音楽……。



音楽が聞こえてくる……。



千秋は、その耳に流れてくる旋律に耳を馳せた。



オーケストラの演奏が聞こえてくる……。



様々な多種多様の音色を持つ楽器。
そしてそれを束ねる指揮者が、一つにまとめ上げて大きな音楽のうねりを作る。



まるで津波のように押し寄せる。



ああ、これは俺が最も求めて止まなかった音楽の世界だ。



俺たちは……のだめと俺は……今、素晴らしい演奏を聴いているんだ。




……生きている。




千秋は痛いほどに固く握っていた手を開いてニッパーをぼとりと落とした。
それから同じく固まったままコードを握っているのだめの指を優しく1本1本解いていく。
のだめが我に返ったように千秋を見上げた。

その顔は、今までで見た最高の笑顔だった。





「やった……」
「爆発が……起こらなかった」

捜査本部の会議室内にほっとした安堵の表情が広がる。
黒木は大きく息をついた。

「フン。あいつら、やってくれたよネ」

ドゥーンは桃ヶ丘署に足を踏み入れながらそう言った。
その表情は、言葉とは裏腹に誇りに満ち溢れている。
続くユンロンと片平の顔にも笑顔が広がっていた。

そんな捜査本部をまたしても緊張の空間に陥れるように鋭く電話が鳴った。
途端に緊迫した空気が流れる。


……そうだ。

まだ気を抜いちゃいけないんだった……。


黒木は気を引き締めて受話器を取り、その耳に当てた。

「もしもし?瀬川くん」
『黒木さん……爆発は起こらなかったみたいだね』
「うん、彼らは君に解体コードを教えてもらえなくても自分達で起爆装置を解体したんだ。……たった2人で……」
『………』
「瀬川くん、もうやめようよ」

黒木がゆっくりと言った。

「君が恵ちゃんに固執しているのはよくわかる。……君は恵ちゃんを愛しているんだね」
『な……』

とたんに悠人の声に動揺が走った。

「君は自分でも知らないうちに恵ちゃんに引かれて……その才能に魅せられた。恵ちゃんは君の理想の音楽を奏でるピアニストでもあり……君が世界で一番愛してやまない人なんだ」
『なに……馬鹿なこと言ってるんだよ……』
「だから、君は恵ちゃんを自分の思い通りに動かしたかった。彼女の全てを支配したかった……そうでもしないと彼女は自分のものにならなかったから……」
『……なんで……そんなことがわかる!!』

黒木はふっと微笑むと遠くを見た。

「……わかるよ。だって、僕も恵ちゃんを愛しているから……」

彩子が……そこにいた捜査本部の全ての人間が驚いたように黒木を見た。
インカムのマイクでそれを聞いていた千秋はただ黙ってそれを聞いていた。

『………』
「お願いだ。瀬川くん。もう、やめてくれないか?」
『………』
「2年前……初めて僕が恵ちゃんと会ったのは、病院の白いベッドの上だった。
 彼女はうつろな表情でベッドに横たわり僕の問いかけにも反応しようとしなかった。
 ……彼女は、君に刺された事件のショックで口がきけなくなってしまったんだ」
『……』
それから、僕は毎日毎日、病院に通い詰めた。
 少しでも彼女の力になりたくて……。
 何もかもを失ってしまって、生きていく希望さえ見出せないようになってしまった彼女をほっておけなくて……




無線から流れる言葉をのだめも目を閉じて聞いていた。



脊髄を刺されたことにより、右半身に麻痺が残りピアニストとしては絶望的だということを医者から宣告された時期だった。
あの頃は何も考えられなかった。
ベッドに横たわったまま、来る日も来る日も天井を眺めていた。
誰の言葉も心に入らず、誰の姿も目には見えず。
自分が生きている意味。
それすらもわからなかった。

そんな時だった。
若い……その年齢にしては少し地味な、でも誠実そうな刑事がよく訪れてくれるようになったのは。

「え……っと。……僕、くろ、黒木……といいます。恵さん……恵ちゃん……でいいかな」

うつろな視線を向けたのは、事件の後訪れる無機質な刑事達と、どこか彼が違っていたからだ。

「警察は……犯人を逮捕するだけが仕事じゃないんだよ……」
「………」
「僕は……君の、……君の力になりたい……と思ってる……」



そう言って、のだめに触れた手は、とても暖かかった。



それから、その刑事は足しげく病室に通ってくれた。
晴れの日も、雨の日も。
その手にはいつも、けして派手ではない花束があり、冬の最中でものだめの病室には花が絶えることはなかった。
無口だけれども、振り向くといつも柔らかい笑顔をくれる。
その存在が、のだめの心を優しく癒してくれていくのがわかった。



どうして、黒木くんはそんなにのだめに良くしてくれるんデスか。



……のだめが……可哀想だからデスか?。



「やがて半年くらいたったころかな。やっと彼女に笑顔が戻り、口がきけるようになったのは……」



……警察だからだよ……。



黒木は言葉を失い、……しばらく間を開けて、ぎこちなくこう答えた。



……警察は、市民の体と心の安全を守ることが仕事だから……。



それを聞いたのだめは、寂しそうに微笑んだ。


警察って……素晴らしいお仕事ですネ……。



のだめは、黒木くんにとても感謝していマス……。



のだめは……。



言いかけて途中で言葉を呑み込んでしまったのだめを見て、黒木は悟った。



のだめの気持ちも、自分の気持ちも。


彼女が可哀想だから?。
こうすることが警察官の義務だから??。


そんな上等な理由じゃない。


そんなのただの言い訳だ。




「その時に、僕は彼女を事件の被害者としてではなく、一人の女性として愛してることに気づいてしまった」



生きる目的を失って、弱っている女性に……付け入っているただの薄汚い……人間だ。



「それと同時にそんな不純な気持ちではもう、彼女のそばにはいられないと思った」



 だからロスに……。



ジャンが呟く。



「瀬川くん」

黒木が呼びかける。

「恵ちゃんは君が思っているよりも、とても芯が強い女性だ。
 君がいくら傷つけようとしても必ず立ち直る。
 どんなことが起きようとも、誰も彼女の心をへし折ることなんて出来やしないんだ。
 そして彼女は、その強さと明るさで、周りの人を幸せにするためにいつも……いつも行動しているんだ」
『………』
「お願いだ。もう、こんな馬鹿なことは止めて自首してくれないか?」
『……もう、遅いよ、黒木さん』
「何?」
『爆弾は後3つ仕掛けてある……1時間後だ』
「!!」
『それと……』

その時、楽屋裏にいたのだめは、ふとドアの隙間から見知った顔を見つけた。
彼女の幼馴染みである悠人は拳銃を手に握っていた。

……そして、その銃口は千秋に向けられている。

「管理官!!危ない!!」

ガアン!!。

一瞬何が起こったかわからなかった。
千秋はのだめが自分に覆い被さるのを感じた。
銃声の方角を見ると、一人の男性が震える手で拳銃の引き金を握っている。
その銃口からは煙が出ていて。

「……のだめ?」

千秋はぐったりしたのだめを抱き抱えるように背中に手を回した。
その手はすぐに生温かい血で真っ赤に染まっていった。

「のだめっ!!のだめっ!!」

千秋は名前を呼び続けるがのだめの意識はない。
銃声により、音楽が中断される。
演奏中であった劇場内は、突然パニック状態になった。

様々な観客達の悲鳴が飛び交い、誰もが出口に殺到した。

「……何?何が起こったの!?」
「……のだめが撃たれた」

無線で聞いていたドゥーンが目を閉じて上を向く。

「それよりも被疑者は!?被疑者はどうなったのよ、真一!!」

千秋は無線には答えずに、パニックで逃げまどう一人を捕まえて言った。

「救急車だ!!至急、救急車を呼んでくれっ!!」
「真一、それよりも被疑者確保よ!!」

千秋はドアに立って呆然としている悠人を見た。
彼はでくのぼうのように突っ立ったままで、のだめの背中から血が流れ続けるのを呆然と見ていた。

「……こんな……つもりじゃなかったのに……」

そう言うと悠人はドアの外へ姿を消した。
千秋は追おうともしなかった。
それよりも抱き抱えているのだめの体がどんどん冷たくなっていくのが、ただそれだけが怖かった。
少しでも出血を止めようと強く体を抱きしめる。

「のだめ……のだめ……」

その時、ふと微かにのだめが目を開いた。

「かんり……かん……」
「のだめ……大丈夫か……」
「か……んりかん……のだめ、わかり……ました……」
「もういい!!口を開くな!!」
「……めりー……さんの……ひつじ……です……」

そう言うとのだめは意識を失った。

「……のだめーっっ!!」












続く。