君。
……
すごくキレイだ。
「声」
が。
そ
う言ってくれたのはそれまでろくに話もしたことがない男の子だった。
独特の雰囲
気があって無口で、いつも人と距離を置くようにしていたクラスメイト。
きっと私
はあの瞬間に恋に堕ちたに違いない。
「真
一!ヒマだったらお茶してかない?」
桃ヶ丘音大 学園祭・
前夜祭で友達とともに、生徒の出店にしてはけっこういけるクレープを食べていた私は、
た
またまそこを通りかかった真一を見つけて声をかけた。
「い
い……オレ、もう帰るところだし」
一緒にいた友達が「あい
た〜。ふられた……」と呟くのが聞こえる。
いいじゃないの
よ。別に
私と真一は確かに別れてしまってもう恋人同士じゃないけれども、今はお
互いに尊重しあっていい「友人関係」なんだから。
お茶くらい誘うのも当たり前で
しょう。
そうは思いつつも、私は悔しくなって真一の後を追
いかけた。
「ちょっと待ってよ、もおっ!最近本当に冷たい
んだから!」
私は真一に追いつくと横に並んで歩調を合わせ
た。
別に私が隣に来たからといって、気を使って歩くスピードを全く落とすことな
どせずに歩き続ける真一。
まるでお前にかまってる暇なんてないとでもいうよう
に。
本当に……冷たい。
以
前だったら、なんのかんの言いながらも私の歩く速さに合わせてくれてたのに。
シュ
トレーゼマンとの共演前で緊張してるんだろうか。
そ
れとも……誰か新しい彼女でも出来たのかな……。
そ
んな考えが一瞬、頭に浮かんだんだけど、私はそれを打ち消すようにぶんぶんと頭を振った。
そ
んな訳ない。
絶対にありえない。
確
かに真一は見た目がいいから昔から女の子にもててたけど、実際の彼の態度の冷たさを知るとみんな離れて行った。
優
しくない訳ではない。
外国暮らしもしていたから女性の扱い方はとても丁寧だ。
だ
けど、彼は彼自身の心に……何かピンとバリアみたいなものを張っていて……他人をある一定以上は寄せ付けないようにしていた。
今
まで誰一人として彼の心の中に踏み込めた人間はいない。
……そして私も。
「ね
え。最終日にピアノ協奏曲やるんですって!?」
「……ああ」
「江
藤先生にきらわれてからピアノ科じゃもうダメかと思ったけど……良かったわね」
「……」
「す
ごいわ。いつのまにかシュトレーゼマンの弟子にまでなっちゃってるし……ホント」
私
は真一を見上げた。
久しぶりに会う彼は……自信に満ちあふれていて私の目にはキ
ラキラと眩しく映る。
「なんか……急に遠くに行っちゃった
みたいな……」
「べつに。そんな変わったことないよ」
「ふー
ん……」
本人はそう言うけど……確かに彼は変わった。
一
年前の「もう……音楽やめようかな……」と言っていたあの投げやりな態度はもうどこにも残っていない。
「あ」
そ
うだ。
「わたしもあしたオペラで舞台でるのよ」
「え?」
「見
に来てよ」
「オペ研の?なにやるの?」
「コ
シ・ファン・トゥッテ」
「モーツァルトか」
「10
時からで早いけど、絶対に見に来て!」
私は何故こんなに必
死になって真一の気を引こうとしているのだろう。
「わた
し、今絶好調なんだから!」
言うだけのことを言ってしまう
と、なんだかすごく恥ずかしくなって「じゃあね」ってその場を去ってしまった。
真
一の返事を聞くのが怖かっただけなのかもしれない。
……
真一……見に来てくれるかな。
見に来
て欲しいと……心から思った。
今の真一の勢いにはけっして届かないかもしれない
けど、私は私なりに同じ音楽の道を頑張っていてそれなりの手応えも感じている。
そ
の姿を誰よりも一番に真一に見て欲しい。
そして認めて欲しい。
そ
して……。
もし、もう一度……私の
「声」をキレイだと言ってくれたなら。
「多賀谷楽器」のお嬢様ではない、大学の
マドンナなんかじゃない。
私というただ一人の人間を見てくれるのなら。
そ
の時は。
……も
う一度。
「確
かに、コンセルヴァトワールの試験に通ったお祝いに御飯をおごってあげるとは言ったけどね……」
す
ごい勢いで目の前の皿が瞬く間に空になっていく人物を見て、私は深くため息をついた。
「な
んで、よりにもよってケーキバイキングなのよ!!」
「ーあれ?彩子さん、ケーキ
嫌いデスか?」
口いっぱいにケーキを頬張りながらのだめは
不思議そうに言った。
「別に……嫌いじゃないけど、いっぺ
んにそんなにケーキばかり食べられないわよ!」
「いいじゃないデスか〜。のだ
め、ケーキだったら何個でも食べられマス」
確かにもう5個
以上は食べている。
「だから……なんで俺までつき合わない
といけないんだ……」
ぶすっと機嫌が悪そうな顔をしてコー
ヒーしか飲んでないのは……真一。
前におかれた苺のミルフィーユは手つかずのま
まだ。
「だって、いつも一緒にいるじゃない。もうセットで
しょう、あなた達」
「別に好きでセットになってる訳じゃねえ!。こいつが勝手に
ひっついてくるだけだ!」
「ハイハイ」
私
は軽く受け流す。
もうすぐ2人で仲良くパリに留学するっていうのに、この男はい
つまでも何を言ってるんだと思う。
聞くところによると、わざわざ福岡にまで迎え
に行ったらしいじゃないのよ。
まったく、往生際が悪いったらありゃしない。
「そ
ういえば……彩子」
「何?」
「最
近すごく上達が著しいらしいな。以前のようなお姫様一辺倒じゃなく、大胆に感情豊かになって演技力も素晴らしくなったって
先
生達の間で噂になってるらしいぞ」
「ふうん」
「ー
何かあったのか?」
「……さあ」
ー
別に、もう私なんかの心境の変化に心を及ばせなくったっていいわよ。
あんたは、
自分の愛する音楽と、目の前で口の周り中にクリームをつけている女の子のことだけ考えてればいいのよ。
ま
あ……だけど。
全然気にかけてもらえないってのもちょっと寂しいし……。
た
まには思い出してもらわないと困るけど。
「彩
子さん、そのショコラ・トルテ、食べないんだったらのだめにくだサイ」
私
の皿に伸びてきたのだめの手をばしっと叩く。
「はぅ〜」
「こ
れは私のよ!。あんた、まだ食べたいんだったら取りに行けばいいでしょう!」
「ハ
イ……」
しゅんとなってすごすごと引き下がり、席を立って
ケーキを取りに行こうとするのだめを真一が引き止めた。
「の
だめ」
「ハイ?」
「口
にクリームついてる。みっともねえ」
そう言って真一はテー
ブルにあったナプキンでのだめの口の周りを拭った。
そのしぐさが……なんだかと
ても自然で、2人の関係を物語ってるみたいで、私は思わず固まってしまった。
あ
の〜。私のわざわざ目の前で見せつけなくってもいいと思うんだけど。
一応振られ
た身だし……。
真一は、私の視線に気づくと少し顔を赤らめる。
の
だめは目をぱちくりとさせたまま、真一にされるがままだったが……急に口を開いた。
「先
輩……」
「なんだ?」
「先
輩って……先輩って……」
そしてのだ
めはにっこりと笑った。
「お父さんみ
たいですネ!!」
「………」
「………」
「真
一って……お父さん役?」
「……その、哀れなものを見る目つきで俺を見るのはや
めろ……」
全く、もうやってられない
わ……。
私は軽くため息をついた。
早
くパリでもどこでも行っちゃってちょうだい。
そして……世界的な指揮者とピアニ
ストのゴールデンコンビという二人の夢を必ず実現させてよね。
あ
の頃、毎日のように彼を想って泣きあかした夜はもう二度とくることはない。
それ
でいいと思う。
今は、二人の新しい旅立ちを本当に心から喜べる。
そ
んな自分になれたことがとても嬉しい。
私
はここでちゃんと頑張るから。
あなた達がどんなに遠く離れたところにいても、世
界中のどこにいようとも、この声が届くように一生懸命に歌い続けるから。
あ
なた達はあなた達の道をまっすぐに行きなさい。
私は私の道を行くから。
「あー、
そうしたらですネ」
のだめがまだ何か
言ってる。
「彩子さんはのだめのお母
さんですネ!!」
「………」
「………」
「ぎゃ
ぼーっ……彩子さん、何でのだめの首をしめるんデスか!」
「うるさい!!何で私
がお母さんなのよ!……こんなうら若き乙女をつかまえて!!冗談じゃないわよ!!」
「お
い、彩子……人が見てるって……」
終
わり。