のだめは真っ白な空間の中をただ一人で漂っていた。
そこは見渡してもどこにも人影がなく、物音一つしない不思議な空間。
体中がふわふわして宙に浮いて、それとともに頭の中にもぼんやりと霧がかかっている。


……のだめ……死んじゃったんですかネ。


まあ、それもいいかなとのだめは思った。
こんなにもこの世界はふわふわして気持ちがよくて、心もとても穏やかで……つらいこと悲しいこと何も考えずにすんで。
このままの状態でここに閉じこもっていたらとても楽になれるような気がした。
仕事も楽しくて、桃ヶ丘署のメンバーも皆大好きで、毎日毎日をずっと楽しく過ごして何も問題なんてないように思ってたんだけど。

もしかして、自分は、自分が思ったよりよっぽど疲れていたのかな。
2年前のつらい出来事に蓋をして、思い出さないようにずっとずっと隠して、ずっとずっと無理してたんじゃないのかな。

もう何もしたくない。
このまま一人ぼっちでここにいたい。

……前にもこんな風に思ったことがあったような気がする。

そう、あの時は確か黒木くんがいてくれて。
毎日毎日、病院に顔を見せに来てくれて、のだめの好きなお菓子や花束を抱えてきてくれて……。
でもその黒木くんも遠くに行ってしまった。
誰もいなくなってしまった。


……のだめはまた一人ぼっちデス。


もういいじゃないのかな。
これ以上にないくらい、じゅうぶんすぎるくらい、一生懸命やったのじゃないかな。
神様、ごめんなさい。
もうとてもとても疲れちゃったんです。


ああ、だけど……。


だけど、出来ることなら最後にもう一度……あの人に会いたかったな……。


あれ?あの人って誰のことだっけ。



のだめが首をかしげていると、前方からお祭りのような賑やかな音がする。
思わず前方に目を凝らすと、そこには「変態の森」と書かれた看板が見えた。
そこにはプリリン、ごろ太、カズオ、そして何故かマングースがいて、のだめに向かって手招きしている。

「ムッキャーーーーッッ!!プリごろ太デス!!」

そうして、喜び勇んでそちらの方へ向かおうと一歩足を踏み出した時。



……のだめ。



誰かが自分の名前を呼んでいるような気がする。
どこかで聞いたことのある声。
のだめは振り返った。

後ろには一人の人物が立っていた。


霧でもやがかかって、その顔ははっきりとは見えないが……あれは……あの長身は……。


「………!!」


のだめは叫んだ。





千秋は、警察病院内の廊下を一人でカツカツと歩いていた。
面会時間を過ぎているせいか、廊下に他に人影は見あたらない。
そして、千秋はある病室の前で立ち止まると、しばし考え込み、ため息を小さくついてから静かにそのドアを開けた。

色あせたベージュ色の天井が見える。
病院のこの天井は、幼かった子供の頃はもっと高かったはずだ。
あの頃よりもかなり背が伸びた今では、この部屋の天井が今にも落下しそうなほど不安定で重くのしかかっているように思えるのは気のせいだろうか。
…この病室特有の匂いは…静まり返ったこの雰囲気は嫌いだ。
大好きだった祖父が亡くなった時のことを思い出す。
あの時は、せわしなく動く看護婦、息を詰めて見守る親族達、状況がよくわかっていないまま祖父が最後の時を迎えるのを黙ってみていることしかできなかった幼い頃の自分。
そしてあの事務的な医者の抑揚のない言葉。

「ご臨終です」

だから大嫌いだ。
こんなところに二度と来るもんかと思っていたのに。

中央のベッドには、のだめが横たわっていた。
その顔は、白く青ざめていて、まるでたちの悪い人形のように見える。
この間まであんなに生き生きとして飛び回っていたのが、遠い昔のことのように思えてならなかった。

のだめはたくさんの管につながれていた。
自動血圧測定器が時間毎に動くたびビクッとしていた。
着けられた呼吸器からは静かに呼吸する音が聞こえていて。。
すぐ横にある監視モニターには心電図が映り、ピ……ピ……と反応しのだめの心臓が正常に動いていることを示している。

千秋はベッドの傍らにあるパイプ椅子に座った。

「………」

しばらくずっとのだめを見つめる。

そして不意にくしゃくしゃに顔を歪めると……堪えきれずに嗚咽をもらした。
涙が次々に溢れ、拳が置かれた膝の上にぽたぽたと垂れる。
深夜の病室では、押し殺した嗚咽がしばらくの間、長く続いていた……。








「のっだめーーーーーーっっっ!!」

勢い良くバーンとドアが開いて、リュカが顔を出した。
採血中の看護婦が思い切り顔をしかめるのが可笑しくって、のだめはぷっと噴出す。

「リュカ、病院では静かに、ですヨ」

この少年にはそんなのだめの忠告も、無言で睨みつける看護婦の姿も気にならないようだ。

「だってやっと面会謝絶が解除されたんだもん。なんてったって「署長命令」だから誰も今まで来れなかったんだよ」
「そ…そうなんですか」
「当たり前です!」

むすっと笑顔を見せないまま看護婦が、片付けを始める。

「容態が安定したからって、まだまだ安静が必要なんです。
 家族以外は面会をお断りしていたんですよ。
 …それなのにあなた方なんなんですか。
 皆が皆、団体で病院の面会時間は無視するわ、不潔な埃っぽい格好で一気に押し寄せてくるわ……。
 先生から桃が丘署の方に直接、釘をさしておきました」
「いやあ、すみません…桃ヶ丘署の皆が皆、のだめがどうしても心配だったもので……つい……」

そう言いながら、ドアの外から片平、大河内、ユンロン、ドゥーンが顔を出した。

「あの事件の捜査もいまだ継続中ですし……」
「なかなか家にも帰れないものだから、着替える暇もなくて……職業柄、時間が不規則なのはしょうがないんですよ」
「だけど、あの時はのだめが意識を回復したって聞いたものだから、もう嬉しくて嬉しくて病院に気を使う余裕がなかったんだよネ」
「……皆が皆そういう訳ではないぞ」

そう言ってふんと鼻を鳴らすのはドゥーンだ。

「私は普段、キャーキャー騒いでうるさいのだめが、ベッドの上でうんうんうなっている哀れな姿をどうしても拝みたかったんだヨ」

はっはっはと笑うドゥーンを、リュカが意地悪そうな目で見あげた。

「その割には一番心配してたくせに」
「なっ……」
「知ってるよ。近所の神社にお参りに行く姿を見かけた人がいるんだ。……ドゥーンさん、カトリックじゃなかったっけ」
「いや、それは、その……」

途端に言葉につまりうろたえるドゥーン。
追い討ちをかけるように他の3人が次々に発言する。

「そういえば、最近ずっと食欲なかったですよね。いつ話しかけても上の空だったし」
「こないだなんか本店の刑事を乗せた車で、ぼんやりして事故起こしそうになって、しこたま怒られたって聞いたヨ」
「のだめちゃんが心配じゃないとすれば…アレアレ、ドゥーンさんもう年なんじゃないんですか?」
「現場引退した方がいいんじゃない?」
「貴様ら〜〜」

ドゥーンが真っ赤になって反論を怒鳴ろうとしたその時。



「 病 室 内 で は、お 静 か に 」



殺気を含んだ看護婦のドスが効いた声と般若のようなその顔に、その場にいた全員が硬直した。
知らず知らずのうちに看護婦に向かい、背中がピンと伸ばし、足を揃え直立不動の気をつけの姿勢となる。

「マナーを守らない見舞い客は、即お帰りになっていただきますから」
「は…はい、気をつけます!!」

もう一度マナーの悪い見舞い客を睨みつけてから、部屋を出る看護婦を、何故か敬礼の姿勢で見送る桃ヶ丘署の面々。
バタンとドアが閉まり、看護婦が出て行った瞬間、のだめが吹き出した。

「あっはっは……イタタ。皆、可笑しいですヨ……礼式でもそんなに真面目にしたことないのに……ああ、可笑しい……イタタ」

笑いながら傷口が痛むのか、顔をしかめるのだめに全員が心配そうに詰め寄った。

「のだめ、大丈夫?」
「まだ無理しちゃだめだヨ」
「でも……可笑しくって……ああ、久しぶりにこんなに笑っちゃいました」

笑いすぎて涙をにじませるのだめの姿を見て、ドゥーンが言った。

「ワタシも……また、のだめの元気な顔が見れて、嬉しいヨ」
「ドゥーンさん……」

優しい表情で語りかけるドゥーンを思わず見つめるのだめ。

「アレ?今度は照れないの?」
「空気を読め、小僧」
「ハイハイハイ、今度は喧嘩なしでお願いしますね」

すかさず大河内が割って入ってくる。
このあたりは課長として成長したというよりも、厄介ごとに自ら進んで巻き込まれるようなこの集団に慣れるより仕方がないと観念した結果であろう。
持っていた大量の手荷物をふうっと下ろす。

「いやさ、署長も副署長も、桃ヶ丘署の他の皆が来たがってたんだけどさ〜。
 団体様お断り、今回は強行犯係とユンロン、見張り役が僕ってことで、とりあえずお見舞いの品だけ預かって来てるんだよ。
 ハイ、これはシュトレーゼマン署長からなんだけど……」
「……○○○ヌード写真集?」
「ムキャ、かなり過激ですね!!」

そう言いながら食い入るように写真集をペラペラめくるのだめ。

「えーと、同封されていた手紙を読むね。
 『愛しいのだめちゃん、ああ、今すぐ駆けつけて抱きしめてあげたいのですけれども、こわーい本店のオジサン達が私を解放してくれないのデス。
 だけどこの写真集のようなのだめちゃんのヌード姿が見られる日のために……ううん、フランツ負けない!!頑張る!!』」
「………」
「相変わらずの馬鹿だな」

辛辣に言うドゥーン。

「……意味不明だネ」
「これ完全に現実逃避してますよ」
「確かにあのギリギリの局面での現場の対応に、本店からはかなり絞られてますからね。
 一歩間違えればシンフォニーホール観客5000人が犠牲になる大惨事ですよ」
「……ま、こんなふざけた手紙書けるくらいだから大丈夫なんじゃないですか?あのとぼけたオヤジは」
「それから……」

ごそごそと大河内は紙袋から綺麗に包装されたものをのだめに渡した。

「これは副署長から」
「なんですかネ……」

さっそく中身を見たのだめはぽかんと口を開けた。
黒いレースのブラジャーとショーツのセットであったが、普通のものとは違いショーツの前面に白いフリルの布がエプロンのようにデザインされており、大胆なシースルーのリボンで結ぶ用になっている。

「セクシィメイドブラエプロン……って書いてマス……」
「これも手紙がついてるヨ。
 えーと、『のだめちゃん、気に入ってもらえた?。
 このキュートでエロカワなメイド風ランジェリーをつけて、俺のこと「ご主人様v」って呼んでくれないかな?。
 いつも君のことを夜な夜な思っている松田幸久より』」
「………」
「夜な夜な何を思ってるんでしょうね……」
「うちの署のトップはエロ馬鹿ばっかりか!!」

ドゥーンはたまりかねたように叫んだ。
そんなドゥーンを宥めるように、片平が両肩をポンポンと叩いた。

「まあまあ、我々もそれぞれお見舞いの品を持ってきたことですし……まともなね」

リュカが背中に隠し持っていたものをすっと差し出した。
綺麗な黄色いバラのアレンジメントで、病室の空気をパッと明るくする。

「ふお〜〜しゅてきデス……リュカ、センスがいいんですネ」
「花言葉は『あなたを恋します』ってね」

照れくさそうに笑う少年の頬は少しピンクに染まっていた。
そこへユンロンがスッと紙袋を差し出す。

「どうせ寝てばっかりでヒマだろうから同人誌、たくさん買ってきたヨ。全部BLネ」
「ムキャーーーーーーッ。さすがユンロン、のだめのことよくわかってますネ!!。
 あ〜これ読みたかった奴デス。これも、これも〜〜!!」

先ほどの花をそっちのけで本に夢中ののだめに、リュカは呆然としたように立ちつくした。

「のだめ……花よりもそんな本がいいの……?」
「黄色いバラの花言葉は『献身』ともいうんだよナ……」
「ファイト、リュカ」

ぼそっと励ますドゥーンと片平であった。

「のだめちゃん、これフィンランドのArabiaのパスタプレート」

片平が取り出したのは、ブルーの北欧食器。

「ムキャ、綺麗ーーー!」
「そしてこれを……」

と片平が取り出したのは丁寧にくるまれた弁当箱。
その中にはまだぬくもりの残る海苔のにおいが香ばしいおにぎりが入っていた。
それをお皿の上に、トントントンと3つ並べる。
洋食器なのにその美しい色と柄は和食器のように、おにぎりをより一層際立たせる。

「これって……」
「映画の『かもめ食堂』みたいですネ!!ムキャー!!おにぎりはやっぱり日本のソウルフードデス!!」
「病院の食事じゃのだめちゃん、物足りないんじゃないかと思ってね。
 のだめちゃん、おにぎり好きだし」

そう言ってにこにこと微笑んでいる片平をドゥーンが意外な眼差しで見つめる。

「カタイラ、なかなか通だナ」
「だって僕の奥さん、フィンランド人だし」

……… ……… ………

「「「えーーーーーーーーっ!!」」」

途端に揃えて大声を出す全員。
その時病室のドアが開いて先ほどの看護婦が顔を出した。
般若のような顔をして一同を見つめる。

「………何かありましたか?」
「いいえええっ!!何もありません、失礼しました」

バタンとドアが閉じると、ふうーーーーっと安堵のため息がもれる。
今度は顔を近づけてひそひそ話をするユンロン。

「そんな話初耳だヨ」
「その顔で!?」
「その身長で!?」
「そのハゲで!?」
「「「奥さん、フィンランド人ーーーーっ!?」」」
「……どういう意味?」

ぶすっと気を悪くした片平を気にすることなく、大河内がケーキの箱を差し出した。

「まあ、たいしたことないけどね、有名なケーキ店のプリンだよ。
 うん2時間くらいは並んだけどね。
 そんなこと可愛い部下のためなら当然だよ」

皆が冷めた目で得意げに髪を掻き揚げる大河内を見つめる。

「……普通だナ」
「普通ですね」
「なんの面白みもないヨ」
「所詮、課長止まり決定だね」
「なんでーーーーっ!!。何、その反応ーーーーーっ!!普通じゃいけないのーーーーっ!!」

喚く大河内は完全に他のメンバーに無視をされていた。

「ええっと後はドゥーンさんのお見舞い……」

ドゥーンがすっと無言で差し出したのは……なんと盆栽だった。

「ドゥーンさん、盆栽はやばいって!!」
「そうそう、根付くとか言うヨ」
「これ以上、のだめの入院を長引かせたいの!?」」
「いいんだって。これはいい松なんだから……心を和ませる」
「和ませるって言ったって……」
「……いいですヨ」

ここで初めてのだめが発言した。
目を潤ませながら、皆からの御見舞いの品をぎゅうっと胸に抱きしめる。

「嬉しい……嬉しいデス」
「………」
「こんなに……こんなに皆が、のだめのこと考えてくれるなら……のだめずっとずっと病院に入院していたいくらいデス。
 ありがとうございマス。
 ありがとうございマス。
 本当に……本当に……ありがとうございマス!!」

ぽろぽろと頬を伝う涙の雫が、のだめのベッドのシーツを濡らす。
そんなのだめを見ながらドゥーンがゴホンと咳をした。

「それは……困るナ」
「………?」
「本店の運転手の代役はもうたくさんだ。……ったく、腰が痛くてしょうがない」
「ドゥーンさん……」
「のだめちゃんがいないと、桃ヶ丘署も火が消えたみたいになって、なんていうか……なんか寂しいんだよね。
 シュトレーゼマン署長とドゥーンさんも以前みたいに喧嘩しなくなって、二人でため息つきながら梅昆布茶飲んで一気に老けてるし……。
 松田副署長も婦警に声をかけては振られまくってるし……、あ、これはいつものことだっけ」
「片平係長……」
「麻婆豆腐の出前の量が少なくなったって、裏軒のミネがぼやいてたヨ。
 今度の新作の麻婆杏仁豆腐の試食もしてほしいって言われてるけど、そんなオカズなのかデザートなのかもわからない奇妙なもの食べる気もしないヨ。
 まずはのだめに毒見してもらわないとネ」
「ユンロン……」
「……のだめがいない桃ヶ丘署なんて、楽しくもなんともないよ。
 そんなのだったら、僕、警察なんかやめてやる!!」
「リュカ……」
「そ、そんな〜リュカさん、困りますよ。僕が本部長に叱られますって〜〜。
 という訳で、私の昇進がかかってますので、のだめさん刑事課に戻ってきてください!!」
「大河内課長……相変わらずですネ」

苦笑を漏らしながら、ふと視線を落として何かを考えてるのだめ。

「でも……のだめは……」
「アレ?」

ふいに片平が、鼻をひくひくさせた。

「さっきまで気づかなかったけど、この部屋、いい香りがするね」
「そう言われてみれば、甘くてさわやかな……」
「あ、あれじゃない?」

そう言ってユンロンが指差したのは、のだめのベッドの窓際の花瓶にさりげなく飾られている白く鈴のように連なった小さな花だった。

「鈴蘭か……綺麗だな」

ドゥーンが目を細める。

「ニュービーズ?」
「洗剤の香りじゃないですって……大河内課長」

片平がため息をついた。

「誰かからのお見舞い?」
「あ……えっと……まあ……」

なんとなく歯切れが悪く煮え切らないのだめの態度に、リュカがさっと顔色を変えた。

「まさか、あいつが来たの!?」
「え?」
「千秋だよ!!。いつも気取ってて黒いスーツしか着なくてねちねちしつこくて細かいあの男だよ!!」
「リュカ……その言い方はちょっと……」

たしなめながらも…と片平が合点がいったようにポンと手を打った。

「ああ、そうか。桃ヶ丘署は面会謝絶でしたけれども、本店ならオッケーですもんね」
「なんだ、先に来てたのか、あの若造」
「全警察無線で告白したも同然だったからネ。
 多賀谷管理官が婚約者とか言っていて、はっきりしない態度だったからむかついてたけど、ちょっとあの時は見直したヨ」
「で、どうなの!?。その後!!。署長達からもがっつり聞いて来いって言われてるんだ」

好奇心丸出しで目をらんらんと輝かせながら食いつく桃ヶ丘署のメンバーと、一人苦虫を噛み潰したようなリュカ。
のだめは、少しの間沈黙してから、寂しそうに笑った。

「来てないですヨ」
「へ?」
「のだめが意識取り戻してから……一回も来てないデス、千秋管理官」

……… ……… ………

「何やってるんダーーーーっ!!。あの若造!!」
「まあ、確かに捜査続行中でそれどころじゃないっていうのはわかるけど」
「それでもちょっとくらい顔を見に来る余裕くらいあるヨ!!」
「のだめ……やっぱりやめといた方がいいよ、そんな冷たい男」
「いやいやいや、そんなこと言わないで。キャリアだよ、もったいないよ。のだめさん」

ぐいぐいと顔を近づけてくるメンバーに対して、のだめは困ったように眉をひそめて言った。

「イエ、管理官がお仕事お忙しいのはわかってマスし……」
「そんなこと言ってる場合じゃないヨ!!」
「ああいうタイプはどんどん攻めて行かなきゃ駄目だって」
「ええと……そんなこと言われても……」
「いや……待てよ。『沈黙は金なり』とも言うしナ」
「ほほう……あえてこちらからせっつかないで待つという作戦ですね!!」
「イエ、別に作戦では……」
「そこまでして待つほどの価値はないと思うな、あんなヘタレに」
「アレ?」

不意にユンロンが気づいたように言った。

「チアキからじゃないとしたら……いったい誰の御見舞いなの?」
「それは……」

ためらいながらも、のだめが口を開いた瞬間、病室のドアがコンコンとノックされた。
先ほどの看護婦が顔を出すと、皆の背筋がピンと伸びる。
騒がしい見舞い客をじろりと睨み付けてから、ふっと表情を変えてのだめに話しかける。

「野田さん、いつもの方ですよ」
「いつもの……?」

看護婦が消えると同時にドアの向こうから顔を出した男性に、皆はあっと息を呑んだ。

「……黒木警視……」

涼しげな表情で入ってきた黒木は、病室にいる桃ヶ丘署のメンバーに気づくと深々と頭を下げた。

「桃ヶ丘署の皆さん、事件解決のためにご尽力いただいてありがとうございました」
「いえ……そんな、頭を下げないでください」

途端に萎縮する桃ヶ丘署のメンバー。
本来ならばキャリア組の黒木だ。
下っ端の彼らに向かって頭を下げる立場の者ではない。

「事件も継続中ですが……ネゴシエーターとしての訓練プログラムも残ってることですし……明日、アメリカに戻ることになりました」
「え!?」

この発言はのだめも初耳だったらしく、驚いている。
のだめを見ながら軽く微笑んで、黒木は言った。

「そういった訳で……少し、野田恵さんと二人で話をさせていただきたいのですが……」
「あ……」
「えーっと、そういう訳でしたら私達はそろそろ……」
「早く帰らないと署長からまた怒られちゃうヨ」
「なんでだよ、まだ全然のだめと話してない……ふご」

リュカの口をふさいだまま、大河内が黒木に向かって言った。

「では私達は失礼しますので、どうぞごゆっくり……」

なんでだよ、ちょっと離してよと抵抗するリュカを引きずりながらそれぞれドアを出て行った。
バタンとドアが閉まる。


が。


ここで引き下がるようなメンバーではない。
瞬時にピタッとドアに張付いて病室の会話を聞こうと、押し付けた耳に神経を集中させた。

中からは何の声も聞こえてこない。

『アレ……このドア防音性高い?』
『オイ!誰か盗聴器しかけてこなかったのか?』
『ドゥーンさん、それは犯罪ですって』
『シー!!静かに!!』

ぼそぼそとかすかに声が聞こえてきた。

どうやらのだめが重たい空気に耐えかねて口を開いたようだ。

『黒木くん……明日、アメリカに帰るって……本当デスか……?』
『うん、僕もまだまだ修行中の身だからね』

少しくすっと笑うような気配の後、しばらく沈黙が続いた。
そして黒木が言った。

『だから……昨日の返事、聞かせてもらえないかな……』
『………』
『僕と一緒に……アメリカに来てほしいっていうことを……』






続く。