意外な千秋の言葉に戸惑いざわめき出す捜査本部を尻目に、黒木は鋭い目をしたままそれに答えた。

「……こちらもだいたい検討がついた。2年前、○○シンフォニーホールであったピアニスト傷害事件だね」
「どうして……そんなことがわかるの?」

彩子が黒木の方を見た。

「わかります。……それは僕が担当した事件だから」
「!!」
「被害者は当時ピアニストだったNODAME……本名、野田恵。現在は桃ヶ丘署の巡査部長に勤務」

捜査本部に衝撃が走った。
それを無線で聞いていた、ドゥーン、ユンロン、片平、リュカ、大河内、松田、シュトレーゼマンも驚きを隠せなかった。
……そして、千秋も。

千秋はのだめを見た。
のだめはうずくまったまま相変わらず体中を震わせている。
そして思い出していた。
……いつか見た、のだめの右腕の大きな傷のことを……。

「犯人は瀬川悠人。当時22歳。コンクールでNODAMEに負けたことのを腹いせに、彼女のコンサート楽屋に潜み、演奏終了後に後ろから彼女を襲い包丁で彼女の右手に切りつけ重傷を負わせた。
 犯人はその場で逮捕され傷害罪で送検された。その後の足どりは……」

黒木はちらりとリュカの方を見る。
リュカはカタカタと猛スピードでキーボードを打ち、本庁のデータベースを検索した。

「……3ヶ月前に出所しています!現在の住所は○○区○○丁目……」
「ピタリ……だな」

ジャンがこの男にしては珍しく真剣な顔つきで言った。

そして。
その時を待っていたかのように。

ジリリーン、ジリリーン。

捜査本部の電話が鳴り始めた。





沈黙が部屋を包み込み、誰も押し黙ったまま口を開こうとしなかった。
黒木が覚悟を決めたようにきゅっと口を結ぶと、ゆっくりと受話器を手に取った。

「やあ」
『黒木さんですか?』
「そうだよ。メリーさん……。いや、本当の名前は瀬川悠人くんだね」
『………』
「そうだろう、瀬川くん」

声紋鑑定を行っていたオペレーターの一人が叫んだ。

「2年前のピアニスト傷害事件の犯人、瀬川悠人と声紋が一致しました!!」

その場にいた捜査員達が、彼女のPCのディスプレイ画面を見つめた。
リュカはそのまま無線マイクを手に取る。

「全捜査員へ。マルタイ情報。瀬川悠人24歳。元ピアニストで現在は無職。2年前のピアニスト傷害事件で傷害罪をうけ服役、3ヶ月前に出所。現在の住所は……」
「公安部をすぐに住所に向かわせろ!!」

受話器の向こう側は不気味なほど沈黙を保っている。
黒木はごくりと唾を飲み込んだ。
やがて。
黒木の耳に機械質な笑い声が聞こえてきた。
心底可笑しそうに、いつまでもいつまでもその声は笑い続けていた。

『なーんだ。やっと気づいたんですか?』
「………」
『あんなにあんなにわかりやすい場所を指定してきたのに。ロスに行ってから頭の回転が悪くなったんじゃないですか?黒木さん』
「……こうやって直接話をするのは久しぶりだね」
『あの時の取り調べ以来ですもんね』

捜査本部の一同、無線で聞いている全捜査員、そして千秋とのだめもそのやり取りを固唾を呑んで聞いていた。

「君の目的は……いったい何なのかな」
『ここまで来ると、もうわかるでしょう。NODAME……野田恵に対しての復讐ですよ』

のだめの肩がピクリと震えた。
千秋はそっと彼女の肩に手を回し、壊れ物を扱うように……優しく包み込んだ。

「……どういうことかな。彼女は2年前の事件で大きな傷を受けた。それこそピアニスト生命を断たれるくらいね。これ以上彼女になんの恨みがあるっていうの?」
『あんたなんかにわかってたまるか!!』

瀬川悠人は大声で叫んだ。

『僕は……僕は……世界的ピアニストになるために、幼い頃からずっとずっと血のにじむような思いをしながら練習してきたんだ!。
 やりたいことも出来ずに……毎日毎日、ピアノに向かって……それだけを目標に周りから圧力をかけられてきたんだ!。
 ……それなのに……』

悠人の脳内にフラッシュバックがよぎった。

初めて同じピアノ教室にやって来た、髪が無造作に跳ねている女の子。
練習もしないで、おなら体操やうんこの話ばっかりしている、悠人の目から見たら本気でこいつピアノする気があるのかっていうくらいの変な子で。
それが、一度ピアノの前に座った瞬間から。

その場にいた全ての人間がそのピアノの旋律に惹きつけられた。

飛んだり跳ねたり、自由に引いてて全く楽譜通りではなかったけれど。

多彩な音。

表情豊かなフォルテッシモ。

音がキラキラ光ってるみたいに色鮮やかな音色。

豊かな表現力。

『もう、こんな曲を弾けるんだ』
『すごいや、恵ちゃん!』
『すごい、すごい!!』

本来なら自分に与えられる筈の賞賛の声。

『この子はなるべく早く外国に連れて行かなければ……』

厳しいことで有名な花桜先生の目の色も変わっている。
このピアノ教室で一番優秀な悠人に対してもそんな事を言ったことすらなかったのに……。

……それよりも何よりも悠人の心に深く楔のように食い込んだのは。

ピアノを弾いているのだめ、その人の表情だった。

楽しそうに、嬉しそうに、時に口を尖らせながら、自由にピアノを弾いていた。
本当に、本当に心の底から幸せそうに……。

……僕は、あんな風に楽しくピアノを弾いたことなんて、ない。

ピアノは、「やらなければいけないもの」でしかなかった。
きちんと練習しないとママが怒るから。
先生や他の生徒達に良く思われたいから。
皆から「すごい」って言われたいから。


あんな風に……あんな風に……心の底から音楽を楽しんだことなんて、一度だって……。


そして成長してからも様々なコンクールに出場したものの、優勝するのはいつものだめだった。
世間の注目は彼女に集まり、毎回2位しかとれない悠人はいつしか「万年2番の瀬川」という屈辱的な称号で呼ばれるようになる。
その思いは……だんだん、ふくれあがって……だんだん憎しみに変わっていって……。

『恵ちゃんがピアノを弾けなくなったっていう事実がすごく嬉しかった。そのために刑務所に入っても別になんとも思わなかった。
 裁判所っていうところは案外簡単なところだね。
 表面上でも深く反省しているってそぶりを見せなさいって、ママが雇ってくれた優秀な弁護士が言ってたんだ。
 その通りにしてたら、「将来的に有望な若者で十分反省をしている」っていうことでこんなに早く出ることが出来たよ……だけどね』

悠人は静かな怒気を含んだ声で言った。

『僕はもうピアニストとしてやっていけない。……前科がついちゃったからね。ピアノしかやってこなかった僕にはもう何も残ってないんだ。
 ……それなのに』
「………」
『当の本人の恵ちゃんは、僕が刑務所に入っていた間にちゃっかりと第二の人生を見つけて歩み始めている。
 何故だかわからないけど、刑事になって……相変わらず脳天気に、幸せそうに生き生きと仕事を楽しくしてる。
 本庁のキャリアのお偉いさんの彼氏も出来て、もう最高に人生を楽しんでいるよね。
 ……これって不公平だと思わない?
 僕は、もう何も出来ないのに……何も残ってないのに……彼女だけが幸せな人生を歩むなんて……』

そこで悠人は言った。

『だから、これは復讐なんだ』

「ふざけるな!!」

千秋がマイクに向かって叫んだ。
傍らにいたのだめがはっとしたように千秋の顔を見上げる。

「お前がどんな人生を歩もうと知ったことじゃない!!。のだめがピアニストとしての夢を諦めたことで苦しんでないとでも思っているのか!?
 女が……一人の女性が一生消えない傷を体に残されて、どんな気持ちで生きていると思ってるんだ!!」
「管理官……」

のだめが呟いた。

『その声は千秋管理官ですよね』

悠人がすぐに反応する。

「……そうだ」
『貴方のことも調べさせていただきました。
 お祖父さんが警視総監を務め、父親も警察官僚であったというエリート警察一家に生まれた将来を有望視されたエリート中のエリート。
 なんでまたそんなキャリアでもないただの所轄の変人な女性巡査にかかわっているんですか?
 きちんとした家柄のいい婚約者もいるっていうのにね』
「……そんなこと、お前には関係ない……」

千秋はぐっと悔しそうに唇を噛みしめた。声が掠れる。
悠人は可笑しそうにくくくっと笑う。

「管理官……」

のだめが千秋の手にそっと自分の手を乗せる。

「のだめ……」
「お願いデス……のだめに話をさせてくれませんか?」

千秋はしばしためらった。
自分の手に添えられたのだめの手は、過去の恐怖が蘇っているのか、ぶるぶると小刻みに震えている。顔も真っ青だ。
だが、のだめの表情はすごく真剣だった。

「黒木警視……野田巡査部長が犯人と直接対話がしたいそうだ……」
「……わかりました。そちらとつなぎます」

回線がつながった。
千秋からインカムを渡されたのだめは、しばらく目を閉じて深呼吸するとゆっくりとその瞼を開いた。

「ゆーとくんデスか……?」
『恵ちゃん、久しぶりだね』
「ハイ……」

しばし2人の間に沈黙が訪れた。
口を開いたのは悠人の方だった。

『恵ちゃん』
「……ハイ」
『こうやって話をすると……昔のことを思い出すよね。君はいつも先生に怒られてたよね。ちゃんと与えられた課題曲を弾かないで、自分の好きな曲ばっかり弾いて……
 ……そうそう、覚えてる?ある日、君が僕に弾いてくれた童謡……楽しそうに歌いながら……
「ゆーとくん」も一緒に歌おうよ!!」って笑って僕に言った……』
「ゆーとくん……」
『僕のこと恨んでる?。君がピアニストになるための生命線を断ち切っちゃったもんね。どんなに憎まれても仕方ないと思ってるよ』
「ゆーとくん……」
『シンフォニーホールの解除コード、教えて欲しい?。そうしないと大変なことになっちゃうもんね。君の大好きな管理官もー』
「せからしかよ!!(うるさい)」

のだめは大きな声で怒鳴った。
千秋は呆然としたまま、それを見ていた。

「のだめのことが嫌いなら、のだめだけを狙えばよかとっ!!……なんで他の人まで巻き込むんね!?。
 なんの関係のないたくさんの人達を……なんの関係もない千秋管理官を……巻き込んだんは、のだめ、絶対にあんたを許さんとよ!!
 絶対にシンフォニーホールの爆発も止めてみせるばい!!。
 あんたなんかに……あんたなんかに……絶対に負けんとよ!!」

一気に捲し立てた。
はあ、はあ、と息を切らしている。目からは涙がこぼれそうになっていて、のだめは無言でそれを自分の服の袖でぐいっと拭った。

『……いいよ。そっちがそのつもりなら、そうすればいい。今回は解除コードを教えないよ。じゃあね』

ぶつんと通話が切れた。
千秋は息を呑んでのだめを見つめた。
先ほどまでの震えは止まり、断固たる決意が出来たのかその瞳にもう迷いはなかった。

「管理官……のだめ、シンフォニーホールに行きマス!。絶対に爆発を食い止めてみせマス!!」



「馬鹿じゃないの……?犯人をわざわざ怒らせるなんて……」

彩子は呆然と呟いた。
その時無線で千秋から連絡が入る。

「千秋だ。これから○○シンフォニーホールに向かう。爆弾は必ず解除してみせるから」
「待って!真一!!。勝手なことしないでよ!!ちゃんと私の指示に従って動きなさい!!」

彩子の声もむなしく、無線は途切れた。

「多賀谷管理官……本庁の幹部が心配してる……大丈夫なのか?」
「大丈夫です!私にやれます!」

心配したジャンが思わず声をかけるが、そんな気配りも今の彩子には届かないようだった。

「所轄は何をやっているのよ!その鈍足を使って探し回れって言ってるのよ!マルタイは確定してるのよ!!」

彩子は頭をぐしゃっとかき回した。
いつも冷静で髪一つ乱したことのない彼女にとっては初めてのことだった。

「もう……皆、私の言うとおりにしてれば間違いがないんだから……私の指示に従いなさい!!」




○○シンフォニーホールでは、5000人の聴衆の大きな拍手が鳴り響いていた。
世界のマエストロをゲストに迎えた新東響フィルの演奏会はすでにプログラムの終盤を迎え、最後の曲が始まろうとしていた。
波のような拍手が鳴りやむと、指揮者がオーケストラと向かい合う。
その途端に張りつめる緊張の糸。
やがて、マエストロはゆっくりとタクトを振りかざした。

ホール内の廊下では、のだめと千秋が走り回って爆発物探索をしていた。
しかし、この広いホール内、2人きりで探すにはあまりにも広すぎる。

どこだ……どこにある……。

「今までの流れからいって、ホール内が監視されている可能性がある。……観客達を避難させる訳にはいかない……くそ……いったいどこを探せばいいって言うんだ」
「管理官……のだめにはちょっと心当たりがあるんデス」
「心当たり?」

のだめは勝手知ったる足どりで、迷うことなく真直ぐに楽屋裏に向かった。
関係者の人間が、慌てて2人を止めようとしたが、千秋が警察手帳を見せるとおとなしく道を譲った。
やがて暗い……暗い、舞台袖についた。
舞台ではきらびやかなスポットライトを浴びて有名なマエストロがタクトを振っている。
楽団員は素晴らしい演奏をしていて、会場にいた全ての観客を魅了していた。

……なんだか妙な気分だな。

千秋はこんな事態にもかかわらず、ふと考えにふける。

もしかして……俺は指揮者で……のだめはピアニストで……あの、明るい大舞台で共に音楽を奏でていたかもしれないのに。

ライトを浴びながら、お互いにアイコンタクトを取りながら息のあった素晴らしいコンチェルトを演奏していたのかもしれないのに。

……なのに、何故俺たちはこんな暗い隅っこの方で爆弾探しで床をはいつくばって探している?。

運命という奴は……皮肉なもんだな。

千秋が考えにふけっていたその時、のだめの鋭く、けれどめいいっぱい潜めた声が聞こえた。

「管理官、発見しました!」

見ると、舞台袖の隅の方に今まであったものと同じ起爆装置が備え付けられていた。

「……ここは、のだめがゆーとくんから刺された場所なんデスよ……だから、ゆーとくんが起爆装置を隠すとしたらここ以外あり得まセン」
「………」

千秋はゆっくりとインカムのマイクのスイッチを入れた。

「千秋だ。起爆装置を発見した。遠隔操作式で弾薬はない。今までの奴と同型だ。これより起爆装置の解体に入る」
「待って!真一!!。すぐに爆発物処理班を向かわせるから!!」
「……時間がない。それに、今回はノーヒントだ」

千秋はゆっくりと一個目の蓋を開けた。
そして慎重に起爆装置内に手を近づける。
装置内の配線部分を覆った蓋を取り除いた瞬間、そこには今までと同じ見慣れた3本の色の違うコードがあった。

赤……緑……茶色……。

「管理官……お願いがありマス……」

のだめが静かな声で言った。
千秋は額に脂汗を浮かべながら、起爆装置を睨み付けたままだ。

「なんだ?」
「ここからの起爆装置の解体はのだめがやりマス。管理官はここから待避してくだサイ」
「ばっ……」

千秋は思いがけない言葉に声を失った。

「な……何言ってるんだ!お前!!正気か!?」
「……のだめは正気デス。……もとはといえば、これはゆーとくんとのだめの戦いだったんデス。
 管理官はただそれに巻き込まれただけなんデス……」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!!」

千秋は大声をあげた。
近くにいた楽屋スタッフが顔をしかめたが、それに構っている余裕はなかった。

「……聞いてくだサイ……管理官」

のだめはゆっくりと言葉を繋いでいく。

「……管理官は、ここで死んでいい人間じゃありまセン。……これからずっとずっと上を目指していくべき人なんデス……。
 そして……いつの日か本庁と所轄の枠を取り払って、捜査員全員が皆、正しいと信じたことを出来るようにしてくだサイ……」
「………」
「管理官はここで命を落としちゃ駄目なんデス」
「………」
「のだめは、……管理官に生きていて欲しいんデス」

のだめは最大級の笑顔でふわあっと笑った。

千秋はしばらく黙ったままずっとそんなのだめの言葉を聞いていた。
それから何かを言いかけて……すぐに口を閉じた。

そして……

ぶわっしいいいいいいんんっっっ!!!。

のだめの頭を思いっきり叩いた。
あまりの衝撃にのだめの頭はクラクラと揺れ動いた。

「はうう……痛いデス、管理官……何するんデスか!!」

文句を言うのだめの服の襟を千秋はがしっと掴み上げた。

「……勝手なことばっかり言ってるんじゃねえっっっ!!」
「でも……」

まだ何かを言おうとするのだめの言葉を遮って、千秋は叫んだ。



「……どこの世界にに自分が惚れた女をほっぽり出して逃げる男がどこにいるって言うんだ!!」



……… ……… ………


のだめは目をぱちくりとしたまま千秋を見上げた。

彩子は持っていたペンをポトリと落とした。
黒木はくすりと可笑しそうに笑い、リュカはむすっと不機嫌な表情になる。
シュトレーゼマン、松田、大河内はぽかーんと阿呆の様に口をあんぐり開けたまま元にもどせなかった。
ドゥーン、ユンロン、片平は苦笑いを浮かべる。



………2人の会話は、無線によって「全捜査員」に筒抜けだった。



……… ……… ………


「……とにかく、時間がない……残り30秒だ」
「は、ハイ……」
「お前、どの色だと思う?」

千秋の言葉にのだめは目を閉じて考えた。
今度は一発勝負だ。
失敗することは許されない。
のだめは静かに目を開けると言った。

「……赤デス」
「間違いないな」
「ハイ。……ただのカンですけど」

千秋はフッと笑った。

「不思議だな……俺も、ずっと赤のような気がしてるんだ」
「こうなったら……」
「2人のカンに賭けてみるか」

捜査本部では彩子が金切り声で叫んでいた。

「やめなさい!!5000人の命がかかっているのよっ!!」

千秋とのだめは2人で赤色のコードを取った。
コードを握るのだめの手の上に千秋の掌が重ねられる。

「……行くぞ」
「ハイ」

千秋は渾身の力を込めて……赤色のコードを断ち切った……。





続く。