千秋は病院に着くと、財布から無造作に取り出した1万円札を運転手に渡し、タクシーから飛び降りた。

「お客さん、お釣り…」
「いい!!」

タクシーの運転手は、必死な形相で走り去っていく男の姿に、身内が危篤状態なのかもしれないと思ったほどだった。

千秋はあらただしく病院内に駆け込む。
エレベーターに乗ろう…として最上階で止まっているエレベーターの表示を見てやめた。
ロビーの中央にあるエスカレーターに向かうとそのまま上りのエスカレーターを駆け上り始めた。
すみません、すみませんと次々と人と人の間を縫うようにして駆け上がって行く。
あまりの非常識な行為に人々が顔をしかめ、看護婦が何か注意したのかもしれないが、全く耳に聞こえなかった。、

…まったく…警察官失格だな。

そんなことを考えながら舌打ちをし、のだめの部屋に向かった。

部屋の前で立ち止まる。
全速力で走ったものだから、息は乱れ、心臓は爆発しそうなほど鳴っていた。

ノックをしようとして思わずためらう自分がいることに気づく。

おい。
ここまで来て……何をためらっているんだ、おれは。

はあ…といったん息を吐き、呼吸を整えた後、静かににノックする。

コンコン

…返事がない。
もう一度ノックしてみようとしたその時、後ろから声がした。

「のだめちゃんなら、ここにいないよ」
「……黒木警視?」







「やっぱり来たんだ」
「………」

やっぱりとはどういう意味なのか。
俺が来ることを知っていたのか。

そんな疑問が浮かんだ千秋の表情に気づいたのか、黒木はくすっと笑った。

「桃ヶ丘署の人達が君に言いにいったんだろう」
「え?」
「僕が、のだめちゃんをアメリカに連れて行きそうだから、止めてくれってね」
「まさか……わかってて」
「うん、ごめんね」

黒木は言葉で謝りながらも、その口調は少しも悪びれたところがない。

「……どうしても、最後に千秋管理官と話がしたかったから」

黒木がしたい話とは何なのかが千秋にはわからなかった。
だけど。
……ここが正念場のような気がして、千秋は身を引き締めた。
そして改めて周囲を探してみる。

「のだめは……?」
「屋上にいるよ。
 ……僕がいろいろ言ったもんだから、混乱しちゃったんじゃないかな。
 しばらく1人で考えたいって言うから、今、屋上に連れて行ってきた」
「……いろいろって何を?」

黒木は千秋の目を見据えて言った。

「僕が、のだめちゃんを愛してるって」
「え……」

思わず声が出てしまう千秋。
それにかまわずに黒木は話を続けた。

「だから、僕と結婚してアメリカについてきてほしい」
「………」
「……そう言ったんだ」


なるほど……。

千秋も黒木にをにらみ返した。


ここからは、男同士の話……ということか。


であるからには。

絶対に……絶対に引く訳にはいかない。


「……ない」
「え?」

「そんなことさせない」

千秋は、きっぱりと言い放った。

「あいつを、アメリカになんか行かせない。
 どこにもやらせない。
 黒木警視にも、のだめを渡す訳にはいかない」
「……どうして、そんなことが言えるの?」

タクシーの中でずっと考えていた。
昔から、好きだの愛してるだのという言葉が嫌いだった。
そのような言葉を平気で口にする女性が理解できなかった。
愛し合って結婚した夫婦が壊れていく姿を見て育ったというのもあるのだろう。
本当の愛情なんてない。
自分はそういう感情には一生縁が無いものだと思っていた。
そんなみっともない言葉を使う日がくるなんて思いもよらなかった。



でも。

千秋に迷いはなかった。



「俺も、のだめを愛しているし……あいつも……そうだと思うから」


黒木が一瞬、寂しそうに笑ったように見えた。







しばらくの間、沈黙が続いた。
先に口をきったのは黒木の方だった。

「東京港で一台の車が爆発して、炎上したそうだね」
「え?」

いきなり話題が変わり、千秋は戸惑った。
確かにその情報は入ってきていた。
でも、まだ極秘事項であり公にはされてない筈……と考えて、黒木が警察上部の関係者であることに改めて気づく。

「……残されたナンバープレートから、瀬川悠人の所持する車と判明した……そうだろう?」
「ああ……」
「……中に人間は?」

千秋は唇を固く結んだ。
その情報が入ってから、ずっと自分が懸念していたことと同じだったからだ。
千秋秋は重たい口を開いた。

「現在調査中だ……」
「……そう」
「でも……」

千秋はきっぱりと言った。

「……でも……でも俺は、きっと誰も乗っていなかったと思っている。
 いや、確信している」
「それは……もしかしたら彼は生きているのかも知れないって思ってるんだね」
「………」
「……僕の考えと同じだと思ってていいのかな」
「………」
「……もしかしたらこれからも……彼はのだめちゃんを狙おうとしてやってくる可能性があると考えているということだね……」
「……そうだ」
「………」
「……だけど」
「だけど?」

千秋は大きく息を吸い込むと言った。

「……その時は、全力で俺が守るから……」
「………」
「……絶対に……絶対に……俺が、あいつを守るから……」
「………」
「だから……だから……絶対に、大丈夫だ」
「………」

黒木の顔がくしゃっと歪んだ。
そして、千秋に向かって、深く……深く……頭を下げた。

「……黒木警視?」
「ありがとう……」

声がにじんでいた。

「ありがとう……ありがとう……千秋管理官。その言葉が……聞きたかったんだ……」






それから千秋は屋上へ続く階段を上っていた。
カツン……カツン……
天井に音が響く。

黒木は、あの後、飛行機の時間があるからと、その場を立ち去った。

きっと……彼は、こうなることはとっくにわかっていたに違いない。
あの優しい外見とは裏腹の、明晰な頭脳がこのことを予測しないはずはなかった。
それでも……。、
それでも、黒木は最後まで、のだめのことを案じて……。


のだめは何を思っているだろうか。

そんなに思ってくれる黒木よりも自分を本当に選んでくれるのだろうか。

のだめのの命を危険にさらした自分に本当にそんな権利があるのだろうか。


屋上のドアを開いた。

エレベーターで来たと黒木は言っていた。
のだめは車椅子にのってフェンスの前でただ一心に空を見あげていた。
千秋が来たことにも気づかないようだ。
その姿を見た瞬間……千秋の心は愛しさがこみあげてきて……。
すぐさま駆け寄って、抱きしめたい気持ちにかられた。

……のだが。

よくよくのだめを見ると何かぶつぶつと呟いている。
どうやら独り言を言っているようだ。

その言葉が聞き取りにくくて、千秋はそっとのだめに近寄る。

「……だからですネ……ここで、黒木くんのプロポーズを断るのはもったいないと思うんですよネ。
 うん。
 あんなにのだめのことを思ってくれてるし……
 ……千秋管理官よりずーーーっと優しいし」


……… ……… ………


「それよりも、千秋管理官の気持ちがどうなんですかネ〜。
 あの時は、ああ言ってましたけど、彩子さんのこともあるし……。
 そのあたりがどーも、はっきりしないんですよネ〜。
 なんてったって、千秋管理官って、暗いしネチネチしてるし、何考えてるのかわからないところもあるし……。
 どうしますかネ〜。
 あ、そっか!!」

ポンと手を打つ。

「とりあえず千秋管理官に告白してみて、玉砕したら黒木くんと一緒にアメリカに行けばいいんですヨ!!
 名案デス!!、これで決定ですネ」

そういっていそいそと車椅子の向きを変えて病室に戻ろうとするのだめ。
そして異様な雰囲気にはっとする。

そこには。

怒りに満ちたオーラを漂わせた千秋が立っていた。

「か、管理官、どうしてここに?」
「………」
「もしかして……今ののだめの独り言……聞こえちゃいましたか……?」
「聞こえちゃいましたかじゃねえっ!!
 お前なんかアメリカでもどこにでも行ってしまえーーーーーーーーーっ!!」
 
パシーーーーーーン!!。

次の瞬間、のだめは強く頭をはたかれていた。





「……ひどいデス。管理官……病み上がりの患者なのに……」
「ひどくねえっ!!。
 ひどいのはお前だっ!!」

千秋はあまりのショックで頭がクラクラしていた。

そうだ。
そうだった。
忘れていた。

こいつはこんな奴だったんだ……。

俺と黒木警視がいったいどんな気持ちでいたと思ってるんだ。

「くそ!!。
 くそ、くそ、くそ!!
 ……こんな奴のために悩んだ俺が馬鹿だったんだ!!」
「管理官、ひどいデス」
「しつこい!!」
「そうじゃなくて……」

千秋はくいっとシャツを引っ張られる感覚があり、下を見た。
車椅子にのったのだめが千秋を見上げていた。

「……やっとデス」
「……?」
「……やあっと、会えました……管理官」
「………」
「ずーっとずーっと待ってたんですヨ」
「………」
「リュカも、ドゥーンさんも、ユンロンも、片平係長も、大河内課長も、……黒木くんも、皆、来てくれたのに……」
「………」
「一番、会いたい人が来ないんだから……」
「………」


くそ。

……この悪魔め。

いつだって……。

そう、いつだって振り回されるのは俺なんだ。

……たぶん、これからもずっと……。



「記者会見やら事後処理があったからな。
 ベッドで、がーがーいびきかいて寝てるお前と違って、俺は暇じゃねえ!!」
「あーーっやっぱりひどいデス!!。
 のだめだって好きで寝ていたんじゃないですヨ。
 もう、すっごく痛かったんだから」
「ハイハイ」
「本当デス!!……傷跡だって……」

言いかけた言葉をはっと飲み込むのだめ。
千秋の声色が変わった。

「傷跡……残ったのか」
「あ、でもちょっとです、ちょっとだけですヨ」

そういってのだめはふふっと笑った。



「名誉の負傷デス」



たまらなくなった千秋は、そのまま崩れ落ちるように膝をつき、のだめを抱きしめた。

「………」
「……すまない……のだめ」
「……どうして」
「………」
「どうして謝るんデスか?」
「………」
「みんな助かったじゃないデスか」
「………」
「誰も死ななかったじゃないデスか」
「………」
「爆弾、無事に処理してくれて……ありがとうございマス」
「……お前のヒントのおかげだ……」
「でも、やっぱり……管理官が捜査本部を仕切ってくれたから……だから、無事解決したんですヨ……」
「………」
「ありがとうございました」

頭をさげるその笑顔が眩しくて。
千秋はこみあげてくるものがあった。

「管理官……」
「………」
「お願いがあるんデスけど……」
「……なんだ?」
「今度、一緒に、シンフォニーホールにクラシックコンサート聴きに行きましょう」
「………」
「楽屋じゃなくて、ちゃんとした客席で……」
「でも……」

あそこは、お前にとって最悪の場所じゃないか……と言いかけた千秋の意図を察するようにのだめは微笑んだ。

「あのコンサートホールは、のだめが刺された場所でも……のだめが撃たれた苦い思い出の場所ではありまセン……」
「………」
「管理管が、のだめに告白してくれた……最高の思い出の場所デス……」
「………」
「……だから……」

のだめの目に涙が溢れ、目尻からつうーっと頬を伝う。
千秋がその涙を拭おうと手を伸ばし頬に触れた。

そして……そのまま……千秋はかがみ込んで顔を近づけていく……。




2人の唇が触れ合おうとしたその瞬間。





「のっだめーーーーーーっっっ!!」


バーンとドアが開いて、リュカが顔を出した。
思わず離れる千秋とのだめ。


「「「「リュカのバカーーーーーーーーーーー」」」」

見ると、ドアの影には、ドゥーン、片平、ユンロン、大河内が隠れていた。

「せっかくいいところだったのに何で邪魔すんだヨ!!」
「いいじゃ〜ん、べっつにーーっ」

今にものだめに飛びつこうとしているリュカを引きとめながら、文句を言うユンロン。
その片手にはしっかりビデオが握られていた。

「っていうか、ドゥーンさん達……」
「お前ら、いつからいたんだ!!」

真っ赤になる千秋とのだめに対して、それぞれが言い訳をする。

「だからワタシはこういう悪趣味なことはやめようって言ったノダ」
「いや、ドゥーンさん、ドアの前、一番いいポジションキープしてました」
「だいたい、病院までパトカーで乗りつけたのは大河内課長ですよ」
「それは……シュトレーゼマン署長が、いい動画とれたら特別賞与あげマ〜スなんて言うから……」
「それに松田副署長は、結婚式の披露宴で編集して流すって言ってましたし」
「ねえ」
「なあ」
「しょうがないよなあ」

怒りにプルプルと震える千秋。

「お前らっ!!デリカシーっていうもんがないのか!?」
「そうですヨ!!」

いつもは温厚なのだめもさすがに怒りの声をあげる。

「せっかく、のだめが最後のツメに入ってたところなのに、台無しじゃないデスか!!」
「へ?」

ぽかんと口を開ける千秋をよそに、のだめはシャキシャキと場を仕切りだした。

「みんな、そこの角まで下がってくだサイ!下がって!!」
「あ、うん」
「この辺か?」
「ちょっと離してよ!」
「ドゥーンさん、そのままリュカを押さえていてくださいネ〜。
 ユンロン、そちらからは逆光デス!!。撮るのなら反対側から撮ってくだサイ!!」
「よし!!スタンバイオッケーだヨ、のだめ!!」

皆が定位置についたのを確認したのだめは、改めて千秋に向き直った。
そして顔を上に向けて唇を出す。

「さ!千秋管理官、続きを……」
「できるかーーーーーーーーーーっ!!」





「くすん……ひどいデス……本日、2回目の暴力デス」
「知るか!!」

車椅子を押しながら、リュカがのだめにそっとささやく。

「のだめ、やっぱりあいつ、やめといた方がいいよ。なんかDVっぽいよ」
「DVって何デスか?リュカ」
「警察官なのにそんなことも知らないのか。18歳以上は閲覧禁止という……」
「ドゥーンさん、それAVです」
「お前ら、やかましいーーーーーーっ!!」

千秋は後ろを振り返って叫んだ。

「だいたい、なんでお前ら、俺の後をぞろぞろついてくるんだ!!」
「いや、その、別に管理官の後をついていっている訳では……」
「僕らの前を管理官が行ってるだけだヨ」
「のだめの病室、そっちだし」
「ねえ」
「なあ」
「しょうがないよなあ」
「あーーーーーっ!!くそっ!!俺は仕事に戻る!!」

一刻も早くこの悪魔のような連中から立ち去ろうとする千秋の前をリュカがさえぎった。

「……お前は気に食わない奴だけど……言っとくよ」
「なんだ?」
「のだめを……引き止めてくれてありがとう」

千秋は思わずリュカを見た。
そして他のメンバーへと視線を移す。
皆、それぞれに嬉しそうに幸せそうに笑っていた。

そこへ携帯の着信音が鳴り響く。
千秋の内ポケットからだった。

「病院内では携帯の電源を切れ!!マナー違反だ!!」
「す、すみません」

ドゥーンに叱られ思わず頭を下げながら千秋は電話にでた。

「うん……俺だ……うん……わかった……すぐ戻る」

のだめが心配そうに千秋を見る。

「管理官……お仕事デスか?」
「ああ……じゃあ、また……」

そこにいた面々に一礼すると、千秋は踵を返した。

そこへ。

「千秋管理官!!」

のだめの呼ぶ声に千秋は振り返った。

「……行ってらっしゃい!!」

のだめがこれ以上はないくらい最高の笑顔で笑っている。
千秋もふっと笑ってそれに答えた。

「……行ってきます」













終わり。