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& nbsp; 貴方はとっても優しい…でも、私はとっても淋しいの。

 恋人達の密やかな時間。まどろみの中で 聞えたのは、ため息にも似た嘆きだった…。



 冬に差しかかろう としたパリの街は凍えるような寒さだ。ここ何日か雨続きで、今日も朝から冷たい雨が降っていた。カフェのガラス窓を次々に打ち付ける雨粒。悲しそうに濡れ ている姿はあの時の恋人の瞳に似ている。熱い濃い目のエズプレッソの前には2枚のチケット。1枚は使いそうもない。
 街の中心地から 少し奥まったこの場所は、人も少なくとても静かだ。この天候だからか店内の客は僕の他には初老の紳士が難しそうな顔で新聞を読んでいるだけだ。僕はジャ ケットの袖を少し上げて時計を見た。もうそろそろ向かわないと。

 今日聴きに行くのは、マイナーな遅咲きのピア ニストの小さなコンサート。華やかさはないのだが、誠実で優しい音を奏でる。演奏を偶然耳にした時から気になる存在となり、以来、都合のつく限り足を運ん でいた。
様々な人生経験が音楽に彩りを与え、人の心を包み込むような力を持っている。若き天才ピアニストとして早くからスポットを浴 びた自分とは正反対の生き方。浴びせられるスポットライトの光に疲れを感じていた今、この音に何かを求めているのかもしれない。
 大 切な人に喜んでもらえると思って入手したチケット。今日は3日前に僕の元を去って行った恋人の誕生日だった。

 
  自分の思う通りに道は開いた。自分の計画の通りに、怖いくらい順調に進んでいった。しかし、いつも心の中で呟いていた。こんな事を僕は望んでいたの?

  たくさんの出会もあった。もちろん、いろいろな女性とも…。数々の恋愛を経験した。軽いものも深いものもあった。彼女達には精一杯の誠意を示してきたと思 う。一緒に過ごせる時間は短いからこそ、一緒にいる時間は最上の時間を作ろうと努力してきたはずだ。

 今回だっ て…たぶん今まで付き合ってきた女性の中で…一番に愛せた思う。初めて先の事も考えた。だから…

   でも、私 はとっても淋しいの。

 
  水を抱くようだ…って言われたのは最初に付き合った女性の言葉。心は常に別の所にさ迷っていて、それが見えないって…。自分でもいつもどこかに虚しさを感 じていた。たくさんの賛辞も心を通り過ぎていく。心の底から笑えたのはいつの事だっけ。身体の芯から湧き上がってくる喜びを感じたのはいつだっけ。心にす んなりと入ってくるあの優しい声を聞けていたのはいつだっけ。

 「リュカ」

  彼のピアノはやはり心に染み渡ってくる。優 しい旋律の奥に感じる人の苦しみや悲しみの歴史。ちょっと涙ぐむ。決して知名度は高くないが、彼のピアノを慕ってやまないコアなファンがいて、その人たち が彼を支えている。全ての演目を終えこちらに向けた笑顔はとっても眩しかった。


 演奏が終 わり、観客が次々と会場を出ていく。人 の流れが収まるのを見計らって席を立つ。「よかったわね。」と彼への数々賛辞の声を耳にしながら赤いじゅうたんの上をうつむきながら歩いた。人気がまばら になったエントランス。出口を目前にした時、一人の女性に目が向かった。
 クロークからコートを受け取っている女性。短く揃えられた 栗色のボブカットの頭に、露わになった白く長い腕。そして…彼女が振り返った。

「のだめ。」

  久しぶり口に出すこの言葉。のだめは僕に気がつくと、一瞬目を丸くして、でも、すぐに満面の笑みを向けてくれた。
「リュカ。久しぶり ですね〜。」
 彼女は細く高いピンヒールの靴を器用に操作してこちらへ駆け寄ってきた。シンプルな黒のロングドレス。所々に黒い蝶の 刺繍が施してある。確か30代半ばであるのだが、肌の美しさは相変わらずで、よく似合っていた。
 久しぶり…10年ぶりに見た彼女 は、あの頃よりぐっと大人っぽかった。でも、表情とかクセとかはあの頃と同じで、僕は心底ほっとした。
「いつ、パリに戻ってきた の?」
「えと、3ヶ月前です。」
  音楽院を卒業して彼女は単身フランスを離れた。半年くらいはカードのやり取りなど交流があったのだが、ある時を境にまったく音信不通となった。僕自身も目 まぐるしい環境の変化に振り回され、自分の事だけで精一杯の時だったので、そのままの状態で月日だけが過ぎていった。。
 風の噂で彼 女が友人間で行方知らずになっている事、恋人だった男が探しているという話を耳にした。ピアノさえ続けていれば、いつかどこかで必ず再会できるという心の 奥にしまっていた期待が、深い闇の中へとパラパラと落ちていく…そんな気分だった。
  一度だけ、彼女の恋人だった男の姿を見た事がある。どこだっけ?確かパリのオペラ座。その時、男の横にいたのは彼女ではなく別の女性だった。微笑みながら 会話していながらも、あいつの目は僕と同じような何かを失ったような目をしていたのが強く印象に残っていた。のだめと彼との間に何があったのかは知らない が、彼女はあんなに愛していた男のもとからも飛び出していたのだ。もう、彼女には…彼女の音楽を聴くことはできないのだろうか…そんな絶望に似た悲しみを 深く感じるのだった。

 しかし彼女は音楽を続けていた。僕たちの目の前から姿を消してから5年後、パリで遅いデ ビューを果たした。強烈な 個性と一瞬にして人の心を掴み取る音。それはセンセーショナルなニュースとなって音楽界に伝わり、一気に注目を浴びるようになった。ただ、彼女の活動スタ イルは独特で、それは事務所の考えなのか、正体をはっきりとは明かされずミステリアスな演奏家として広まっていった。神秘性を前面に売り出せば売り出すほ ど、僕と彼女の間はどんどん距離が離れていくように感じる…。ピアノを弾けば弾くほど離れていくという現実はとても寂しく思えた。

「今 日は一人なの?」
「はい。素晴らしい演奏家がいるという話を耳にしたので聴きに来ました。素敵でした〜。」
はう 〜っと満足そうに息をつく姿はあの頃のままで、嬉しくなった。
「リュカもひとりなんですか?」
「ま、まあね。成 り行きで…。」
ちょっとバツの悪そうな感じで目を逸らしながら言った。のだめはふっと優しい笑みをこぼした。
「そ うそう、去年のイタリアでのリュカの演奏。実は聴きに行ったんですよ。」
「ええっ。そうなの。」
「はい。とって もセクシーでしたよ。うきゅきゅ。」
意外だった。僕の演奏をわざわざ聴きに来てくれているなんて、思いもよらなかった。
「イ タリアにいたの?去年は。」
「はい、でも3ヶ月くらいでした。その後、しばらく日本に帰っていたんです。」
「そ う言えば、最近活動していないの?」
もともと不定期に活動しているので不思議ではないのだが、ここ1年くらいは表立った動きはなかっ たはずだ。
「そうですね〜。あ、細かいのはちょこちょこやっているんですよ。この前は久しぶりに大勢の前でピアノ弾きました。やっぱ り、人に聴いてもらえるのって幸せですよね。」
無邪気に微笑む彼女の笑顔に心の中の冷たい塊が解けていくように思えた。

  人に聴いてもらうのが幸せ…そんな、当たり前の事を僕は忘れていたんだ…。

 なんでだろう。彼女の声は心に素直 に届く。音楽院に通っていた時の素直で真っ直ぐな気持ちが蘇ってくる。音楽への情熱も、これからの未来も、何もかも真っ直ぐだったあの頃…そして、彼女へ の想いも…。

 あの日も雨が降っていた。

  こんな冷たい雨ではなく、夏の潤う雨。学校の最後の日、僕はこの人を抱きしめた。僕の想いは結局口に出せず、腕の力に気持ちを込めた。さよならの抱擁。そ れで僕は自分の気持ちに終止符を打った。のだめはただ立ったまま宙を眺めていて、生い茂る葉にあたる雨のポツポツと言う音だけが聞えていた。
  そう、これで最後にしようと思った。どんなに想っても彼女の心の先には別の男がいるのだから。僕の気持ちなんて邪魔なだけだ。彼女の事が本当に好きだから こそ僕の想いは葬り去る。それが僕の誠意だと思った。
 そんな僕をのだめは見上げて、ちょっと困ったような目をしながらも微笑んで僕 に言ったんだ。
 
 「さようなら。」

 思えばその時、僕の心のどこか がパリンと割れてしまった気がした。

「リュカは今度はどこに行くのですか?前回のヨーロッパツアーも好評だった んですよね。今やクラッシク界を賑やかす存在じゃないですか〜。」
まったく邪気のない笑顔でそういう。
「…ん、 ちょっと考える事あって…。」
彼女は茶色い大きな瞳で僕の目をみつめた。
「何かあったんですか?」
「ん 〜、手詰まりって言うか、ちょっと迷走中…なのかな…。」
その時僕が見たのは、深紅の口紅がきれいに塗られた唇を尖がらせる懐かしい のだめの表情(かお)だった。
「若き天才ピアニストも悩むのですね〜。」
へえ〜って真顔で感心するのだめ。
「そ りゃあ、そうだよ。それにもう若くないし…。」
のだめは顔を横にして下から僕の方を眺めた。
「どうしたんです か?」
真ん丸な澄んだ茶色の瞳…。
「…のだめは、何していたのずっと。」
そう、ずっと知り たかった。皆の前から姿を消している間、皆が探し回っている間、どこで何をしていたの?
彼女はふっと微笑んで、静かに言った。
「の だめは…のだめはずっとピアノを弾いていましたよ。」
「ずっと…。」
「そうですよ。のだめのピアノを聴きたいと いう人の所で弾いていました。世界中、いろんな所に行きました。」
「世界中…。」
僕の頭の中であの頃ののだめが 蘇った。楽しそうに唇を尖らせながらピアノを弾いている…そんな姿。
「たくさんの音楽やたくさんの人と出会いましたよ。今度ゆっくり 話したいですね。」
そう言ってにっこりと笑顔をみせた。
「リュカだって、そうですよね。世界中回って、たくさん の出会いがあって、たくさんの音楽と出会って…。」
たくさんの出会い…か。確かにいろいろな経験をしてきた。でも、そうやって経験す るたびに感じる自分の無力さ、自分の小ささを思い知らされた。
「変に持ち上げられたから、ちょっと舞い上がっていたのかも…。」
独 り言のように宙に向かって言った。
「実はもう一度学校に通って、勉強し直したいと思っているんだ。もう一度、自分自身を見直したいん だ。」
口から出た自分の言葉を聞いて、自分の本心が見えた気がした。
のだめは一瞬目を丸くした。
「ふ おお、さすがリュカはお勉強熱心ですね〜。」

  何だか本当に気持ちが楽になった気がして、久しぶりにおなかの底から笑うことができた。なんだ彼女は全然変わっていない。学校に通っていた頃と何も変わっ てやいないんだ。僕が勝手に気持ちを盛り上げて、勝手に失恋していたとしても、天才美青年ピアニストとして世間を騒がしていたとしても、彼女にとっては僕 はあの頃の僕と同じなんだ。
 そして、彼女は世間がミステリアスなピアニストだとか、何だろうと勝手に騒いだとしても、いつものよう に唇を尖らせてピアノに向かって楽しく音を鳴らし続けている。聴いてくれる人がいれば喜んでピアノを引き続けている。

  そんな彼女を僕はやっぱり愛しいと思う。

 あの時、無理やり葬ろうとしたけど、他の人を同じように愛そうとした けど、やはりこの気持ちは消す事はできない。
  音楽への情熱も探求も見失っていた。世間の評判やら、期待やら、いつの間にか囚われ振り回されていた。でも、僕が夢中になって求めたものはこれではないん だ。音楽を懸命になって追い求めていたあの頃の気持ち、音楽院のカフェテリアで誇らしげにのだめに語っていたあの頃の気持ち、それこそが僕の求めている事 なんだ。

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「ねえ、のだめ。この 後どうするの。」
のだめは手に持っていたチャコールグレーのロングコートを羽織りながら、外の方を気にしていた。
「あ、 帰ります。もうすぐ迎えに来てくれるはずなんですけど…。」
と言って、コートのボタンを上から留めていった。よく見ると左手の薬指に は、肌に馴染んでしまうくらい細い指輪が天井のライトを反射させてキラキラと光っていた。自己主張しないシンプルなそれはピアノ弾きの彼女を思っての事で 選ばれたのであろう。
「もうそろそろ限界ですよね。おっぱいあげないといけないですし…。」
そう言った彼女の表 情は急に優しく暖かな笑顔に変わった。

 
「そうか…。」
 正直ちょっ と…がっかりした。でも、今日会えて本当に良かったと心の底から思う。
携帯電話のバイブレーションの低い音がすると、彼女は小さな箱 型のバッグの中からそれを取り出し画面を確認した。
「じゃあ、リュカ。帰りますね。…あ、さっきの話、のだめはとってもいいと思いま すよ。ますますパワーアップですね。」
「うん。ありがとう。」
「では、また会いましょう。」
そ う言ってハグを交わし僕達は別れた。
 ガラス越しに、彼女を迎えに傘をさした黒いコートの長身の男を見た。彼女はその男を嬉しそうに 見上げると、傘を持つ腕に手を添えた。ああ、この光景も10年ぶりか…。僕はふっと微笑んだ。


  クロークから傘とコートを受け取り、コートの袖を通す。雨はだいぶ小降りになっているが、風が冷たい。僕はコートの衿を立て傘は閉じたまま、少し早歩きで 大通りに向かって歩き出した。
                              






  fin