「の
だめっ!!」
リュカはすぐさま舞台に駆け上がると、突然の事態に呆然と立ち尽くみ何も出来ずにいる団員達を尻目
に、倒れていたのだめを抱き上げた。
のだめは意識がなくぐったりとしていて、リュカはその異常に気づいた。
……
すごい高熱だ。
いつの間に。
……こんなに……。
……
さっきまであんなに普通に笑顔を見せていたのに。
「……のだめちゃん、どうした……」
い
つの間にか松田が側に来ていた。
この男にしては珍しく神妙な顔をしている。
「わかりませ
ん、でも熱が……」
松田はのだめの額に手を当てると、眉間に皺を寄せこう言った。
「と
りあえず近くの病院に行った方がいいな。スタッフに案内させる」
その時、後ろから叫ぶ声が聞こえてリュカは振り
返る。
「……おかあさんっ!!」
いつもは「お母さんって呼ぶんだ
よ」って言い聞かせても絶対に「のだめ」としか自分の母親を呼ぼうとしない琴音が、泣きながらこちらに走ってくるのが見えた。
そ
のまますぐに病院に行った。
のだめが医師の診察を受けている間、リュカは怯えて震えている琴音を抱きしめていることしか出来なかっ
た。
……そうじゃない。
琴音を抱きしめることでリュカ自身が不安から逃れようとしているのだ。
医
師が姿を見せる。
リュカは行きの車でのだめが寒そうにくしゃみをしていたことや、朝から食欲がなかったことを告げた。
コ
ンサート前で緊張しているせいだとばかり思っていたのだが……。
とりあえず主立った症状が他にないのでただの風邪ではないかとの診断
に、リュカも琴音もほっと胸を撫で下ろす。
だけど、熱が高く衰弱しきっているので、今晩は入院して様子を見ましょうとのことだった。
リュ
カは個室をとってもらい、琴音とともに付きそうことにした。
個室のベッドに移されてしばらくたったころ、ベッド
の中ののだめが「う……」と動いた。
「のだめ!?」
「お母さん!!」
赤
い顔をしたのだめがうっすらと目を開ける。
「……琴音?」
「……お母さん……大丈
夫……?」
今にも涙がこぼれそうになっている琴音の頬を、のだめの手が弱々しく撫でた。
そ
して傍らに立っているリュカを見上げる。
「……ここ……どこデスか……?」
「……病院だ
よ。……のだめはリハーサル中に倒れたんだ」
「……リハーサル……」
のだめは突然はっとし
たようになった。
「リハーサル……リハーサルは……どうなりましたか……」
「……とりあえ
ず、一旦中止になった……」
リュカはその温度の高いのだめの手を握る。
「……
代役の手配もするそうだ」
「そんな……」
のだめが起きあがろうとする。
だ
が、力がなくてそれも叶わない。
「……代役なんていりまセン……のだめ、大丈夫デス……」
「………」
「……
大丈夫デス……のだめ、よくコンクール前とかで倒れる時があるんデスけど、次の日はピンピンしてましたから……」
「のだめ……」
「……
絶対に、絶対に、大丈夫だから……松田さんにそう言ってくだサイ……リュカ、お願いしマス」
声を震わせながら必
死で訴えるのだめの姿に、リュカは言葉がつまった。
「……わかった……ちゃんと言っておくから……とにかく、今
は休むことだけ考えて……」
今は、それしか言うことが出来なかった。
それを聞いたのだめ
は、安心したように目を閉じる。
そして突然、呟いた。
「……あの時……」
「……
ん?」
リュカはのだめの顔を見る。
のだめは目を閉じたまま、唇を開いた。
「あ
の時……のだめは、松田さんがシンイチくんに見えたんデス……」
ズキッ。
そ
の言葉にリュカは、心臓が締め付けられるほどの衝撃を感じた。
「のだめ……」
言
葉に……ならない。
のだめは、ポツリ……ポツリ……と独り言のように呟き始めた。
「……
朝から熱っぽいな……とは思ってたんデスよ……だけど、リハーサルがあるから頑張らなくちゃって自分に言い聞かせてたんデス……」
「………」
「だ
けど……だんだん具合が悪くなってきて……それでもなんとか演奏をやりとげようとしたんデスが……」
「………」
「ピ
アノの前に座って……指揮台に立つ松田さんを見た時、心臓が止まるかと思いました」
「………」
「……ああ!シン
イチくんだ!!……って……」
「………」
「……シンイチくんがいる……シンイチくんがあそこに立って指揮棒を手
に指揮しようとしている……」
「………」
「そう思ったら、急に目の前が真っ暗になって……」
「の
だめ……」
「……おかしいですよネ。松田さんとシンイチくん、全然似てないのに……」
「………」
弱
々しくふふっと笑うのだめに、リュカは何も答えられなかった。
琴音が無言のまま、のだめの目尻からつうと溢れた涙をティッシュで拭っ
た。
の
だめは点滴をうけながら、またうとうとと眠りについていった。
琴音も泣き疲れたのか、用意された予備のベッドで涙の跡を残したまま
眠っている。
病室のライトで照らし出される、のだめの血の気のひいた寝顔をリュカはただ見つめ続けた。
ま
だ……早すぎたのだろうか。
不意に病室のドアがノックされる。
入ってきた男を見て、リュカ
は驚いた。
「……松田さん……?」
「……どうだ?様子は」
「……とり
あえず、落ち着いています……」
「そうか……」
そう言うと松田は、壁に立てかけてあったパ
イプ椅子を広げてリュカの隣に足を組んで座った。
ポケットから煙草を取り出して口にくわえかけて、ここが病室であるかを思い出したの
か、苦い顔をするとすぐにしまった。
「……代役はどうなりましたか?」
「とりあえず手配は
した」
「……のだめは絶対に明日は大丈夫だから、代役は立てないで欲しいって言ってました」
「……この子ならそ
う言いそうだな……」
松田はのだめの寝顔を見つめたまま言った。
しばらく部屋の中に沈黙が
漂った。
リュカが口を開いた。
「……僕の……」
「ん?」
「……
僕のせいです……」
「………」
「僕が……のだめの異常に気づいてあげられなかったから……」
「………」
前
の日、琴音とリュカが寝静まってからも隣室から聞こえてくるピアノの音。
きっとのだめは何日も徹夜で曲を弾きこなしていたのだろう。
復
帰をかけたオーケストラとのコンサート。
のだめがプレッシャーに思ってない訳はない筈だった。
きっと、極度の緊
張とストレスがのだめの体を締め付けていたのだとどうして気づいてやれなかったのか。
のだめが笑っていたから。
い
つものように明るくふるまい、リュカや琴音に接していたから。
自分は何を見てきたのだろう。
の
だめの表面の部分しか見ていなかったのだろうか。
ただ、のだめがコンサートでちゃんとやれるかどうかという、そ
れだけしか考えてなくて。
彼女の体調や精神的なことよりも、技術面のことばかりが気になっていて。
彼
女が音楽界への復活をかけたコンサートを無事にやりとげること、それだけをただ考えて……。
「きっと……」
リュ
カは呟いた。
「千秋なら……真っ先にのだめの異変に気づいたと思います」
「………」
「千
秋なら……のだめの体調に気を配ってちゃんと管理をして……こんなことにはならなかった……」
「………」
「千秋
なら……」
ぱっしーーーんっっ!!。
小気味いい音を鳴らせてリュカの
頭が後ろから叩かれた。
「な……何するんですか!!」
いきなりの松田
の行為に、痛む頭を押さえながらもリュカは文句を言おうと向き直った。
当の松田はしれっとした顔をしている。
「や、
悪りい。ハエが止まってたから」
「ハエなんて、どこにもいませんよっっ!!。どこにそんな物体がいるんですか!!、幻でも見たんです
かっ!!」
「あーほら、あれだよ、あっちに飛んで行った。あの壁の鼻くそみたいな黒い点がそうなんじゃない?」
「あ
れはただのシミですっっ!!……まったくもうこれだから老眼は……」
「何か言った?」
「いーえ、何も言ってませ
ん」
ぶつぶつ言いながらリュカが痛む頭を押さえていると、すっと頭に大きな手が乗せられた。
そ
のまま……ゆっくりとあやすように撫でられる。
「……何してるんですか?松田さん」
「ん?
痛そうだから坊やの頭、撫でてやってんの」
「やめてください。男に撫でられても気持ち悪いだけですから」
「ま
あ、そう言うな」
松田の大きな手のぬくもりがリュカの頭に伝わってくる。
舞台の上で、白い
指揮棒一本でオーケストラ全体を支配してダイナミックな音楽を成し遂げるこの大きな手。
そうやって静かに撫でられていると……まるで
自分が本当の幼い子供に戻ったみたいな気分になる。
急に熱い感情がこみ上げてきて、リュカは慌てて唇を噛みしめた。
……
この人の前で、涙なんて見せたら、後々まで何言われるかわからない……。
そんなリュカの思いを知ってか、知らず
してか、松田は相変わらず軽い口調で声をかける。
「なあ、坊や」
……
坊やって呼ぶのやめろって言ったろう、このくそじじいっっ!!。
とリュカは叫びたかったが、声に出せなかった。
少
しでも口を開けたら、嗚咽が漏れてしまいそうだったのだ。
「……お前は千秋じゃない」
「………」
「……
お前は千秋じゃなくて、リュカ・ボドリーだ」
「………」
「……そうだろう?」
「………」
松
田の言葉はリュカの心の奥底に染み渡っていた。
まるで乾いた地面に雨が降り地面が潤うように。
そ
して急に松田の口調が変わる。
「あとついでに言わせてもらえば、坊やは、才能もあって若くして名声も手にして女
にも人気がある、俺からしてみればかなり邪魔な若造だ」
「………」
「日々、俺は、坊やみたいな若くて才能のある
奴らをどうやってけ落とそうか考えている」
しれっと平然な顔をして、腹黒い言葉を言う松田に、リュカは思わず呆
れかえって言った。
「……相変わらず、性格歪んでますね。松田さん」
「だって俺だけがいつ
までもブイブイいわせていたいんだもん」
「ブイブイって……いい加減、自分の年を考えてくださいよ。ほら腹の周りとかけっこうきてま
すよ〜」
「うるさいっ!!。ちゃんと最近は腹筋トレーニングもやってるし、ビール断ちもしてるんだよ!!」
そ
ういうといきなり松田はすっと立ち上がった。
リュカの顔を見るとふっと笑う。
「……じゃあ
な……しっかり看病しろよ」
そしてリュカの肩を大きな手でポンっと叩いた。
松田は病室のド
アに手をかけながら急に振り返る。
「あ、そうそう……のだめちゃんの寝込み、襲うなよ」
「そ
んなことしませんっっ!!」
何を言い出すんだっ!!この人は!!。
ム
キになって怒鳴り返すリュカに、松田はハハハと笑いながらドアを開けて出て行った。
リュ
カがベッドの傍らでだめに付き添ってから、かなり夜も更けた頃だろうか。
思わずうとうととしかかっていたリュカは、急に異変を感じて
目を覚ます。
「……のだめ……?」
目の前に寝ているのだめが苦しそう
に顔を歪めて体をよじっている。
息が、はあ、はあ、と荒く吐かれて、額からはびっしょりと脂汗がにじんでいる。
「の
だめ!?」
リュカは自分の右手をのだめの額に当ててみた。
びっくりするほどのその熱さに
リュカは血の気がさあっとひいていくような気がした。
……熱がかなり上がってきてい
る……。
……このままでは……。
……医師を呼ばなければ……。
そ
う思ってナースコールを押そうとした瞬間、うっすらとのだめの目が見開いた。
「のだめ……?」
リュ
カはのだめの顔を覗き込む。
はあ、はあ、と息を荒く切らせながら、その瞳は最初は何も映し出していなかった。
だ
が、次第に朦朧としながらもその目の焦点が合っていき……のだめは心配そうに自分を見つめるリュカに視線を合わせた。
のだめの目が
リュカを見つめてその口が何かを言いかけて開いた。
……だが、その声は言葉にならない。
リュ
カはのだめを落ち着かせるように手を握り、そしてナースコールにもう一度手をかけた。
「のだめ……待ってて。
今、先生を呼ぶから……うわっ!!」
コールを押そうとしたリュカに、のだめが信じられないような速さで上半身を
起こし、正面からリュカの首にかじりついた。
そのまま背中に手を回し、病人とは思えないほどの強さでぎゅっとリュカに抱きつく。
の
だめの炎のように熱い体温と柔らかい体が押しつけられて、リュカはくらくらと目眩がした。。
「の……のだ
め……?」
突然の出来事に声が掠れるリュカに対して、のだめはこう呼びかけた。
「……
シンイチくん……」
リュカ
は、耳を疑った。
……今……。
……今、なんて
言ったの……?。
のだめはリュカの首にその熱くほてった顔を強く押しつけながら、背中に回
した腕に尚も力を込めた。
そして耳元でこう言った。
「……シンイチく
ん……やっと……帰って来てくれたんデスね……」
「……のだめ……?」
「……
どうして……遠くに行っちゃったんデスか……?」
「………」
「のだ
め……のだめ、ずっとずっと待ってたんですよ……」
リュカは混乱した頭の中で考える。
……
もしかして。
……のだめは……。
……
のだめは……僕を……千秋と間違えている……?。
そのことに気づいた瞬間、リュカは心臓が
締め付けられるように胸に強い痛みを感じた。
まるで周りの空気が一気になくなってしまったかのように呼吸が荒くなる。
苦
しい……苦しい……苦しい……。
……今、のだめは、僕に向かって話しかけているんじゃない。
熱
に浮かされて、僕 を 千 秋 だ と思いこんでいるんだ……。
「……シンイチくん……」
の
だめが、リュカの腕の中で次第に感情が高ぶってきたのか、背中を震わせてしゃくり上げる。
切なそうなそして苦しそうな低い嗚咽が狭い
病室に響き渡る。
リュカは自分のシャツの胸が、どんどんのだめの熱い涙で濡らされていくのを感じていた。
「……
琴音と一緒に……ずっとずっとシンイチくんが、帰ってくるのを待ってたのに……」
「………」
「ど
うして、帰ってきてくれないんデスか……」
「………」
「ねえっ!!答
えてよっ!!シンイチくん!!」
泣きじゃくりながら大声で叫ぶのだめ。
の
だめは声を殺そうともしないで、思いきり泣き声をあげて普段は露わにしない感情を、リュカに叩きつけている。
リュ
カはただ呆然としていた。
……僕は……今までに……こんなのだめを見たことがない。
……
こんなのだめは知らない。
僕は……。
リュカは耐
えきれなくなって、がばっとのだめを自分の胸から引き離した。
そして両肩を掴んで支えながら、のだめの顔を真正面から見据える。
「の
だめ……」
リュカは告げようとした。
の
だめ……。
僕は千秋じゃないんだ。
千秋は……何年も前に死んだんだ
よ。
……今、のだめの目の前にいるのは、千秋じゃなくて、僕なんだよ。
の
だめが今見ているのはただの幻なんだよ。
だから……お願いだから……
僕を……僕のことを……ちゃんと見て……。
だ
が、のだめの涙でぐしゃぐしゃになった泣き顔を正面から見た瞬間、リュカの思考は停止した。
頭が真っ白になって何も考えられなくな
る。
そして……何かが乗り移ったように、リュカの意志に反して唇が動く。
「ご
めん、のだめ……」
リュカはそっと静かにのだめに語りかけた。
「……
シンイチくん……」
のだめはリュカの顔を見た。
その瞳には、リュカの
顔が確かに映し出されてはいるものの、のだめの心はリュカを見ていないのはわかっていた。
リュカを通して別の誰かを見つめているのは
わかっていた。
それでも。
リュカは言葉を続けず
にはいられなかった。
「……ごめんな……のだめ……ずっと、一人にしていて……」
「………」
「だ
けど……これからは、ずっとずっとそばにいるから……」
「………」
「……
もう二度と……俺は……のだめと琴音の側を離れないから……」
その言葉にのだめの潤んだ瞳
がリュカを見上げる。
涙が溢れて、大きな粒になって頬を伝わり落ちるのをリュカは見た。。
……ああ、なんて澄ん
だ瞳なんだろう、なんて綺麗な目をしているんだろう……とこんな場面なのに今更ながらにリュカは思った。
まるで、汚れを知らない子供
のようだ……。
そしてその艶やかな唇が開き言葉を紡ぎ出す。
「シ
ンイチくん……本当……デスか……?」
「……ああ……本当だよ……」
「……
約束しますか?」
「うん……約束する……」
「……絶対に?」
「……
絶対だ……」
のだめは、その言葉を聞くとふわっと嬉しそうに笑った。
……
本当に花が咲き誇るように笑う。
最高に幸せそうな笑顔だった。
リュカはたまらなくなって、思わずのだめをぐいっ
と引き寄せると、あらん限りの力で強く抱きしめていた。
強く、強く、この細い体が壊れてしまうのかと思うくらい
強く……。
「シンイチくん……?」
「……だか
ら……安心してていい……安心してていいんだよ……今は、ただ、ゆっくり眠っていていいんだ……」
「……ハイ」
「……
ちゃんとそばにいるから……俺は、ずっと……側にいるから……だから……」
「………」
「……
だから、のだめ……頑張って……」
「………」
そ
のまましばらくの沈黙が続いた。
おとなしくなったのだめの体をリュカは壊れ物のようにそっと扱うと、ベッドに横たえた。
そ
して上からふわっと毛布をかける。
その間ものだめはリュカの手を握りしめたまま、離そうとしなかった。
「シ
ンイチくん……」
「……ん?」
「この手を離さないでくださいね……」
「わ
かった……」
それを聞いたのだめは安心したのか、幸せそうにふわっと笑うと……目を閉じ
た。
それから半時もたたないうちに眠りに落ちて意識を失った。
さきほどまでの荒い呼吸とうってかわった、すうす
うと落ち着いた規則正しい寝息が、リュカの耳に聞こえてくる。
その安らかな寝顔を見つめながら、リュカの目には
涙が溢れずにはいられなかった。
のだめ……。
こ
んなに……こんなに時が経った今でも……。
君の心の中には千秋しかいないのか……?。
こ
んなにも、深くて強い悲しみがずっと君の中で渦巻いていたなんて……。
……ずっとずっ
と……。
……これからも君は……ずっと千秋のことだけを愛して……千秋のことだけを思った
まま生きていくのかい……?。
リュカは顔をぐしゃぐしゃに歪めると口に手を当てた。
く
うっと抑えきれない嗚咽が漏れる。
抑えられない感情がほとばしり、熱い涙がとめどなく頬を伝わり落ちるのを感じていた。
の
だめと琴音を起こさないようにと歯を食いしばり抑えた嗚咽が夜更けの病室に途絶えることなく響いていた。
目
を覚ました時にのだめの最初に目に入ったのは、いつもの天井ではなかった。
白く塗られた少し汚れている天井。
い
つもと違う蛍光灯。
あ、そうだ……。
そういえば、のだめは熱を出して
病院に入院したんでしたネ……。
ふと人の気配を感じて横を見ると、リュカがのだめのベッドにうつ伏すようにして
眠っていた。
隣のベッドでは、琴音がすやすやと気持ちよく眠っている。
のだめはリュカの寝顔を見つめた。
長
い睫毛が男とは思えないくらいに綺麗で……その睫毛が少し湿っているように見えるのは気のせいだろうか。
ふと、のだめは自分の手に違
和感を覚える。
彼女の手はリュカの大きな手の中にあった。
その手はしっかりと固く結ばれて
いて、なかなかほどけそうにない。
え……えっと……これは、どういうことなんでしょうネ……。
の
だめがリュカを起こそうかどうしようか迷って、もぞもぞ動いた途端に、リュカが「ん……」と瞼を動かした。
そしてリュカは気だるげに
目を開けると、のだめが起きあがって上半身を起こしているのに気づく。
「のだめ……起きたの?」
「ハ
イ……今さっき……」
「体の具合はどう……?」
のだめは腕を伸ばしたり縮めたりしながら、
自分の体の状態を確かめる。
ゆっくり休んで熟睡したせいか、すっかり熱も下がったようだしとても気分がいい。
「あ、
なんだか大丈夫みたいデス。……どっこも痛くないし、気分も悪くないデス」
「そう……良かった」
リュ
カが微笑んだ。
その笑顔は……とても優しく柔らかくのだめを包み込む。
それを見た瞬間、の
だめは何故か急に胸の鼓動が早くなった。
変ですネ……まだ熱があるんでしょうか。
な
んだか頬がすごく熱い……。
「リュカ……ずっと付いていてくれたんデスか……?」
「……う
ん」
「……目がすごく赤いデスけど……ちゃんと眠れなかったんじゃないデスか……?」
リュ
カは、のだめの手を握り直すともう一度微笑んでこう答えた。
「……僕なら大丈夫だよ」
「……
でも……」
のだめは何かを言いかけて口を閉じた。
なんだかそれ以上そのことついては、触れ
てはならないような気がしたのだ。
……その代わりにのだめはこう言った。
「リュカ……」
「ん?」
「の
だめ、起きれマス」
「……え?……でも」
のだめはベッドから足を下ろすと、自ら立とうとし
て少しふらついた。
驚いて支えようと差し伸べられたリュカの手を取りながら……のだめは自分の足でしっかりと立った。
「の
だめ……無理しちゃ駄目だよ」
「リュカ」
のだめはポツリと言った。
「の
だめ……昨日、シンイチくんの夢を……見ました」
「……そう……」
リュカの顔は下を向いて
いたので、その表情はわからなかった。
「いっぱい泣いて……いっぱいいっぱい、言いたいことを言いました」
「………」
「シ
ンイチくんは、泣いているのだめをぎゅっと抱きしめてくれました」
「………」
「……そして……のだめに言ってく
れました」
「なんて……?」
リュカが聞いた。
のだめは静かに答える。
「……
ずっと、ずっと側にいるから……だから……頑張れって……」
のだめは顔を上げた。
その瞳に
はもう迷いはなかった。
「今から……コンサート会場へ行きますネ。松田さんに連絡を取ってくれマスか?」
会
場は満席だった。
この辺りでは一番大きなコンサートホールだったけれども、それでも人が大勢詰めかけて会場は異様な熱気に包まれてい
た。
指揮者は今、世界で一番脂がのっているであろう旬の日本人指揮者、マツダユキヒサ。
そ
して急病となったピアニストの代わりに代役を務めるのは、同じく日本人のノダメグミ。
彼女は夫で世界的な指揮者
であった千秋真一を亡くした後、しばらくは公の場に姿を見せない状態が続いていた。
その存在は、もはや神聖化されていた。
あ
の幻と言われたノダメのピアノが聞ける。
観客達は期待と興奮で胸を震わせていた。
これほど
までに……外国人でありながらこの地方で愛されるピアニストをリュカは知らない。
かなりの有名な見知った評論家の人達の顔を、リュカ
は観客席の中に見つけた。
それほどこのコンサートが世界から注目されているということだろう。
そ
してリュカは琴音とともに招待席客の一番ピアニストが良く見える席に案内されていた。
琴音にとってはこれが最初から最後までの初めて
のクラシックコンサートになる。
リュカは演奏の間中、琴音の手をぎゅっと握りしめていた。
途中で飽きてぐずりだ
すのではないかと心配していた琴音だったが、その心配はただの杞憂に終わった。
目をキラキラと輝かせながら、目の前の音楽の洪水に圧
倒されそれに飲み込まれる、琴音はそんな子供だった。
その眩しい瞳は確かに彼女が千秋とのだめの子供であることを象徴するようで、
リュカはそっと複雑な気持ちになった。
そしてその時がやってきた。
舞台袖からゆっくりと現
れてきたのは本日のピアニスト、ノダメグミ。
会場から湧き起こるたくさんの拍手が自分の母親に向けられたものだと知った琴音は、周囲
を見回しながらとても嬉しそうな顔になった。
そしてそのまま、リュカを手で招き寄せてこっそりと耳打ちする。
「の
だめってピンクが一番似合うよね」
そう、のだめが今まさにまとっている舞台用のドレスはノースリーヴの肩から腕
にかけてのラインを綺麗に出した、淡いピンクのドレス。
華やかな光沢のあるオーガンジーの素材を贅沢に裾を4段に使いスパンコールで
引き締めたそのドレスは透明感と神秘的なイメージを醸し出していた。
それは、ふわっとしてとらえどころのないのだめにとても良く似
合っていた。
リュカもその点は同感なので、声を出さずこっくりとうなずく。
やがて本日の指
揮者である松田が舞台袖から現れた。
黒の燕尾服に身を包んだ彼は、普段のおちゃらけた姿からは想像がつかないほど、堂々としていた。
松
田とのだめは落ち着いた表情で握手を交わす。
その瞬間に、会場の拍手がよりいっそう大きく鳴り響いた。
そ
してのだめは一礼をしてからピアノの前に座る。
そのまま目を閉じて演奏の瞬間を待つ。
今、
いったいのだめは何を思っているのだろうかとリュカは考える。
きっと、手の届かないほどの遠くに行ってしまった
彼のために、自分の持てる全ての力を精一杯出すことを誓っているのだろうと思った。
そして、指揮台に上がった松
田と目を合わせ、ゆっくりと頷き合う。
松田がゆっくりと、指揮棒を構え、振り下ろした瞬間に音楽が始まった。
「チャ
イコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 op.23」
チャイコフスキーは友人であるルビンシテインにこ
の曲を進呈しようとしたところ、惨い非難を受けて書き換えるように命じられた。
だが、ひどく傷ついたチャイコフスキーははこれを断
り、そのままの形で譜面を印刷することを宣言し、指揮者のハンス・フォン・ビューローへ献呈した。
ビューローは、この作品を「独創的
で高貴」と評し、1875年のボストンにおける初演で大好評を博してチャイコフスキーの名を世界的なものにした。
のちにルビンシテイ
ンは自分の非を認め、チャイコフスキーと和解し、度々この曲を演奏したという。
生前、同じ国の作曲家たちから“西欧かぶれ”との非難
を受けたチャイコフスキーも、時を経た今日では、極めてロシア的な音楽を作曲した音楽家であるとされている。
その音楽の根底に流れて
いるものは、やはりロシアの風土を背景にしか考えられないセンティメンタリズムだろう。
こ
の曲は3楽章からなる。
全体に協奏曲の伝統的な形式にとらわれることなく、自由な形で作曲されている。
一
般にチャイコフスキーのピアノ協奏曲と言えば、余程の事情でもない限りこの第1番を指す。
この第1番は1874年に作曲されたのだ
が、オーケストレーションの巧妙さ、独奏ピアノの華やかな扱い、そして耳になじみやすい美しいロシア的な旋律など、
群を抜いた魅力を
持っているために、最もポピュラーなピアノ協奏曲のひとつとして、多くの人々に喜んで聴かれ、また多くのピアニストによって好んで演奏されている。
男
性的で、しかも技巧的にすぐれ、いわばロシアの皇帝といってもいいような規模をもった壮大な曲。
現在も、数ある
ピアノ協奏曲の中で極めて人気の高い一曲であろう。
第1楽章
Allegro non troppo e molto maestoso - Allegro con spirito
ア
レグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ―アレグロ・コン・スピリート:ソナタ形式。
雄
大な序奏と変則的なソナタ形式の主部からなる第1楽章は,時間的には全曲の半分以上を占める長大なものである。
冒頭に雄大な序奏があ
る。
まず,ホルンによる力強く下降してくる最も有名なモチーフで始まりを告げる。
ピアノによる第1主題は,序奏
部が終わり,静かになったところで登場する。
リュカはその瞬間を目を瞑り、祈るように手を
合わた。
………のだめ………。
そ
して、舞台の上の、のだめが振り上げた手をまさにピアノに叩きつけた瞬間。
その栄光ある瞬
間がやってきた。
あまりにも印象的な鐘のように重いピアノの和音が会場に響き渡った。
重
厚なピアノの和音が下から上へと打ち鳴らしていく雄大な演奏は、リュカが思わず鳥肌がたってしまったほど美しい。
そ
れは他の観客達も同様で。
会場にいる全ての人々が息を呑む。
第1ヴァ
イオリンとチェロが、最初のホルンのモチーフに基づいたスケールの大きな主題を奏でる
のだめの独奏ピアノが三拍子のリズムに乗せてと
和音を華麗に掻き鳴らす。
この曲の中でも特に有名なこの導入部分だが、このメロディは,この曲の中で二度と再現
しない。
それはベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』の序奏が、その後の部分で用いられないのと似ている。
ど
こか透明で透きとおった、そして悲哀感のあるこの意味ありげな曲は、人々の心に何か訴えかけるものを持っている。
数
あるピアノ協奏曲の中でも最もピアニスティックで、オーケストレーションがうまくいっている曲だといえよう。
第
1主題は変ロ短調、おどけたようなリズム旋律が鼻歌のように歌われる。
このせわしなく動き回るような旋律はウクライナでチャイコフス
キーが耳にした民謡からとられたといわれている。
様々な楽器でこのメロディが繰り返されたあと,第2主題Aが登場する。
第
2主題は抒情的で、力強い発展をみせる。
まずクラリネットがしっとりとその音色を奏で、そのあと弦楽器で静かに第2主題Bを聞かせ
る。
これらが合わさった第2主題が華麗なピアノと一緒に盛り上がった後,展開部に入っていく。
展
開部では、オーケストラ演奏による第2主題Aのメロディで盛り上がりを見せ、続いてピアノに新しいメロディが登場する。
ピアノと管弦
楽が対等に渡り合い、それぞれの主題が絡みをみせながら、スケール感たっぷりに圧倒的なエネルギーをもって協奏される。
の
だめの速いテンポで熱気を感じさせるピアノと松田の指揮する豪華で力強いオーケストラが互いの主張を激しくぶつけ合い、その迫力に観客は圧倒された。
ま
るで音の洪水。
大津波のように打ち寄せて全ての感覚をさらっていく。
な
んという快感、なんという幸福だろうか。
全ての人々は、今、この瞬間にこの演奏を聴けたことを本当に幸運だと
思った。
そして第1主題を暗示させつつ,次第に再現部に移っていく。
繊
細な表情に富んだ再現部は少し変奏されたようなピアノで第2主題が再現された後、雄大なカデンツァへ向かう。
このカデンツァは非常に
長大であり、ピアノのきかせどころである。
のだめの華麗な技巧が思う存分に披露される場面だ。
可
愛らしい雰囲気になったり、ミステリアスになったり、華やかになったりと多彩に展開されていく。
高音が明るく輝
かしく、その勢いがありスリリングな芯のある音色には、のだめの明確な意志を感じる。
人々はその熱演に引き込ま
れずにはいられなかった。
カデンツァが終わると,フルート独奏に導かれて第2主題Bが再現する。
そ
の後,雄大なコーダに入っていき最後に向けて再び大きな盛り上がりをみせる。
まるでそこで全曲が終わるかのような、華やかな堂々とし
た気分に溢れたまま、曲は一旦閉じる。
第
2楽章 Andantino semplice - Prestissimo - Quasi Andante
ア
ンダンティーノ・センプリーチェ:8分の6拍子
地味なロシア風アンダンテと中間のソロの
ヴィルトゥオーソ。
弦楽器のやわらかいピッチカートの伴奏にのせて、フルートの叙情的な主要旋律がしなやかに歌われる。
そ
れを引き継ぐかのように暖かな音色で登場するピアノパート。
一音もおろそかにしない、のだめの美しい音色が魅力
的に観客を魅了する。
長いスカートに隠されたヒールのペダリングによって調節される柔らかい響き。
観
客達がほっと一息をつける場面でもあった。
そのひかえめなテクスチュアも、曲の叙情性をより深めている。
ワ
ルツ風の中間部は、おどけるような感じのスケルツォになり、フランスの古いシャンソン「さあ,楽しく踊って笑わなくては」という曲の引用だといわれてい
る。
このメロディは次々と転調していきピアノの軽快さ、華やかさがみせどころであろう。
そ
して再度,最初の部分が戻ってきて,静かな雰囲気で楽章を閉じる。
第
3楽章 Allegro con fuoco
アレグロ・コン・フォーコ:ロンド形式。
第
3楽章は、第2楽章からあまり間を空けずに演奏された。
第1楽章の序奏主題のテンポが第3楽章のコーダ直前の第
2主題の再現とほぼ一致するため、演奏家及び聴衆は未曾有の達成感が得られる場面だ。
躍動感、生命力あふれる終楽章。
ピ
アノの技巧的な華やかさも随所にちりばめられていて、のだめはその華麗な技巧を見せつけるように観客を魅了する。
2
つの主要主題から成っており、第1の主題は、ウクライナに古くからある快活な民謡舞曲からとられたもので、それはロシア農民の春の喜びを表している。
2
拍目に強いアクセントのある主題と続いて出てくるオーケストラによる迫力のある副主題もとても快活でノリの良いものである。
第
2の主題は、弦楽器で出てくる。
第1楽章の最初の部分と似た雰囲気のある美しいメロディで、優美で、穏やかな性格をもつ。
こ
れらの主題が再現した後,さらに展開が始まる。
ピアノによる細やかな音の動きのある部分が続いた後に,嵐の前の
静けさのような雰囲気になる。
オーケストラが徐々にクレッシェンドして行きその頂点で、ピアノが猛烈な勢いで入ってきてコーダにな
る。
第2主題が雄大に演奏され,ピアノとオーケストラが掛け合いをするように,華やかに圧倒的なスケールをもっ
て、生命への賛歌と発展する。
曲全体をしめくくるにふさわしい、豪華絢爛なフィナーレ。
リュ
カは……心の中で叫んでいた。
のだめ。
……
君はやっぱり素晴らしい。
……君は最高のピアニストだ。
千
秋……君が見つけて愛し育て上げたこの原石は、今、まさに光り輝くダイアモンドになったよ。
リュ
カは生まれて初めて、心から神に敬意を表し感謝した。
……この女性からピアノを取り上げな
いでくれて……本当にありがとうございます。
こんな……。
こ
んな女性は世界中どこにもいない。
その激しい情熱。
素
晴らしい才能。
そして女性として…母として、生涯を相手に捧げ尽くすその慈愛に満ちた深い愛情。
こ
んな、こんな女性は、多分もう二度と現れないだろう。
今ならば大声で言える。
……
僕は。
僕は……のだめを愛している……。
……
この世界中の誰よりも……。
い
つの間にか曲は終わっていた。
沈黙が会場を包み込む。
咳払いさえもホール中で聞き取れるよ
うな静寂。
次の瞬間。
うわっと拍手がスコールのように湧き起こる。
観
客達が総立ちになり、惜しみない拍手の渦が湧き起こる。
その拍手は、素晴らしい指揮者とオーケストラ……そし
て、一人のピアニストに向けられたもので。
そのピアニストは、興奮が止まらない観客達を放心状態で見ながら、
はっと気づくと深く観客席に向かって一礼をした。
拍手の波は、よりいっそう大きくなって会場を埋め尽くす。
い
つまでも鳴りやまない永遠に続くかと思われる拍手を浴びる中、のだめは客席のリュカと琴音に向かって、にこおっと笑った。
舞
台裏に花束を抱えて行ったリュカと琴音はのだめの姿を見つけた。
2人を見ると、のだめはぱっと花が満開に咲き
誇ったような笑顔を見せて、こちらに走ってきた。
長いスカートが絡まるんじゃないかとこちらが心配するくらい、懸命に走ってやってく
る。
あと少し、あと少しで、彼女はここに来る。
リュカは彼女をその手
に抱きしめようと大きく腕を広げた。
「……のだめ……!!」
ス
カッ。
その両手は何も掴めないまま、間抜けに空を切った。
「琴
音っ!!」
「のだめーっ!!。すっごくすっごく素敵だったよ。良かったよ〜」
「うん……うん……」
「よ
く頑張ったね……」
抱き合ってお互いに感動の涙をにじませる母娘。
のだめはしゃがんだまま
しっかりと琴音を抱き抱え、琴音もそんな母親の首にかじりついたまま泣いている。
……ま
あ、結局のところ現実はそんなものであって。
リュカは思わず苦笑した。
そ
して、感動の親子の対面がひとしきり終わった後で。
のだめがリュカの方を振り向いた。
そ
して立ち上がる。
「リュカ……」
一歩、また一歩とこちらに歩いてく
る。
「のだめ……」
リュカも一歩、また一歩とのだめに歩み寄る。
そ
して。
リュカは手を伸ばした。
のだめもそれに答えるかのように手を伸ばす。
リュ
カが、ついにその手に彼女を抱きしめる瞬間がやってきた。
のだめの体は柔らかくしなやかで、演奏後の興奮からか
その熱気が伝わってくる。
この瞬間をどれほど待ちわびたことだろう。
どんなに長い間、待ち
望んだことだろう。
もう、この手を二度と離したくない。
……離さな
い。
そう思った。
「ん……」
腕
の中でのだめがもぞもぞと動く。
「リュカ……ちょっと痛いデス……」
ど
うやらリュカが興奮のあまり、のだめを抱きしめる腕の力が強すぎたらしい。
「あ……ごめん」
動
揺したリュカはぱっと手を離した。
さきほどまでのぬくもりが一気に消えていくのを寂しく思いながら。
「そ
の……」
さきほどまでの意気込みはどこへ行ったやら、リュカはのだめの姿が眩しくて視線を逸らす。
……
ええと、ええと、のだめにどうしても伝えたい言葉あった筈なんだけど……。
その言葉は一気に忘却の彼方へ飛んで
いってしまったようだった。
そんな視線が彷徨うリュカを見て、のだめはふふっと笑った。
「……
リュカ」
「ん?」
「のだめ……演奏前に、ピアノの前に座った時に目を閉じたんデス」
「……
うん」
それは知っていた。
「……シンイチくんの姿が浮かんでくるだろ
うと思ったんデス。
きっとシンイチくんが側にいてくれる……。
きっとシンイチくんが見守ってくれるって、そ
う思って……」
「………」
「……でも……違いました」
「……?」
「あ
の時、のだめの瞼の裏に浮かんだのは……リュカでした」
「……え?」
リュカはのだめの思い
もよらない発言に驚きを隠せなかった。
「……病院でのだめが目覚めた時にしっかりと手を握っていてくれたリュ
カ……。
……いつも車を走らせて、のだめと琴音に会いにやってきてくれるリュカ……。
……ご馳走を作ってく
れて、掃除をしてくれるリュカ……。
……いつも優しく包み込んでくれるようなリュカの笑顔が、自然にのだめの脳裏に浮かんできまし
た」
「のだめ……」
「……だから、今日の演奏はリュカのために弾きました……。
リュカを
思って……リュカのために……」
リュカの心臓の鼓動がどんどん早くなる。
の
だめはいったい何を言おうとしているのだろう。
「……だから……えーっと……なんていったらいいのか……」
の
だめも言葉が見つからないようだった。
もどかしいような、自分の感情がうまく掴めてないようなそんな表情をする。
リュ
カは顔にかっと血が上るのを感じた。
もし。
もしも。
今
までずっと諦めていたことが、現実になってやってきたら。
「のだめ……」
リュ
カはのだめの両肩を掴み、正面からその瞳を見据えた。
今ののだめの瞳の中に映っているのは、間違いなくリュカ本人であって。
何
かに背中を押されるような気がした。
「僕は……僕は……」
「………」
「ずっ
とずっと……」
「………」
「のだめのことがー」
その次の台詞は現れた
一人の男によって遮られる。
「いや〜のだめちゃん!!最高の演奏だったよ!!」
「松田さ
ん!」
のだめはぱっと松田の方を振り向いた。
そして彼の方へ駆け寄ると、強く握手を交わし
お互いの労をねぎらった。
松田はリュカに見せつけるかのように、のだめをしっかりと抱きしめてビズまでしている。
………
……… ………
おいィっっ!!
松田はニヤニヤ
した笑いを浮かべながら、リュカの方に近寄ってきてそのむくれた顔を覗き込んだ。
「あれ?もしかして、俺、いい
場面邪魔しちゃった?ごっめ〜ん、タイミング悪かったかなあ」
「いや、今、完全にタイミング狙ったでしょう、完璧に邪魔しにはいった
でしょうっっ!!」
「やだなあ〜そんなことする訳ないじゃないか〜」
そして松田はリュカの
耳元で神妙な声で囁いた。
「……驚いた。……いったいどんな魔法を使ったんだ?」
リュ
カはしばらく考えて……そして答えた。
「……いえ、僕は何もしてません……。ただ……」
「た
だ?」
「……松田さんの言ってること……やっとわかりました」
「………」
「僕は千秋じゃな
いんだってことが……」
「………」
「僕は……僕でしかありえないんだってやっとわかったんです」
そ
う言ってリュカは笑った。
松田はそれを見て満足気な笑顔を浮かべ、リュカの首をがしっと抱え込んだ。
「う
わ……何するんですか?松田さん!!痛いです!!」
「いや、俺も参戦しちゃおうかな〜と思って」
「……何にです
か」
「のだめちゃん獲得選手権」
……… ……… ………
「えーーーーーーーーーーーっっっっ!!」
リュ
カは叫んだ。
「いや、駄目です。それは嫌です。絶対にやめてくださいっっ!!」
「なんでだ
よ。スタートラインは一緒だろう?」
「明らかに違いますよ。自分の年齢を考えてくださいっ!!」
「なんで?俺は
一回りのだめちゃんより年をとってて、リュカはのだめちゃんより一回り若いってだけだろう」
「………」
「条件、
一緒じゃん」
「いや、でも……」
抗議しようとリュカは口を開いて……あることに気づいた。
「松
田さん……今、僕のこと……なんて呼びました」
「リュカだよ」
「え……」
「……お前はリュ
カ・ボドリーだろ?」
そう言ってニヤリと笑う。
「………」
「こ
れで晴れてライバルってことで、よろしくっっ!!」
「いや、ちょっと待ってください!!。それとこれとは話が別で……」
揉
み合うリュカと松田を見ながら、のだめがそうっと話しかけた。
「あの〜リュカ?」
「へ?」
「ご
めんなサイ。松田さん今日とても頑張ったからねぎらいたいですよネ、2人でゆっくり話がしたいですよネ。のだめ達、お邪魔虫デスね」
「……
え?あの、その……のだめ?」
「先に帰りますから、2人でどうぞ食事でもして帰ってくだサイ!!」
そ
うのだめはにっこり笑うと、松田とリュカに一礼し、その場を立ち去ろうとした。
琴音が不思議そうにのだめを見上げる。
「の
だめ?なんで琴音達先に帰るの」
「全てはリュカの幸せのためデス」
「ふーん」
琴
音が無邪気にリュカを振り返り「バイバーイ」と手を振る。
「いや……ちょっとまってよ……のだ
めーーーーっっ!!」
リュカは必死にのだめに向かって叫んだ……。
終
わり。