顔で深く 一礼した。
千秋は、ゆっくりとRuiに近づくと、固くしっかりとした握手を交わす。
そして千秋の唇が動いた。
そ の声は歓声に紛れて聞こえなかったが、Ruiには何を言っているのかがわかっていた。

……ありがとう……。

そ んな2人を、マルレオケの団員達も、笑顔で手を叩いて褒め称えた。
その拍手を会場内の拍手の洪水が包み込み、舞台と会場が1つになっ た瞬間だった。。






「う わ……この後で演奏するのかよ……」

ルセール管の楽員が呟いた。

「すっ げえプレッシャー」
「どうしよう、胸がドキドキしてきた」

緊張で顔が強ばるルセール管弦楽 団の楽員達に向かって、松田は言った。

「なーに、あんくらいの演奏で動揺してるんだよ」

松 田は反り返って言う。

「俺に言わせれば、全然たいしたことないねっ!!。
 Ruiは可愛い けど、指揮者がぜーんぜん、ヒヨッコだし、顔も俺の方が全然格好いいし、大人の魅力もあるしっっ!!」
「いや、あの、顔は関係ないん じゃ……」
「とにかく、あいつらを意識する必要なんて、全然なーーーーしっっっ!!」

お前 が一番意識してるんだよ……と、全員が心の中で突っ込みを入れた。

だけど。

何 故か、先ほどまでの緊張が解けていくのを感じる。
この、性格の歪んだ自意識過剰な可笑しな日本人指揮者の存在が、とてつもなく頼りが いのある存在に思えてくる。

大丈夫。

この人物についていけば、けして 道に迷うことはない。

誰もがそのことを経験上、確信していた。





そ してついに出番がやってきた。





先 ほどの興奮醒めやらぬ会場から、盛大な拍手を持って、ルセール管弦楽団が迎えられた。
楽員が入場した後、コンマスが登場する。

指 定の席につくとコンマスが立ち上がり、ピアノでAの音を弾いた。
そして自分が真っ先にヴァイオリンでAを奏で、其れに答えるがごと く、次々と楽団員が自分達の楽器でAを弾く。

そして万全の体勢をとって指揮者とソリストを迎える。

ピ アニストの野田恵と、指揮者である松田幸久の入場だ。

舞台袖で出番を待つ2人。

「の だめ」

不意に松田が言った。

「けっこう、今日いけてるじゃん」

の だめは、ピンクの5色のグラデーションの オーガンジードレスを着ていた。
柔らかい優しいピンクから深い落ち着いたピンクまでのグラ デーションのふわっとした生地が歩く度にさらっと揺れる。
やはり細くても、ピアニストとしての姿勢と骨格がそのドレスによってさらに 引き立てられる。
白い陶器のような肌と、柔らかな栗色の髪が美しかった。

「松田さんの燕尾 服も初めて見ましたけど……素敵デス」

黒い燕尾服を身にまとった松田は、いつものにやけた男ではなく、堂々たる 大人の男の雰囲気を醸し出していた。

「そうか?」
「もちろん、先輩の次にですけど」

そ の言葉にがくっとなる松田。

「へえへえ」

はあっと溜息をつきながら松 田はすっと腕を差し出した。
その腕にすっと自分の腕を絡ませるのだめ。

「……行こうか」
「ハ イ」

そして2人は歩き出す。
眩しいスポットライトが照らし出す、あのステージへ。

「な んだか……こうやってると、結婚式みたいだな」
「そうですネ。松田さん、エスコートするお父さんみたいデス」
「ゲッ…… 俺、オヤジ役なの?新郎じゃなくて?」
「当たり前デス」

そして光が2人を照らし出す……。






会 場は拍手を持って、指揮者とピアニストを迎えた。
ルセール管弦楽団の常任指揮者であった松田の存在はよく知られていたが、今日のピア ニストの名を知る人は誰もいなかった。
しかもどうやら、まだ学生らしい。
これは、最後のトリを努めるシュトレー ゼマンのために、マルレオケを休ませるための、単なる繋ぎなのだと誰もが思っていた。

そして、その予想は裏切ら れることになる。

のだめはピアノの前に行くと、ふわっと優しく一礼して微笑んだ。
その可憐 な姿は、いったいいくつだろうと思わせるほど愛らしくて。
一部の観客などは、あんな可愛い子がピアノを弾くのなら、とりあえず視覚だ けでも満足できるだろうという期待をもったくらいだ。
そして、のだめはコンマスと握手を交わし、松田とも交わす。
松 田の強い手がぐっとのだめの手を握る。
顔は明かに強い意志で不敵に笑っていた。


い いか。

やるぞ。


のだめはただ黙って頷く。

そ してのだめはピアノの前に座り、松田は指揮台の上に立った。






千 秋は演奏終了後の、団員やスタッフからのねぎらいの言葉もそこそこに、楽屋に戻って上着とベストを脱ぎ、ネクタイととった。
そして白 いワイシャツ姿のままで、楽屋を飛び出した。
息を切らしながら、こっそりと脇の入り口から場内に忍び込む。

そ れは松田が指揮棒を構えた瞬間で。

のだめは?。

そう思い、ピアノの方 を見ると、のだめが緊張な面持ちでピアノの前に座っているのが見えた。
肩に力が入っているのが、遠目に見てもよくわかる。

…… 駄目だ……あのままじゃ。

また……。

そう、千秋が思った瞬間。

指 揮者である松田を真剣な面持ちで見ていたのだめが、ぷっと吹き出した。
よく見ると、他のルセール管の団員達も笑いをこらえた表情で震 えていて、顔をそむけている団員もいるくらいだ。
観客達はこの演奏直前で笑いをこらえるという、なんとも不謹慎なオーケストラを見て 不思議がっている。

会場からは後ろ姿しか見えないが、松田がなんともいえないおかしな顔をしたらしい。



…… いったいどんな顔をしたんだ!!松田さん!!。



千秋は、思わず突っ込 みたくなったが、ふとのだめの表情に気づいた。

ひとしきり笑い終えたのだめは、先ほどまでの緊張が解けたのか、 とても柔らかい穏やかな顔になっている。
それが松田の狙いだとすれば、たいしたものだと思う。

…… 自分にはできないことだ。




そして演奏が始まっ た。




ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ピ アノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」



急・緩・急の3楽章から成る協奏曲 であり、第2楽章と第3楽章は続けて演奏され、ベートーヴェンのピアノ協奏曲では演奏時間・編成ともに最大の規模を誇る。

ナ ポレオンがウィーンを占領し、ウィーン中が混乱に陥った1809年頃に作曲が開始されたといわれる。
『皇帝』という別名は、ベートー ヴェン自身によりつけられたものではない。
どのような理由から『皇帝』と呼ばれるようになったか、いくつか説がある。
こ の曲の曲想が、あたかも皇帝を連想させるからであるという説、古今のピアノ協奏曲の中でも、まさに皇帝と呼ばれるのにふさわしい規模・内容であるからとい う説などである。

この豪華絢爛、壮大無比なベートーヴェン最後のピアノ協奏曲は、古今東西のコンチェルトの最高 峰として他の追随を許さず、悠然と音楽史の流れのなかに聳え立っている。




第 1楽章
Allegro 変ホ長調 4分の4拍子 独奏協奏曲式ソナタ形式


慣 例に反して、いきなりピアノのカデンツァ風の独奏で始まる。
カデンツァとは、一般に、独奏協奏曲にあって、独奏楽器がオーケストラの 伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のことである。
この第5協奏曲では最初からカデンツァ風のソロが入っているが、しかし普 通なら演奏者の自由になるカデンツァではない。
これは独奏者が即興で演奏するためにカデンツァの部分だけ質が低下すると感じとった ベートーヴェンが協奏曲全体の統一を図るため、自身が同じ楽譜の上にカデンツァを書き記しているからだ。
演奏者の独断を許さないベー トーヴェンの強い支配性がカデンツァまで作り付けにして演奏者を拘束している。
ところが松田はこれを使わなかった。

最 初からのだめを自由奔放に突っ走らせた。


千秋は思わず息を呑んだ。


完 全なフリー・インプロヴィゼーション(即興演奏)だ。


松田はのだめを信じていた。

彼 女の音楽のセンスとカンの良さは、きっと曲の全体の質を落とすことはない、いやそれ以上もいけると確信していたのだ。



会 場から衝撃とどよめきが走る。



この曲は女性にはなじまない曲だと昔か ら言われている。
あまりにも豪快で男性的な風格を持つからだ。
しかし、松田はあえてのだめをソリストとして選 び、あえてこの曲を選んだ。


のだめはこの即興的な部分で観客の度肝を抜いた。

冒 頭からしてたぐいまれなき透明な音色と高貴な響きをした旋律を会場に響かせる。
可憐な姿にただ見とれていた観客は、唖然として口をぽ かりと開ける。


派手な技巧を凝らしすぎると協奏曲全体との均衡を崩すことになり、逆にあま り簡素だと音響芸術としての主張意欲がないと謗られる難しいカデンツァ。
それをのだめは本能のおもむくままに弾いていた。


こ の部分は、松田と入念に打ち合わせていた訳ではない。

「あ〜ここはお前の好きにやっていいから」

松 田が言ったのはその一言だけだった。

溢れる躍動感。
ほとばしる情熱。
の だめの指が、信じられない早さで鍵盤の上を走り、常人では想像もつかないようなアレンジを叩き出す。

決して決ま り切った楽譜からは感じ取れないライブ感に、観客達は一瞬の間にとりこになった。



そ して松田のタクトが振り下ろされる。



オーケストラで第1主題を提示し てからそしてピアノが本来の姿に戻り、加わる。

しかし依然ピアノ主導型のままだ。

ル セール管弦楽団は、のだめのピアノに振り回されているように見えながらも、けしてそうではない。
松田の巧みな指揮で統率され、ピアノ を引き立たせるかのようにサポートして、なおかつただの伴奏にはとどまらず、雄大な音を融合させる。


第 2主題は最初短調で示されてから本来の長調に移行する。







第 2楽章
Adagio un poco mosso ロ長調 4分の4拍子 変奏曲形式

最初 はオーケストラから始まり、やがて、パンパンとふたつの音から始まるピアノの音色。

一転して、穏やかな旋律が広 がる。

全体は3部からなっており、第3部は第1部の変奏である。
第2部を第1部の変奏と取 れば第2部が第1変奏、第3部が第2変奏の変奏曲形式だし、そう取らなければ第2部を中間部とした複合三部形式である。

楽 章の最後で次の楽章の主題を変ホ長調で予告し、そのまま続けて終楽章になだれ込んだ。



の だめは松田だけを見ていた。

松田の指揮だけを見て、オーケストラの音だけを聞いていた。

そ れでも観客達の真剣な眼差しをどこかで感じる。
観客達の息づかいさえも聞こえてきそうで。

自 分と松田、オーケストラそして会場が一体となったような不思議な感覚に陥っていた。


のだめ は思わず観客に向かって心の中で語りかけていた。



皆さん……。


ど うデスか?。


のだめ達の音楽は楽しいデスか?。


そ れはよくわからないけど……きっと……まだまだ、わからないんだろうけど……。


でも……で も……。



のだめの口に微笑みが浮かんだ。
大声で 叫びたい気分だった。



のだめは、今、とっても楽しいデス!!。


とっ ても幸せデス!!。



大好きな音楽を、演奏できて。
大 好きな音楽を、オーケストラと共に奏でられて。
大好きな音楽を、尊敬する指揮者と共に奏でられて。

大 好きな皆さんに、聴かせることができて……。



それが……その気持ち が……みんなに、届くといい……。



のだめはそう思いながら、ピアノを ただただ夢中で弾き続けていた。




第3楽章
ロ ンド Allegro 変ホ長調 8分の6拍子 ソナタ形式


小気味よい活気溢れるリズムで 始まる。

ここでののだめのピアノは力強さと同時に、華麗さも備わっていた。
そして、ルセー ル管弦楽団が密度の高い表現でピアノを危なげなく支えている。

指揮・ピアノ・オーケストラが一体となった、人間 味溢れる重厚な演奏は、聴く人を感動の渦に巻き込んだ。

聴き手の感動の動悸そのままのように、自然にテンポが大 きく変化する。



この曲の雄大さ。

の だめの類を見ないピアノ。

完璧なオーケストラ。


こ の3つが見事にマッチしている。



そしてその頂点に立ち、全てを支配し ているのが松田幸久、その人なのだ。




松田の指揮 がこの曲の重厚な造りを隅々まで伝える。

あのドイツの鬱蒼とした森を思わせるような重苦しい感じではなく明るく 一音、一音が粒だって聞こえる。

気迫満点の剛毅で、豪快にぐいぐいと進むそのタクトさばきが、オーケストラを迷 うことなく導き、聴く者を歓喜でいっぱいにさせてくれる。



のだめのピ アノは凛とした筋肉のように、艶やかで、誇らしげで、美しいということを、まったく恥じる気配もなく、ただまっすぐに観客の心に響いていた。

優 しさも、力強さも、素直さも、決断力も、勇気も、無邪気な子供のように人間的でポジティヴな感情のすべてを全部詰め込んでいて。

長 いたてがみをなびかせた獅子のように気高い音楽……。



これぞ「皇 帝」……。




終わり近くでティンバニが同音で伴奏 する中で、ピアノがだんだんと静まっていき……そして最後の一音が鳴り響いて……そして終わった。






演 奏終了後も、会場内は不気味なほどに静まり返っていた。

まるで音1つでもたててしまったら、ガラスのようにガ シャンと壊れてしまうかのように。
今までの演奏が夢だったんじゃないかと思うくらいに観客達は不思議な空間の中にいた。
耳 に押し寄せてきていた音の洪水が一気に引いてしまって、静寂の中でどうしていいのかわからずに、ただとまどっていた。

ふ と。

誰か一人がわれに返った。

パン……パン……と静かに手を叩く。
そ の音は静まり返った場内に響き渡った。

その拍手の音を聞いて、何人かがそれにつられて拍手を送り……その音がだ んだん広がり大きくなっていき……そして。

割れんばかりの拍手が会場を埋め尽くした。
「ブ ラボーッッッ!!」
「ブラーヴァッッ!!」
声を振り絞るように、叫ぶ声が後を絶たない。

さ きほどの千秋の演奏……いや、それ以上ともいえるだろうか。

「すごい……のだめ……」

い つの間にか、Ruiが千秋の隣に来ていた。
Ruiの表情からも驚きの色が隠せない。

千秋と のコンチェルトの時ののだめとは別人だった。

「今回は、私達の……負け……かな?」
「い や……」

千秋はゆっくりと口を開いた。

「勝ち負けとか、そんなんじゃ ない……。
 ……そんなんじゃないんだ。
 俺達は俺達で作りあげた、最高の音楽を演奏した。
  そして松田さんとのだめも、最高の演奏をしたんだ。
 ……ただ、それだけだよ……」
「………」
「で も……」
「………」
「だけど……」
「………」
「やっぱりあいつ は……」

そう言いかけて千秋は、はっとして口をつぐむ。
Ruiが不審に思って、千秋の顔を 覗き込んだ。

「千秋、今、何をいいかけたの?」
「い、いや……別に……」
「嘘!。 さっき言いかけたじゃない。ちゃんと最後まで言ってヨ!!」
「どうでもいいことだし……」

千 秋は顔を少し赤くしたまま言いどもっている。

「私に感謝してるんでショ?だったら私の言うこと聞いて」

千 秋はぐっと言葉につまる。

「……言ったらお前、笑うだろ」
「笑わないヨ」
「…… 本当か?」
「絶対。神に誓って」

片手を揚げて真面目な顔をするRui。
千 秋は、しばらく迷っていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「やっぱり……だ」

小 声で聞こえない。

「何?ちゃんと大きい声で言ってくれないとわからないヨ」

千 秋は今にも海に飛びこまんばかりの死にものぐるいの表情でこう言った。

「やっぱり……あいつは……俺の天使なん だな……なんて……」

プーーーーッッッ!!。

Ruiが堪えきれずに吹 き出した。
そのまま、お腹を押さえてゲラゲラと笑い出している。

「笑わないって言っただろ うがっっ!!」

千秋は顔を真っ赤にしたまま怒った。

「だって……だっ て……まさか、千秋がそんなことを……」
「……だから言うのが嫌だったんだ……」
「て、て、天使……天使……天 使だってーーーっっ!!」
「うるさい!!何度も繰り返すな!!」
「皆が聞いたら、なんて思うか……」
「絶 対に誰にも……のだめにも、言うなよっっ!!」

千秋の怒鳴り声も虚しく、Ruiはお腹を押さえて笑い続けてい る。
それを見て千秋は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

「ひ〜苦しい……苦しいヨ 〜」

Ruiは笑い転げながら……目に手をやった。

「あんまりにも…… 可笑し過ぎて……笑い過ぎて……なんだか涙出てきちゃった……」







舞 台袖に退場したのだめと松田は、スタッフから拍手を持って迎えられた。
そしてルセール管弦楽団の皆が2人を取り囲む。

「す ごく良かったよ!!」
「もう、一時はどうなることかと思ったけど……こんな素晴らしい演奏になるなんて……」
「最 高!!」

笑顔で皆に取り囲まれながら、のだめは隣にいた松田を見上げた。
松田が優しい笑顔 でのだめを見下ろす。

「……楽しかったか?」
「ハイ!!」

の だめは満開の笑顔で頷いた。

「とても……とても……楽しかったデス!!」
「……俺もだ」
「お 客さん達にも……楽しんでもらえましたかネ……?」

松田はのだめの頭にポンと手を置くと、最上級の優しい笑顔で 言った。

「多分、そうだと思うよ」

そして、こほんと咳払いを1つしな がらこう続ける。

「それでもって、えーっと、あれだ」
「ハイ?」
「そ の……なんだ……」
「何デスか?」
「もし……良かったら……」

松田が そう言いかけた瞬間だった。

「あ、先輩!!」

のだめの顔が急にパッと 輝く。
舞台袖の方からのだめ達に向かって歩いてくる千秋とRuiを見つけたのだ。

「すいま セン、松田さん、お話は後で!!」

そう言って、のだめは人混みをかき分けると千秋に向かって、一直線に走って いった
ポツンと一人取り残された松田は、髪をくしゃっと掻き上げると苦笑した。

「あーあ、 行っちゃった」







千 秋はまさかここで、のだめが来るとは思っていなかった。
おかげでいつもならさっと交わせる筈の対応が遅れた。
の だめは全力で走ってきて、そのままの勢いで千秋の胸に威勢良く飛び込んだ。

「先輩っっっ!!」
「う わっお前……」

思わずバランスを崩して倒れ込む2人。
Ruiはそんな2人を見てくすくすと 笑いながら、その場を離れていく。
倒れた衝撃で背中をひどく打って痛みに顔をしかめる千秋。

「い…… いてててて……」
「大丈夫デスか?」

思わず心配そうに覗き込むのだめに、千秋は怒鳴った。

「大 丈夫じゃないっ!!なんでそういきなりなんだ!!」
「はうう……ごめんなさい」
「全く、お前はいつもいつ も……」
「そんなことより、先輩、のだめの演奏、どうでしたか!?」

そんなことってお 前……と言いかけて千秋は黙った。
のだめは、ぱっと花が咲いたような満開の笑顔で、目をキラキラと輝やかせながら千秋を見つめてい る。
まるで尻尾を振って喜んでいる子犬のように。
母親に誉めて欲しいとねだる子供のように。


…… 全く……こいつは……。


千秋はそんなのだめがとても愛しいと思った。

思 わずこの場で抱きしめてしまいたい衝動にかられた。

そして……自分の体の上に馬乗りになっているのだめの背中に 手を回すと、そのままぐいと引き寄せた。

「ムキャッ」

千秋の胸に倒れ 込むような形になるのだめ。

「あ、あ、あ、あの……」

これって……の だめが先輩を押し倒してるように見えてるんじゃ……。

思わず人目を気にして慌てて離れようとするけれども、千秋 の手がしっかりとのだめを抱きしめていて離れない。
横を通り過ぎる人達が、ピューピューと口笛を鳴らしひやかした。

「…… あの……」
「ん?」
「先輩……皆、見てますヨ……」
「うん」
「うん じゃなくて……その……」

困ったようなのだめの声に、千秋がしぶしぶながら少し手を緩めてくれたおかげで、のだ めは上半身を起こした。
そして改めて千秋と顔を見交わす。
千秋の瞳が優しくのだめを見つめ、そしてこう言った。

「演 奏……良かった」
「え?」
「すごく、すごく……良かった」
「本当デスか!?」

の だめはひゃっほうと叫んだ。

「じゃあ、いつか先輩ともやれますね!!」
「………」
「先 輩と一緒に、いつかみんなが楽しんでくれるようなコンサート、したいデス!!」
「………」
「絶対にしたいデ ス!!」



そうだな。


い つか……いつか……俺とお前で……。



千秋はそう言おうと思ったが、声 が出なかった。

不意に目頭が熱くなる。

このままだったら泣いてしまい そうだと思った千秋は、話題を変えた。

「それより……」
「へ?」
「お 前……この間、俺にしたこと覚えてるか?」
「したことって……」

のだめは小首を傾げ、しば らく考え込んでいたが……ポンと手を打った。

「ああ、そういえば、この間、先輩をグーで殴っちゃったんでし た!!」
「忘れてたのかよ……」

呆れてはあっと溜息をつく千秋に、のだめは千秋の頬に手を 当てた。

「ごめんなさい……痛かったデスか?」
「うん、痛かった。まだ口の中腫れてて染み る」
「あうう!!ごめんなサイ〜」
「……両方ともな」

へ?とのだめが 言う。

「えっと……のだめが殴ったのはこっち側だけですよネ……」
「……その説明は後です る。……それよりも、お前に殴られた俺は深く心が傷ついた」
「こ、心の傷デスか?」
「そうだ。どんなに俺がつら い思いをしたか、わかってるのか?」
「あうう……」
「だから、この落とし前はきっちりつけてもらうぞ」

の だめはきょとんと首を傾げた。

「落とし前って?」

千秋は何も言わず に、のだめの頭を引き寄せた。








「よ お、色男」

松田がニヤリと笑いながら壁に立っていた。

「どうも……」

千 秋はむすっとした顔でその隣に並んだ。

「口紅」
「え?……あ、ああ……」

千 秋は指で唇を拭った。
さきほど付いたばかりの口紅が指で落ちた。

「どうやら、仲直りできた ようで、おめっとさん♪」
「……どういたしまして……」

しばらくの間、並んで壁にもたれな がら2人は黙っていた。
松田が先に口を開く。

「……のだめは?」
「Rui と一緒に、最後のシュトレーゼマンの演奏をいい席で見るんだって……2人で仲良くどっかに行っちゃいました」
「はっはっは、置いてき ぼりか〜お前!!」
「……松田さんだって」
「………」

なんとも寂しい 男組だった。
その時、会場が暗くなり、演奏前を知らせるブザーが鳴った。
いよいよ、最後の演目であるシュトレー ゼマンの演奏が始まるのだ。
観客達は世界のマエストロの演奏に、期待で胸を膨らませている。
舞台ではマルレオケ の団員達が現れ指定の位置につき、次にシモンが、最後にシュトレーゼマンが入場した。
今までにないくらい盛大な拍手でもって、今回の 音楽祭の主役が迎えられる。

「俺も……お前も……最終的に目指すのはあそこだぜ」

松 田が顎でステージを指した。

「……わかってます」

千秋もゆっくりと頷 いた。

シュトレーゼマンが観客に向かって一礼すると、よりいっそう大きな歓声が会場を包む。

「そ ういえば、シュトレーゼマン、何の曲するんだっけ?プログラムにのってなかったし……お前、知ってる?」
「……いえ、サプライズだっ てことだったので……何も知りません」

そう言いながら千秋は舞台に目を向けて異変に気づいた。
何 故か、マルレオケのメンバーが……シモンが特にすごく渋い顔をしている。

……なんだ?いったい何が始まるん だ……?。

そして。

マエストロ・シュトレーゼマンのタクトが振り下ろ されて……。


……… ……… ………


「…… なんだ、この曲……聞いたことないぞ」

松田が流れる曲に耳を傾けると、怪訝そうな顔をした。
千 秋は溜息をついてがくっと肩を落とす。


まさか……最後の最後で、この曲をするとは……。


そ う、今、流れているこれは。




フランツ・フォン・ シュトレーゼマン作曲

「ミーナの涙は玉虫色」





満 足そうに指揮を最後まで続けたシュトレーゼマンだったが、最後には観客からのブーイングの嵐だった。

こうして、 華麗なる音楽祭の幕が閉じた。









終 わり。

(参考にさせていただいたサイトです)
http://www.lfj.jp/lfj_2008/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC20%E7%95%AA_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)