「千秋管理官、無事に爆弾解体したそうです!」

オペレーターの報告に、彩子は安堵のため息をつき、椅子に腰を下ろした。

「やっぱり……心配?」

隣のジャンが顔を覗き込む。彩子は、いつもの平然とした顔つきに戻り答えた。

「別に、今は個人的感情を挟んでいる場合じゃないわ……。
 あの加工された声、肉声になるまでクリーニングして、警視庁にあるあらゆるデータに声紋検索かけてみて」
「犯人の発信位置わかりました!○○地区の○○中継所から半径1.5キロ以内です!!」
「了解。公安部さん、聞こえる?○○地区に向かって。所轄は周辺の検問を」

てきぱきと指示を出す彩子に内心、舌を巻きながらジャンが言った。

「今回は無事にすんだが、3回目の接触があると見て間違いなさそうだね。……どうする」
「心配ないわ……。『彼』をもう呼んでいるの」







千秋とともに、無事に捜査本部に戻ってきたのだめにリュカが抱きついた。

「のだめ……のだめ、大丈夫だった?爆弾現場に行ったって聞いたから心配で……」
「全然平気デス!!千秋管理官がちゃんと解体してくれましたし」

そう言うとのだめは千秋を見てにこおっと微笑んだ。
リュカがのだめにしがみついているのを見て面白くなさそうな顔をしていた千秋だが、のだめと目が合うとふっと逸らした。
途端にしょぼんとするのだめとその雰囲気を見てムッとするリュカ。

「千秋管理官……お帰りなさい」
「ああ。だが、また犯人は接触してくるだろう。店内に残っている起爆装置、爆弾の分析、急いでくれ。それからあと……」

『入り口にいる彼女が危ないんじゃないかな』

「犯人はこちらの状況が筒抜けだった……。監視カメラがどこかに仕掛けているかもしれないから店内を徹底的に捜索してくれ。
 店の従業員と客達の事情聴取もだ」
「……ところで」

ジャンが立ち上がり、千秋に近づいていく。

「犯人は何故、君を指名してきたんだろうね。心当たりはあるのか?」
「千秋管理官が、以前逮捕した犯人で怨恨を持っていてそうで…最近出所した人物を当たってみたらどうかしら」
「そうじゃないと思う」

彩子の提案に千秋はきっぱりと否定する。

「犯人は最初に『はじめまして』と言ってきた。おそらく俺と接触したことはない人間だろう。
 それでいて俺に強い怨恨を持つもの。
 犯人個人よりも重罪で長期服役中、もしくは服役中に亡くなった人間の身内、親類縁者を当たってみてくれ。それと……」

千秋は何故か言いごもった。彩子はそれを察したように言う。

「……お父様、千秋雅之氏の関係ね」
「……ああ」
「?」

2人の間には重たい雰囲気が流れ、のだめはにそれをただ見つめているだけだった。
そこへ、

「失礼します」

会議室のドアが開き、スーツ姿の一人の男性が入ってきた。
彩子は立ち上がり彼と握手を交わす。

「待ってたわ。……みんな、紹介するわ。アメリカから緊急帰国したFBI仕込みの交渉人(ネゴシエーター)、警護課特殊班の黒木泰則警視よ」






カラーンッッ!!。

何かが落ちるような音がして皆が振り返った。
後ずさったのだめの手が、テーブルの上にあった誰かの飲みかけの缶コーヒーを倒したのだ。
床にじわじわと広がっていく茶色の液体。
のだめは青ざめた顔で、両手で口を覆った。

「………く……黒木くん……デスか……?」

千秋はのだめの動揺した姿を不思議に思って、黒木と言われた人物の方を振り返った。
黒木も呆然としたような顔をして突っ立っている。

「め、……ぐみちゃん?」

黒木がのだめの名前を呼んだ瞬間、のだめはくるりと振り返りそのまま走って会議室を飛び出した。

「待って!!恵ちゃん!!」

黒木も持っていたアタッシュケースを放り出してのだめの後を追っていった。
後には訳もわからないままでいる捜査本部メンバーだけが残された。
ジャンが呟いた。

「多賀谷管理官……彼が君の言う凄腕の交渉人なの?」
「………彼と、野田さんは知り合いかしら、真一」
「いや……俺は何も知らない」

そう呟く千秋。

そう。

……何も知らない。






はあ……はあ……はあ……。
のだめは桃ヶ丘署の廊下を息を切らしながら懸命に走っていた。
廊下の壁には小学校のように「走らないでください」と書かれた紙が貼られている。

……黒木くんが……黒木くんが、帰国しているだなんて。

走っているのだめは、ふと後ろから自分ではない誰かの足音が聞こえたような気がして振り向いた。
すると、黒木が真剣な顔で後ろからのだめを追ってやって来るのが見えた。

「恵ちゃん、待って!!」
「ぎゃぼ〜〜〜!!来ないでくだサイッ!!」

ひいいと顔を引きつらせながら逃げるのだめと、かまわずに追いかける黒木。
廊下を歩いている人々はあまりの2人の剣幕とスピードに、壁に貼り付くようにして次々と避けていった。
彼らの建物内での壮大な追いかけっこは、しばらく伝説として桃ヶ丘署で語り継がれるものとなったとかならなかったとか。





「恵ちゃん!!」

ついに黒木がのだめの手を掴んで強引に走るのを止まらせた。
のだめは前を向いたまま、振り返らなかった。

はあ……はあ……はあ……

しばらくは2人の荒い息づかいだけが静まりかえった廊下に響く。

「なんで……」

のだめがポツリと呟いた。

「なんで……追いかけてくるんデスか?」

そう言うと振り返るのだめの顔は全力疾走のせいなのだろうか真っ赤になっていた。

「え……なんでって……その……」

黒木は、不意をつかれて言葉を探すように目を彷徨わせた。

「……えーと……あー、うーんと……」

そんな困った様子の黒木をのだめはただ呆然と見つめる。

「だって……」
「……だって……?」

黒木はしばらく考え、そしてのだめに向き直るとしごく真面目な顔でこう言った。

「……だって……恵ちゃんが逃げるから」

かくっとのだめの体から力が抜ける。

「……そういう理由なんデスか……」
「恵ちゃんこそ、どうして僕の顔見て逃げたりしたの?」
「あ……あの……その……」

のだめもしばらく考え込むと、申し訳なさそうに黒木を見上げた。

「な、なんででしょう……」

しばらく2人の間に沈黙がただよっていたが、やがて……どちらともなくぷっと吹き出した。
そのまま声を合わせて笑い出す。
まるで離れていた何年かがなかったかのように。
あの頃の2人のままに。
まだ笑いが止まらないような口調で黒木が言った。

「変わらないね、恵ちゃん」
「黒木くんこそ」
「……元気だった?恵ちゃん」
「ハイ」

のだめはふわっと微笑んだ。
そうだった。
黒木はいつも「恵ちゃん」と優しく呼んでくれていたのだった。
その呼び方が、のだめはとてもとても大好きだったのだ。

「……そう、それは良かった」
「……黒木くんもお元気そうで何よりデス」
「………」
「………」

そして2人は同時に我に返る。

「あ!!いけない、捜査本部ほっぽり出して来ちゃった」
「そうデスよ!黒木くん、ターミネーターとかなんとか先ほど言われてませんでしたか?」
「……ネゴシエーターなんだけど……。うん、アメリカのFBIのクライシス・ネゴシエーションの訓練プログラムをずっと受けていて…帰国したばかりなんだ」
「ふおお…そうなんデスか…よくわからないんですけど、なんかすごいデスね。ねごしえーたーですか〜カッコイイですね〜」

キラキラと目を輝かせて見つめるのだめに、黒木は照れたように頭をかき、そして先ほどから疑問に思っていたことを口にした。

「恵ちゃんは?なんで警察署なんかに?」
「はうう……実は、のだめ刑事になったんデスよ……」
「ええっっ!!」

驚いて大声をあげる黒木。

「えーと、話せば長くなるんですが……あ!それよりも早く捜査本部に戻らないといけないんじゃないデスか?」
「あ……そうだよね。皆、僕たちが飛び出しちゃったものだから、何事かと思っただろうね」
「今頃、大騒ぎになってたりして……」

2人はしばらく黙り込んだままうーんと考え込んだ。





続く。