約 束2




まだ初夏だというのに、この地方の日差しは 強い。
地中海の恩恵を深く受けるこの地域は、夏が暑くそして乾いている。
日中が40度を超す暑さだが、湿度は高 くないので日本のようにむっとするような気候ではない。
汗は出るけど流れ出すほどもない。
炎天下の日差しはT シャツの生地を通して肌に突き刺さりちくちくと痛いくらいだ。

ここではサングラスは自然と必需品となる。
そ の色濃いブランドのサングラスをかけながらリュカはいつものようにのだめの家に降り立った。

勝手しったる家であ るから、ドアを開けて中に入る。
この田舎風の家は窓さえ開けておけば、風が通るので日中でも部屋の中の石の床がひんやりと心地良い。
そ れにしても母と娘の2人暮らしで、この鍵もかけてないこの不用心さはどうかと思う。
一度きつく注意してやらねば……と思いつつも部屋 に入って声をかける。

「のだめ……琴音……?」

返事がない。
留 守なのだろうか。
だが、自分が今日ここに来るということは前もって伝えていた筈だ。

もしか してと思い、リュカはそっと寝室を覗いてみた。

……いた。

その部屋は 床には陶製のタイルが敷き詰められ、壁と天井は白いしっくいで塗りこめられている。
大きなベッドには、薄い毛布をまとったまま幸せそ うな寝顔で昼寝をしている母と娘。
風が白いカーテンをなびかせて2人の頭上をいったりきたりしている。
リュカは そっとベッドサイドに座った。
のだめは幸せそうな顔をして、6歳になる娘の琴音を抱きしめて寝ている。
どちらが 子供かわからないくらいあどけない寝顔だ。

さらっと風がふいて、のだめの髪が顔にかかった。
く すぐったそうにいまだ夢の中で笑うのだめ。
リュカは、熟睡しているのだめの額にそっと手をかけると髪をかき上げた。

こ んな無防備な寝顔を……片思いとはいえ惚れている男に見せるのはどうかと思う。
つい悪戯心が起きてしまうのは男としては当然のことで あり、責められることじゃないんじゃないだろうか?。
うん。そうだ。
……これは、のだめが悪いんだ。
リュ カは無理矢理に自分を納得させると、まるで眠り姫のような彼女の上にゆっくりと覆い被さるように身を屈め顔を近づけた。
そのふっくら と艶やかな唇にあと少し……の距離に近づいた瞬間。

「ん……」

琴音が リュカの気配を感じたのか、もぞもぞと動きだした。
途端にヒイッと声をあげ、ざざっっと飛び上がり壁に後ずさるリュカ。
そ んなリュカを琴音はまだ寝ぼけたまま上半身を起こして、目をこすりながら見る。

「……リュ、カ……?」
「や、 や、や、やあ、琴音……」

声が裏返っているのは、決して後ろめたい気持ちがあるからとかそんなんじゃなくって。
の だめの寝込みを襲おうなんて、そんな卑怯なことしようとしたとかそんなんじゃなくって。
聞かれてもいないのに、言い訳が頭の中でぐる ぐる回っているリュカの背中には知らず知らずのうちに冷汗が噴き出していて。

そんなリュカの心の葛藤もつゆ知ら ず、完全に目が覚めたのか琴音の顔がパッとひまわりのように輝いた。

「リュカ!!」

そ して、隣に寝ている自分の母親であるのだめを揺さぶって起こす。

「ねえねえ、のだめ!!リュカが来たよ!!」
「う…… ん……」

のだめが気だるそうにゆっくりと身を起こす。
その目が寝起きで赤く潤んでいるの が、色っぽくて少しドキっとする。
のだめもリュカの顔を見た瞬間、とても嬉しそうな笑顔を見せた。

「リュ カ!!いつ来たんデスか?」
「あ……いや、その……ついさっき……そう、さっき。うん」
「すみまセン……琴音と 2人で出迎えようねって話してたんデスけど、なんだか風が気持ちよくってついうとうととしちゃいました」

あへ 〜。寝顔を見られちゃいましたね〜と屈託なく笑うのだめの姿がとても愛しくて。

「リュカ〜!!」

琴 音がリュカに飛びついた。
そのまま腰にしがみついたまま離れない。

「琴音……僕、動けない んだけど……」
「じゅうでんしてるの〜」
「……それ、どっかで聞いた台詞だね……」

腰 にしがみついたままリュカを見上げてにぃっと笑う琴音の姿に苦笑するリュカ。
のだめが声をかけた。

「リュ カ、お腹は空いてないですか?」
「うん……別に……あ、もしかして、のだめ、何か作ってくれてたの?」
「イエ」

と のだめはにっこり笑った。

「リュカが来たら皆で買い出しに行こうと思ってたんデス。うちの冷蔵庫、ちょうど今、 空っぽなんデスよ!!」
「……あ、やっぱり……」

リュカは腰に琴音を巻き付けたまま、がっ くりと肩を落とした。





せっ かくなので近所の市場に3人そろって買い物に出掛けることにした。
……近所と言っても、のだめの家からは車で30分以上かかる距離に ある小さな村で開かれているマルシェ。
駐車スペースに困るほどもない、村の周辺の人しかこないような小さなマルシェだった。
マ ルシェは毎週決められた日に、決められた町でマルシェが開かれる。
その規模や品物は町によって違う。
ここではこ じんまりとした食料品のみしか売っていなかったが、それでもその食品はどれも新鮮そのもので。
色彩豊かな夏の日差しをいっぱいに受け た果物や野菜が色とりどりに無造作に山積みにされている。
そして香り豊かなハーブ、さらには肉やチーズなどの農産品が市場をにぎわせ る。
地中海の海の幸だってふんだんに売られている。
こんなに食材が豊富なのだから、何を作ろうかと頭がそのこと でいっぱいになってしまう。
肉屋に行けば、ハーブの香たっぷりのハムやらソーセージ,お惣菜が並んでいる。
パン 屋に行けばボリューム感溢れるフランスパンもあるし,バゲットサンドを買えば、これまたハーブの香のサラダなんかがどっさりつまっていて食欲をそそる.
も ちろんミルフィーユやレーズンデニッシュなどのデザートもある。

「あれ、欲しい〜」

と 琴音が指さした方向には、串刺しのまるごとのチキンがグルグル回りながら焼けていて、なんとも美味しそうな匂いが漂っている。

「の だめも欲しいデス〜」

のだめも指をくわえてそのチキンを眺めた。
そして2人は申し合わせた ようにニッと笑うとそれぞれがリュカの腕に巻き付いた。

「リュカ、買って〜」
「リュカ、の だめもあれ食べたいデス〜」
「琴音、チキン大好き!!」
「のだめも、大好きデス!!」
「つ いでにリュカも大好き!!」
「のだめもデス」

ついで……って何だよ……。
リュ カは両手にまとわりつく2人を交互に眺めては、はあっとため息をついた。

「……わかった……わかったから。ちゃ んと買ってあげるから2人とも離れて……」
「やったーーーーっっ!!」
「今日のディナーは豪華ですネ♪」

手 を取り合ってきゃあきゃあいいながらぴょんぴょん飛び跳ねる母娘。
まるで母娘というよりも友達同士のようだと思いながら、リュカはポ ケットの財布に手をやる。

まったく、子供が2人いるみたいだよな……。

す でに父親の心境になったリュカ・ボドリーであるが、実はまだ25歳独身、彼女募集中だったりする(笑)。






露 店をあますところなく周りたくさんの戦利品を両手に抱えたところで、屋台のオープンカフェでランチのパエリヤを食べながらリュカが言った。

「そ ういえば……のだめ。例の仕事引き受けたんだって?」

のだめはスプーンを口に運びながらピタッととめた。
何 かを言いたそうで……でもどうしても口に出して表現できないような雰囲気がそこにはあった。
長いつき合いのリュカにはそれがわかって いたので、それ以上敢えて深くは聞かなかった。
その代わりに琴音が賢そうな目をくるくるさせながら、リュカに報告する。

「あ のね、あのね、リュカ。今度、のだめは大きなホールでオーケストラと一緒にコンサートやるんだって!!」
「うん、知ってるよ。エリー ゼっていうこわ〜いおばさんから先に聞いちゃった」

当のエリーゼが聞いたら鬼のような顔をして怒るだろう台詞を 言う。

「なーんだ!もう、びっくりさせてあげようって思ってたのに〜!!」

ぷ うっと頬をふくらます琴音にのだめも苦笑いする。
そしてリュカをちらっと見た。

「リュカ は……もしかして、そのために、こっちに来たんデスか?」
「ん?いや?。昨日言っただろ?。コンサートツアーの間が空いたから、 ちょっとこっちに羽を伸ばしに来るって。琴音にも会いたかったし、ね」

そう言ってリュカは琴音にウィンクをして みせた。

「ね〜っ!!」

琴音は嬉しそうににこおっと笑う。
そ んな2人を複雑な表情で見るのだめに、リュカはさりげなく話題を変えた。

「……それよりも、今晩僕の泊まるス ペース、ちゃんとあるの?」

なんならホテルに泊まるけど……と言いかけたリュカに、のだめが、思いっきり目をそ らした。

「あー……えーっと……その……。
 確か、この前模様替えをしようとして、邪魔な クローゼットとか絨毯とかをとりあえず客室に置いて……。
 ……こないだ冬物片づけようとして……全部あの部屋にとりあえず置きっぱ なしで……。
 琴音のいらなくなったおもちゃとか絵本をを片づけようと思って……とりあえず、あそこに……」

リュ カはため息をついた。
とりあえず……の言葉どおりにいらない物を詰め込まれた部屋の惨状が目に浮かぶようだ。
そ れでものだめはリュカの手をがしっと握りにっこり笑った。

「でも、ぜひうちに泊まってくだサイね!!琴音も喜び ますし……」
「わかった……帰ったら掃除だね……」

どうせ最初からそのつもりだったのだか ら、それはそれでかまわないのだが。

「わーい、掃除、掃除っ♪」

琴音 はのだめの娘という割には掃除が好きだ。
これはきっと父親の方に似ているのだろうとリュカは思っている。
琴音が 2人の周りをぴょんぴょん跳びはねるのを、リュカは愛しいものを見つめるように見ていた。





の だめがコンサートの代役の仕事を受けたという話を聞いた時、正直リュカは少し驚いた。

……千秋の死後、ピアニス トとしての地位を引退し、表舞台から完全に退いてしまったのだめ。
そんな彼女の才能を惜しみ所属事務所のシュトレーゼマンやエリーゼ など、説得しようとする人も少なくなかった。
リュカものだめを復帰させようとずっと説得し続けてきた一人だった。

…… だが、一年前くらいだろうか。

リュカの中で考えが変わった。

のだめを 躍起になって第一線に戻そうとするのをやめた。

そして忙しい仕事の合間を縫って、この田舎の小さな家でひっそり と暮らしている母娘を訪問する。
散らかった部屋を片づけ、料理を作り、冷蔵庫を満杯にして、琴音を遊びに連れて行く。
た だそれだけ。
音楽の話は、のだめがリュカのコンサートの話を聞きたがった時にしたり、琴音のピアノの上達ぶりを聞くくらいで。
敢 えて、のだめの今後については言及しなくなった。

……それは、リュカがのだめの復帰を諦めたという訳ではない。

何 かリュカ自身にしかわからない、言葉でいいつくせないような確信のようなものを感じたのだ。

きっとのだめはいず れ音楽の世界に戻ってくる。
それはきっと運命が定めたことだから。

大丈夫。

今 は立ち止まっていても、その時期がくれば他の誰もが促さずとも、のだめは一人で歩き出すだろう。

リュカはそう信 じていた。

そして……それからしばらくたった頃からだろうか。
のだめは、何の前触れもなく 音楽活動を再開した。

それは、地元での小さなリサイタルや、サロンコンサートなどで、けっして大きな舞台ではな かったけれども。

それでも少しずつでものだめが、音楽活動への意欲を見せてきたというのはリュカにとって喜ばし いことである。

一時は退いたといっても、音楽会におけるのだめの名はいまだ健在であり、小さなコンサートといえ ども注目度も高く、評判もいい。
エリーゼなどはもっと仕事量を増やしたそうだが、のだめは自分のペースを崩そうとはしなかった。

琴 音のそばにいて、ゆっくりやっていきたいという気持ちは変わらないらしい。

だが、今回の話は違った。

こ の田舎からちょっと離れた大きい都市に拠点を置く伝統あるオーケストラの定期演奏会。
けっして派手ではないが、地道で堅実な演奏を し、地元の定期会員から愛されているという話はよく聞いている。
そのオーケストラが、有名な指揮者を客演として招いてピアノ協奏曲を 含めたコンサートをする予定だったのだが。
予定されていたピアニストが急病で、代役を立てることとなった。
その 話が何故かのだめに回ってきた。
どうも、客演予定の指揮者の意向らしい。

のだめにとっては 6年ぶりのオーケストラとの共演となる。

ついにその時がやって来たのだ。

リュ カがコンサートツアーの間が空いたなんて言ったのはもちろん嘘だ。
「ピアノの貴公子」と呼ばれる売れっ子の若手ピアニストである彼の スケジュールはいつも詰まっていた。
それを事務所と大喧嘩をしながらも無理矢理に休暇を奪い取ってきたのだ。

そ う。

全てはのだめの復活を見届けたい……と、それだけのために。




「ど のみち会場までは遠いんだから、送っていくよ」

次の日、リュカはコンサート会場となるホールまで車を走らせてい た。
琴音は、昨日「リュカと一緒に寝る!!」とおおはしゃぎして興奮したのか遅くまで寝ようとしなかった。
その せいか後ろの席で、うとうとと頭を窓にもたれかけたまま早くも夢の中だ。

「すみまセン……」

せっ かくのオフなのに……とのだめはリュカに申し訳なさそうに言う。
そんなに謝ることはないのになとリュカは寂しく思う。

の だめとリュカは、学生時代からの友人という一定の距離をいまだに保っている。

お互いにその境目を一生越えること はないのだろうとわかっていた。

それでも、こうやってのだめや琴音のために何かができるのは嬉しいことであり、 それはのだめにはいつも言っているのだが。
のだめにとっては友人にそこまでしてもらうのは気の毒だ……という気持ちがあるのだろう。

そ れにしても……今度の公演。
指揮者自らが、ピアニストにのだめを……との指定。
もちろんありがたいことではある し、のだめにとっても、本格的な復帰のチャンスでもある。

ただ。

…… その指揮者が……問題……なんだよな……。

リュカはこっそりため息をついた。

く しゅん!!。

突然、のだめがくしゃみをした。

「大丈夫?クーラー入れ すぎかな?」
「いえ、ちょっと昨日の夜冷えちゃったみたいで……」
「まーた、お腹出して寝てたんだろ」
「ムッ キャーッッッ!!。琴音と一緒にしないでくだサイっっ!!」

ムキになって頬を膨らますのだめに、リュカはハハハ と笑った。

……こんなたわいもない会話がいつまでも続けばよいと思った。





「の だめちゃん!!久し振り!!」

そう言うとその男は、つかつかと歩み寄り、両腕を広げてのだめを腕に抱き込もうと する……。

が。

すっとリュカは、のだめの前に立ちはだかってそれを食 い止めた。
そうして目の前の男をにっこり笑いながらも鋭い目で牽制する。

「……お久しぶり ですね。松田さん」
「なんだ……Un fils(坊や)、いたの」

これ以上はのだめには一歩も近づけさせない と言わんばかりのリュカを見て、今回の指揮者……松田幸久は仏頂面になった。

松田幸久。

パ リのルセール管の常任指揮者の経験もあり、現在ではもう10年近くも日本のMフィルの正指揮者として活躍していた。
もはや中堅どころ としては世界でもかなりの地位を築いている彼は、積極的に世界各地を精力的に駆け回っている。
世界でも少しずつ名を上げてきている、 この世界では珍しいアマチュアのR☆Sオーケストラの指揮者もやっているという。
リュカも何度か彼と共演したことがある。
昔 に比べて多少年齢を重ねた分だけ落ち着いてきてはいるが、そのダイナミックさと音楽にかける情熱は健在だ。
とても素晴らしい指揮者だ と思う。

……だが。

「のだめちゃん、久し振り♪」

ガー ドしているリュカの脇をくぐるようにして、のだめにひょいっと声をかける松田。

「ハイ。本当にお久しぶりデス ね」
「なーんだか、また綺麗になっちゃったね。とても子供がいるようには見えないな〜」

松 田は、のだめの手をさりげなく握り、そのすべすべした感触を味わっている。

がしっ!!。

リュ カはその松田の手を掴んでのだめの手から引き離すと、ぎゅううっと強く握りしめた。

「……っんとに、お久しぶり ですね、松田さん。この間、共演したのはいつでしたっけ」
「一昨年のニューヨークでの公演だったかなあ?」

ぎゅ うう……松田も、リュカの手を強く握り返す。

「違いますよ。イタリアでのクリスマス・コンサートでしたよ。もう 忘れたんですか?やっぱりもう年ですかね」

ぎゅうう。

「いやいや、坊 やみたいな青二才にはまだまだ負けないつもりだけど?」

ぎゅうう。

「そ ういえば、この間のハリウッド女優との噂話は本当なんですか?結婚寸前で破局!?って言われてた奴」

ぎゅうう。

「い やあ、俺も坊やの女性関係の噂はよく聞いてるよ。あれは?あの美人ヴァイオリニストとは結婚秒読み……って言われてるみたいだけど?」

ぎゅ うう。

「そんな……僕もまだまだ未熟者ですから、先輩を差し置いて結婚なんてまだまだ考えられませんよ」

ぎゅ うう。

共に額に脂汗を流しながら、よりいっそう力を込めて強く握手を交わす2人を見て、琴音が首をかしげた。

「ど うして、2人ともあんなに長く握手してるの?」
「リュカと松田さんも久し振りの再会ですからネ。きっと嬉しいんですヨ」

と その光景を、呑気にも微笑ましく思って見ているのだめだった。





の だめは、スタッフと打ち合わせがあるとのことで、そちらに呼ばれて行った。
そしてリュカと琴音はなんとなく話の流れから、松田の控え 室でコーヒーを(琴音はジュース)飲みながら待っていることになった。

「琴音ちゃんはいくつになったの?」
「6 歳!!」

琴音はにっこりと笑って言う。
普段から人なつっこくて誰とでも仲良くなれる気質の 琴音だが、松田には初対面にもかかわらず、すっかり懐いてしまったようだ。
きっと松田が、外見よりずっと子供受けするタイプの人間な のだろう。
だが、それがリュカにとってはなんとなく面白くない。

「お母さん、そっくりで色 白さんだよね。きっと美人になるだろうな〜」
「……6歳も松田さんの射程範囲内に入るんですか?。もしかしてロリコンの気でもあるん ですか?」

冷たい視線を送るリュカに、松田は肩をすくめてやれやれという表情を見せた。

「…… そんなに警戒心を露わにしなくったっていいじゃない」
「だいたい、どうして今回の代役ピアニストにのだめを指定したんですか?」
「だっ て、久し振りにのだめちゃんに会いたかったんだも〜ん」
「もういい年なんですから、もんはやめてください。可愛くないですから」
「相 変わらず手厳しいことな〜坊やは。そんなに俺がのだめちゃんを指名したことが気に入らない?」
「そりゃそうでしょう。なんてったって 松田さんはこの世界で有名ですから。誰彼かまわずに共演者に手を出すっていう……」
「人聞き悪いこというな〜」
「手 を出すって何?」

琴音が無邪気な瞳でリュカに聞く。

「え……と、そ の」
「誰とでも仲良くできるってことだよ。琴音ちゃん」

松田はにっこりと笑って言った。

「今 日はリュカと一緒に来たの?」
「うん!!。リュカが昨日、うちにお泊まりしたんだ!!」
「へ〜〜」

に やにやと笑いながらリュカを見る松田の視線は何でもお見通しのようで、悪いことをしている訳でもないのに後ろめたい気分になる。

「い や……その、ちょうどオフになったから遊びに……」
「ツアー真っ最中だって聞いてたけどなあ。こんな所でバカンスを過ごしている暇は ないと思うけど」
「………」

リュカは言い訳することもできずに、口をへの字に曲げてむすっ とした表情になる。
それを見ている松田の目はとても愉快そうで。

「あ、そうだ!」

ポ ンっと松田は何かを思い出したかのように手を叩いた。

「隣の部屋のスタッフルームに、差し入れされた美味しい ケーキがある筈だよ。琴音ちゃん、隣の部屋に行ってもらってきておいで」
「え!!本当!?わーい、行ってくるね!!」

琴 音はにこにこしながら、ドアを開けその部屋を出て行った。
後に残されたのは、リュカと松田の2人だけ。
リュカは 振り返ると、注意深く、ゆっくりと松田に尋ねた。

「……どういうつもりですか?」
「何 が?」

松田はしらっとしている。

「……何か僕に言いたいことがあるん じゃないんですか。琴音を追い出したりして」

松田はふっと笑うと椅子から立ち上がり、壁にもたれかかると煙草を くゆらせた。

「まあ、そんなに怖い顔するなよ、坊や」
「……その坊やっていうの、やめてく れませんか?」

そうなのだ。
この松田という男と初めて共演したのは、確か17歳の頃だっ た。
その時からずっとこの男はリュカのことを「坊や」と呼ぶ。
確かに松田の年齢からすれば、まだまだリュカはひ よっこにしか過ぎないのかもしれない。

だが、この時ばかりは無性に腹が立った。

「久 し振りに会ったと思ったら、坊やがなーんか楽しそうなことやってるなあって思って」
「………」
「……つい笑っ ちゃったんだ」
「……どういう……意味……ですか……?」

リュカの声が掠れる。
松 田の目は、リュカが気づかれないように心の奥底に隠しているものを見通しているかのように、鋭く光っている。
リュカはまるで蛇に睨ま れた蛙のようになってしまって動けない。

「琴音ちゃんの父親でもないのに父親のフリ。のだめちゃんの夫でも恋人 でもないのに独占欲丸出し」
「………」
「……楽しい?。……家族ごっこ」
「……!!」

そ の瞬間、カッと頭に血が上った。
リュカは椅子からガタンと立ち上がり、拳を強く握りしめた。

「…… あんたに、僕の……僕たちの何がわかるって言うんだ……」
「わかってるよ」

松田は不敵にニ ヤリと微笑んだ。

「……お前は千秋の代わりになりたいんだ……」
「………」
「…… 本来なら千秋のいる筈だったポジションにすっぽりと収まりたいんだ……」
「………」
「……そして、のだめちゃん と琴音ちゃんを誰にも渡さないようにと必死になってあがいてるんだ」
「………」
「……みっともないな……」

ド ンッ!!。

リュカは松田の襟元をぐっと掴むとそのまま全身の力で壁に押しつけた。
唇をきつ く噛みしめ、目は怒りの炎で燃えている。
もう片方の手は固く握りしめられたままブルブルと震えていて、今にも殴りかかりそうな勢い だ。

「……おいおい、勘弁してくれないか。そろそろゲネプロが始まる時間なんだよな〜」
「………」
「本 当のこと言われたからって逆上するなよ。……ったくこれだから若いって嫌なんだよ」
「………」
「……青臭くって 吐き気がするね」
「!!」

リュカが今度こそ一発御見舞いしようと拳を振り上げた瞬間。

「リュ カ〜ケーキ、たくさんもらったよ〜」
「ごめんなサイ。遅くなっちゃって。今、そこで琴音と会ったんですヨ」

不 意にバタンっとドアを開けてのだめと琴音が入って来た。
壁に松田を押さえつけたままの状態のリュカと、ばったり目が合う。


………  ……… ………


しばしの沈黙。

先に口を開いた のはのだめの方だった。

「……琴音。今、リュカ達は取り込み中みたいだから、あっちでケーキ食べましょうネ」
「な んで?どうして?2人とも何をやってるの?」
「しっ……ちょっと子供にはわからない大人の事情なんデスよ」

そ ういうとのだめは琴音を外へ先に押し出すと、2人に気まずそうな笑顔でぺこりとお辞儀をした。

「取り込み中のと ころ、どうもすみませんでしタ」
「……のだめちゃん?」
「……あの、のだめ……ちょっと……」

松 田とリュカの制止もむなしくのだめは部屋をそそくさと出て行った。
後に残された2人は呆然と立ちつくすだけだった。





ゲ ネプロが始まった。
本番と全く同じ条件で行うこのリハーサルを、幸いにもリュカと琴音は客席から見学することを許された。
目 の前で舞台にひな段ができ、パイプ椅子が並べられて、着々と準備が整いつつあるのを、琴音は物珍しげに見ていた。
大勢のスタッフ達が 忙しそうに走り回っている。
たいがいはディレクターであったり、音響だったり、照明、マネージャーだったりするのだが。
こ の舞台前のぴりりと緊張した空間を、客席から眺めるのはなんとなくリュカは不思議な感じがしていた。
リュカは琴音の方をちらっと横目 で見た。

「……琴音……」
「ん?なあに?」
「あの……さっきのことだ けど……」
「さっきって?」
「その……松田さんと僕のことだけど……のだめ、何か言ってた?」
「あ あ、あれね。うん」

琴音はリュカの方を見ると無邪気な瞳でこう告げた。

「…… あのね、世の中にはいろいろな愛の形があるんだって」
「……は?」

予想もしない琴音の言葉 にリュカは口をあんぐりと開ける。

「どんな形であれ、人を愛するということはとても素晴らしいことなんだから、 それはそれできちんと受け止めてあげなくてはいけないよって」
「……あ、あの……」
「あとなんだかぶつぶつ言っ てたかなあ……『だから松田さんもリュカも結婚しないんデスね……』とかなんとか」

……… ……… ………

「えーーーーーーーーーっっっ!! それ、どういうことーーーーーーーーーっっっ!!」

リュカは思わず大声を出してしまい、周囲のスタッフからじろ りと睨まれる。
慌てて口を塞ぐリュカだが、ショックは隠せない。

「リュカ〜。ちゃんと静か にしてないと、ここから追い出されちゃうよ」

人差し指を口もとで立てて、しーっとする琴音を尻目にリュカは頭を 抱え込んだ。

………どうしてそんなことになってるんだっっ!!

全くの だめの思考は本当に読めない……。

………後でちゃんと誤解を解いておかないと……。

リュ カがぶつぶつと一人で呟いている間に、リハーサルの時間がやってきたらしい。
楽器を持った楽団員達が舞台袖から現れて、次々に自分の 席に着席していく。
本番と違うのは、団員達が正装ではなく、普段着姿のままだということだけで。
そして、白い カッターシャツ姿の松田がのだめを伴って現れた。
何か団員達に言っているのは聞こえるのだが、リュカ達が座っている位置が遠いせいか その内容はわからない。
ただ、のだめがぺこりと団員達に頭を下げ、拍手が湧き起こったところを見ると、飛び入りのピアニストの紹介と いったところだろうか。

のだめははたしてうまく演奏できるのだろうか。

6 年間、全くオーケストラとの舞台に立ってなかったとはいえ、のだめのピアノの腕は劣ってはいない。
それは昨日、リュカ自身がその耳で その演奏を聞いて確認した。


「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調  op.23」

チャイコフスキーが作ったピアノ協奏曲の中で最も有名な曲であるこの曲。
3楽 章からなり、全編を通して叙情感がみなぎり、豪壮なピアノの独奏部が巧みに配合されて、ロマン派らしい華やかさに溢れた名曲である。
チャ イコフスキーはこの曲を名ピアニスト、ニコライ・ルービンシュタインに進呈しようとしたが、「無価値で演奏に値しない作品だ」と酷評を受け、代わりに大指 揮者ハンス・フォン・ビューローに捧げた。
現在も、数あるピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲である。

こ の、ピアニストの登竜門といわれるほどの難曲を、のだめはブランクなんかを感じさせないくらいに堂々と決然として多彩な音で弾きこなした。
本 当にこれが6年間、全くコンサートを行っていないピアニストだろうかと思うくらいに、それは完成度が高かった。

後 はオーケストラとうまく合わせられるだけ……が問題だが。


大丈夫。

い ける筈だ。


リュカは緊張のあまりぎゅっと肘掛けを握りしめる。


そ して、のだめがピアノの椅子に座り、松田も指揮台に立つ。


……その瞬間、リュカは、はっと 目を見開いた。


一瞬、指揮台に立った白いカッターシャツの松田の後ろ姿が……千秋に見え た。

もちろん、そんな筈はないのに。
体格も何もかも違う、似ているのはただ日本人で黒い髪 の毛だということだけなのに。


……どうしてそんなことを今、この瞬間に思ったのだろう。


ふ とした不吉な既視感にリュカはブルっと頭を振ってその考えを頭から追い出す。

今はのだめの演奏だけに集中しなく ては……。




コンマスが立ち上がり、オーボエの首 席がAの音を吹く。
チューニングだ。
オーボエがチューニングをやることについてはいろいろな説がある。
歴 史上古くからオーケストラに存在しているということや、開放弦のAが音域的にちょうど良くて目立つ音色で長く延ばせるからだとか。
こ のチューニングの場面になると、例え観客として見ている立場であっても、気持ちがぴりりと引き締められ、そのおごそかな響きに期待に満ちる。

松 田の指揮棒を持っている右手がゆっくりと振り上げられた。
それが振り下ろされた瞬間、堂々たるホルンの導入旋律が始まる。

第 1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。

非常 によく知られた雄大な序奏はシンフォニックで壮麗であるが、特徴のあるこの序奏の主題は、この協奏曲の残りの部分では二度と再現されない。
続 いて豪快なヴァイオリンが松田の指揮によって導かれる。
そして、ついにピアノがその主題を引き継いで両手を使ったオクターブの叩きつ けるような和音を打ち鳴らす瞬間が訪れる……。


……しかし。



「!?」


リュ カはいきなり立ち上がった。

ここで入ってくる筈のピアノの独奏がいくら待っても聞こえて来ないのだ。
楽 団員も皆、とりあえず曲は演奏し続けているものの、不安そうな顔できょろきょろと辺りを見回している。
松田の指揮棒がピタリと止まっ た。

……その手は無造作に脇に下ろされる。

それと同時に、オーケスト ラの演奏も中断された。
ガヤガヤと騒がしくなる舞台。

その瞬間、リュカは見た。

ピ アノにずっと向き合っていたのだめの体が、ふらっと揺れて床に椅子とともに倒れる姿を。

「のだめっっ!!」

リュ カは叫びながら走り出した。







続 く。