天国と地獄〜松田 幸久氏の場合
木枯らし吹く秋のパ リ。
その美しい街並みの 中、とあるカフェで優雅にエスプレッソを啜る黒髪の男がいた。
この男の名は松田幸 久。(未だ独身)
現在日本を中心に活 躍する若手No.1と謳われる指揮者であることは周知の通 り。
たまたまこちらで仕 事があり、無事にそれを終え、今日はオフということもありのんびり惰眠を貪り、いい加減空腹も覚えたのでこうやってカフェまで出向いてきたという訳だ。
食欲も満たし、気分 よく食後のエスプレッソを口に運ぶ様は、端正な顔立ちの上、東洋人特有の神秘的な雰囲気を醸し出しており、時折店内の女性の視線を集めている。
本人もそれは重々承 知しているらしく、自分好みの女性がいると分かれば遠慮せず声をかけるのだが、今日は残念ながら食指が動くような人物は見当たらないようだった。
そんな落ち着いた午 後を松田が過ごしていると。
店のドアが軽やかな 音を立てて開き、外からの冷たい風と共にこの場にそぐわない「せんぱーい!」という、やたら元気の良い「日本語」が店内に響き渡った。
・・・・ん?この声 は?
松田にはその声に心 当たりがあった。指揮者という職業柄、音の記憶には自信がある。
もう随分前になるが 忘れもしない、衝撃の「出会い」。
初対面だというのに 自分の下半身を見て、その癖自分には何も見せなかった女。
松田はそっと声のし た方向を覗き見て、自分の予想が当たったことを知った。
そこには記憶と寸分 違わぬ満面の笑みを湛えた女性が店内に入ってきたところで。
やっぱり、千秋の彼 女じゃん・・・。
名前はなんてったっ け?・・・変態ちゃんじゃなくて・・・でもこうして見ると結構かわいいか?などと記憶を掘り起こすのだが思いだせない。しかしあることに気が付いて、確認 の為少しだけ椅子から腰を浮かせた。
少々間抜けな格好の まま、彼女の視線の先を一緒に追い、思わず口元が緩んだ。
狭い店内の中、彼女 はたった数メートルの距離すらもどかしいようで、その場所へと急ぐ。
当然彼女を待ってい る人物は「先輩」と呼ばれた人物一人しかいない。
松田曰く「生意気な 後輩」千秋真一、その人であった。
久し振りに見る千秋 は少し眉間に皺を寄せ、「おせーよ」と急いできた彼女に向かって文句を言っていた。偉そうな物言いである。
跳ねた黒髪をさらり と揺らし、手にした読みかけの本を音を立てて閉じ、彼女に座るように促す。それに従い彼女は千秋の向いに腰掛け、一見不機嫌そうな千秋に全く構わず嬉しそ うに話しかけ始めた。
すると少し照れたよ うな表情に変わり、薄く笑みを零しながら彼女の問いかけに頷く。
何よりも雰囲気が柔 らかい。
松田は「こいつ、こ んな顔もするのか」と意外に思いつつ、同時に心の底でガッツポーズを作り、普段は全く信じていない神様とやらに心から感謝をした。
神様、オレにご褒美 をありがとう!(違う)
あのくそ生意気な後 輩はどういう訳か、自分より「運」に恵まれているらしく順調にキャリアを積み、その才能を更に伸ばしつつある。
日本にいても様々な 所から流れてくる情報を聞いてはムカついてきたのだ。
松田はこっそり様子 を窺いつつ、けっ、と舌打ちした。
今日はあの変態彼女 と一緒。何だよ、結局いちゃいちゃしてんじゃねーか、甘〜い顔しやがって本当腹立つなあいつ、さて、どうしてやろうか、などと松田は心の中で毒を吐きなが ら考えた。
神は今日というこの 良き日に自分にチャンスを与えてくれた。
無論、逃す手はな い。
これをネタにして遊 んでやるのだ。
見てろよ、このお ぼっちゃまめ。
松田の頭の中は優秀 なコンピューターの如く高速回転し始めた。
そしてもっとよく二 人の会話が聞き取れる場所に移動しようと、こそこそと周囲を見回したのだが、こういう時に限って上手い具合に席が空いていない。
それでも諦めきれず にキョロキョロと視線を彷徨わせていると。
一人の金髪女性と目 が合った。
松田はお、と思いつ つ、いつもの習慣でその女性をじっと見つめた。
すると女性はしっか り視線を合わせ、艶やかに微笑み返してくる。
これはもしかしてオ レに神様からのもうひとつのご褒美・・・?
店内をチェックした と思っていたが見落としがあったらしい。
細見だが出るとこは 出ている自分好みの妙齢の美女。
しかも彼女が座る場 所はあの二人の様子をこっそり窺うには絶好のポイント。
恐らく自分がそこに いてもすぐに気付かれることはないだろうと、様々な黒い計算が瞬時に弾きだされ、次の瞬間松田は躊躇することなくその女性の席へ歩み寄った。
金髪の美女は艶やか な微笑みを保ち、松田を誘惑するかのように足を組み直す。
その脚線の美しさに 思わず見とれ、松田は「これは一石二鳥かも?」などとあらぬ妄想を抱きつつ、こちらも負けじとにっこりその女性に微笑み返した。
「こんにちは。こ こ、いい?」
「ええ、勿論よ。」
ちょっと低めのハス キーボイスがやけに色っぽい。
きっちりと着こなし た濃いグレーのミニのスーツがそのボディラインをより一層際立たせてついついその中身までも想像しそうになる。
松田は気付かれない ように深呼吸し、この席に移る表向きの理由を簡単に説明した。
「じゃあ、あそこに いるのはあなたの後輩なの?」
「そう。まだまだひ よっこだけどね。でも何かとオレを頼ってきてるし(嘘)オレも頼られるとイヤと言えないし。(更に嘘)彼女と一緒みたいだからちょっと遠慮しとこうかと 思って。まあ、最後に挨拶くらいしたいから二人の様子をもっと知りたくてここの席に思わず来ちゃった訳だけど」
「まあ。それなら私 はあの二人に感謝しなくてはいけないわね」
「何故?」
「だってあなたをこ こまで連れて来てくれたんだもの」
ね?と軽くウインク し松田に向ける笑みは何とも挑発的だ。
さらりと「オレのほ うこそ感謝しなくちゃね」と答え、松田はヒットがホームランに化けた、と確信した。
最早千秋とその彼女 のことなどどうでも良くなってきている。
たまに耳に入る会話 は後日必要になるだろうから聞いているものの(現在離れて暮らしており、今日は久々のデートで、更に彼女の家に泊まるらしい、というところまではしっかり 聞いた)脳内は既に目の前の美女に集中すべくフル活動だ。
そして彼女から放た れる魅惑的な香り。
「もしかしてジパン シィ?」
「正解。良く分かっ たわね?」
「そりゃいい女が身 に付けてるもの位判別できなきゃね」
「ふふ。褒められて いると受け取っていいのかしら?」
美しいポーズで頬づ えをつき、首に巻いたスカーフを弄びながら彼女は微笑む。
良し、いい調子だ。
松田は生意気な後輩 のことはさっさと頭から追い出し、目の前の美女に意味ありげな視線を送り「今日の予定は?」と尋ねた。
「あらいいの?彼ら に挨拶するんじゃなかった?」
「いいさ、元々約束 してる訳じゃなかったし」
「でも折角なのに」
「いいんだ。これか ら君を食事に誘おうとしてるんだから」
勿論その後も。
お互い合意の笑みを 交わし長居は無用とばかりに席を立つ。
立ち上がると、彼女 がごく自然に自分に腕を絡めてきて、松田はその温かな感触をじっくり味わった。
当初の目的だった二 人組はまだ席に座っており、楽しげに会話を続けている。
あの無愛想な後輩が こうまで普段と違う表情を浮かべるのを、松田は驚くと同時にいいネタを手に入れた、と満足した。峰にでも教えておけば更に面白いことになりそうだ。
松田はほくそ笑みな がら、隣の美女を見つめる。
見つめ返す瞳が妖し い光を放ち、やっぱり自分の隣にはこういう美女が似合う、と満足気に笑った。
ザマみろ千秋。所詮 オレとお前じゃ女一つ取ってもこう差が出るんだよ。
松田は天国にでもい るかのように気分が良かった。
「さてまだ食事には 早いな。どうしたい?」
「そうね。では私の オススメコースなんてどう?」
「いいね。どういう プランなのかな?」
「それは内緒。でも 損はさせないわよ?」
自信に満ちた笑顔は 極上の誘惑。
松田は彼女の言うと おりにしてみようと思い、千秋たちの傍を通り過ぎていく。
これだけ至近距離だ というのに千秋たちは松田に全く気付く気配がない。
ふん、せいぜいそっ ちはそっちで楽しめ。
写メでも撮って証拠 を押さえておきたいところだが、今回はパスだ。
しかしあいつら、こ んなに近くにいるオレ様に気付かないなんてどんだけバカップルだ?と心の中で突っ込みつつ、松田は片手に美女を携え意気揚揚と足を出口に向けた。
*****
のだめが何気なく出 口に視線を移すと、そこには見覚えのある黒髪の男性がいた。
そしてその隣には。
「あ!」
「何だよ、突然」
のだめが突然小さく 叫ぶので千秋は驚く。
のだめは大きな瞳を 更に見開いて、外を指差しながら千秋に説明し始めた。
「先輩、今出て行っ た人、松田さんじゃないデスか?ほら、ズボンを下さないと小出来ない人!」
「お前はどんな覚え 方してんだよ・・・。げ、本当だ。何でこんなとこいるんだよ、あの人」
「でも松田さんと一 緒にいるヒトー」
「あー、新しい恋人 なんじゃねーの?いかにもあの人が好きそうな・・・」
「松田さんってあー ゆーヒトが好みなんデスか?あのヒト男ですよ?」
「・・・は?」
「だから、オ・ト・ コ!ニューハーフ(?)ってヤツですよv」
この前ターニャと一 緒にここに来た時教えて貰ったんです、最近この辺で有名らしいですよ?「彼女」。
お相手を物色しによ く来てるって。
先輩も気を付けて下 サイね?
のだめの説明に千秋 はしばし固まった。
あれが「男」?
・・・嘘だ。
「・・・オレは何に も見てない」(目逸らし)
「もう、何言ってる んデスか?先輩教えてあげたほうがいいんじゃないですかー?」
「なんでオレ が・・・。大人なんだからいざとなったら(?)自分で何とかするだろ」
「えー、先輩つめ たーい」
「うるせー。そんな こと言うなら今日の晩メシ抜きにするぞ?」
「ぎゃぼ!?嘘デス 嘘デス!のだめ何にも言ってませんから!ごめんなさい!」
だから今日は呪文料 理でお願いしマスvと、この話題は二人の間で今日の夕飯より価値が低かったらしく、即座に打ち切られた。
松田のその後を知る のは・・・神のみぞ知る、ということらしい。
2008/10/23