約
束3 1話
や
はり、今年は異常気象なのではないだろうかとリュカは思う。
フランスのこの片田舎が、この季節にしては珍しく、
半袖と短パンになってもいいくらいにじりじりと暑い。
めまぐるしい季節の変化に、体が追いつかない。
思わず、白
シャツの襟元の第二ボタンまで外し、そばにあったベンチに腰をかける。
このベンチは、なんでものだめが家を借りた当時からあったそう
だが、毎年雨風や冬のミストラルに晒されて、かなり朽ちてみすぼらしくなっているものである。
それでも座るとこれほど心地よいものは
ないと思うくらい安心感があって。
そっと座り、背もたれに背中をもたれかける。
自然の木の感触が、冬は暖かくて
夏はひやっと涼しくて心地よい、リュカがもっともこの家で好きな場所だ。
そこに座ると、さまざまな庭の花々が咲き誇っているのが、よ
く見える。
……けして、手入れされた庭とはいえないが。
見かねて近所
の人が、時々庭の手入れをしてくれるらしいが、その気持ちはよくわかる。
のだめは、どうして、もっとこう……。
……
やめとこう。
リュカはため息をついた。
それでも垂れ下がった藤の花は
満開で、薄紫色の花を咲かせ、十分に目を楽しませてくれる。
タイム、ローズマリー、セイジなどのハーブ達が可愛い花をつけている。
アー
モンド、あんず、洋ナシの果樹園の花の色とその香り。
そして……。
桜。
の
だめに言わせると、あれは、さくらんぼ収穫用の桜で、日本にあるソメイヨシノという桜とは少し違うらしい。
白っぽくて大ぶりで満開に
咲き誇る花は、これはこれで綺麗だと思うのに、のだめは違うと言う。
「桜はですネ、もっとふわっと優しいピンク
色をしていて……。
……とても繊細で美しい花なんです。
いつの間にか咲いていて、いつの間にか散ってしま
う……。
……日本人にとっては、特別な特別な花なんですヨ」
ふーんとその時リュカは興味
なさげに頷いていたが、後から考えると、あの時ののだめは寂しそう瞳をしていた。
もしかし
たら。
もしかしたらと思う。
のだめは日本に帰り
たいのだろうか。
もちろん日本にはのだめの家族がいる。
とても愛情深く、明るくて楽しい家
族だと聞いている。
のだめと娘の琴音が帰国したらどんなに喜ぶだろうかと思う。
のだめだって、こんな不便なフラ
ンスの片田舎にいるよりも、よっぽど母国の方が暮らしやすいだろう。
だけど。
……
それは、困る。
リュカにとって、のだめが日本に帰ってしまうというのは、著しく不都合が生
じるのだ。
のだめ。
パリに帰ろうよ。
そ
の言葉を何度、口にしたかわからない。
ピアニストとして、少しずつ復帰しつつあるのだめにとって、パリにいる方が何かと都合がいいの
はわかりきったことだ。
リサイタルやコンサートの仕事もしやすいし、オーケストラと共演する回数だって、今よりも、もっともっと増え
るだろう。
事務所の方も、そう促していることをリュカは知っていた。
それなのに。
の
だめは、静かに微笑んで、首を振るだけだった。
のだめは……。
「リューーーー
カッ!!」
突然、真正面から飛び込んでくる小さな身体に、リュカは胸にドンとぶつかる強い衝撃を覚えた。
そ
してあっという間に腕の中に収まった、にこにこと自分を見つめる笑顔に目を向ける。
「……琴音」
「え
へへ、リュカ、びっくりした?」
「……びっくりしたよ」
「わーい、大成功!!」
「大成功っ
て……ったく……」
それでもリュカは琴音を見ると、自然と顔がほころぶのを止められない。
春
の花と同じくらいに、いや、もっともっと輝いている7歳になった琴音の姿。
自分に妹がいたら。
いや、自分に娘が
いたら、きっとこんな気持ちになるだろう。
愛しくて愛しくてたまらない。
……世界中で一番
愛する女性の娘。
まだまだあどけなさが残ってはいるものの、手足がすらりと伸びて、もとから整っていた顔立ちも
しっかりしてきて……。
まるで……みたいだ。
一
瞬、頭の中に浮かびかけた人物の名前を、リュカは頭をブルブルと振って追い出した。
「どうしたの?リュカ」
「……
いや……なんでもないよ。それより、どうしたの?琴音」
琴音は悪戯っぽい顔でぷぷぷと笑うと、背中に隠し持って
いた一枚の紙を、パアンとリュカの目の前に広げた。
「ジャーーーーンッ!!シンイチくんを書いてみたの」
し
ばらくの間、リュカは言葉が出なかった。
白い紙にクレヨンで大きく描かれたその人物は、黒い髪と瞳をしており、
黒い服を着ていた。
ちょっと目がつりあがって怒っているように見えるところがうまく特徴をとらえてる。
そして。
そ
こには、まだ幼い文字で「しんいちくん」と書かれていて。
「どう?リュカ。シンイチくんに似てる」
「……
ああ、すごく似てるよ」
リュカは、自分で自分の声が掠れていないかが心配だった。
な
んてことだ。
たかがこのくらいで、こんなに動揺するなんて。
そんなリュカの心の動揺にも気
づかないまま、琴音はリュカの隣にちょこんと座り、話を続ける。
「私、シンイチくんのこと、全然覚えてないんだ
けど、のだめがたくさん写真を撮っていたんだよ。
だから、その写真を見ながら描いたんだ」
「……へえ」
「中
には、パンツ一丁で歯磨きしてる写真や、ティッシュで鼻を噛んでいる写真もあったりして、すっごく面白いんだよ、のだめのアルバム!!」
………
……… ………
……隠し撮りだ。
絶対に間違い
ない。
あいつがそんな写真を、のだめに撮らせる訳がない。
リュカは本日二度目のため息をつ
いた。
「お父さん……どんな人だったのかな……」
突然、ポツリと呟い
た琴音に、思わず隣を振り返る。
琴音は寂しそうな表情で、どこか遠くに視線を向けていた。
「皆
が、琴音のお父さんは、とてもすごい指揮者だったっていうんだよ。
……でも、すごい指揮者ってどのくらいすごいの?。
何がどうすごいの?」
琴音の目はまっすぐにリュカを見ていた。
その瞳があまりにも眩しすぎ
た。
「のだめは、シンイチくんは、世界中で一番カッコよくて一番素敵な男の人だって言うんだよ。皆から、黒
い……黒いカラス……じゃなくて」
「……黒王子」
琴音はポンと手を叩いた。
「そ
うそう、黒王子って呼ばれて、すごく女の人からもててたんだって」
「ふーん」
「だけどね、シンイチくんはとても
カッコいい人だったけど、性格が……」
「プリごろ太のカズオみたいだって言うんだろう」
「え?」
今
度は、琴音がリュカを振り返る番だった。
リュカはぶすっとした表情で、これ以上もないくらい嫌そうに言葉を続けた。
「底
意地が悪くて粘着質でしつこくて陰湿でねちねちしている完璧主義者。
音楽のことになったらもう他の事は目に入らなくて、のだめのこ
となんてほっぽりだすような最低男。
そのくせ、オレ様!!。
ムッツリ!!
嫉妬深く
て、のだめのことになると人が変わったかのように取り乱すただの阿呆!!」
「ふ、ふうん〜」
「……でも」
険
しかったリュカの表情が一瞬、和らいだ。
「でも……あいつの音楽は……本当に素晴らしかったんだ。
あいつの指揮するオーケストラは……あいつの奏でる音楽は……本当に……本当にすごかった。
今でも鮮明に覚えている。
……
雄大で誠実で……それでいて優しく繊細に甘美に曲を奏でる……。
まるでオーケストラの楽器の一つ一つが、奴の手足のように一体に
なったかのように思えて……」
「………」
「あんな……あんな指揮者は、そういるもんじゃない。
……
あんな指揮者は……もう二度と……」
ふと、リュカが言葉を止めた。
琴音がきょとんとした表
情で、リュカの顔を見つめている。
そして、次の瞬間、キラキラとした瞳でこう叫んだ。
「すっ
ごーーーいっ!!。リュカ、シンイチくんのことよく知ってるね。」
「い、い、いや……別に、それほどでも……」
「な
んで?なんで、そんなに知ってるの?」
まさか恋敵だったからなんて、口が裂けても言えない。
「え……
えっと……」
「なんの話をしてるんデスか?」
カサッと草を踏む音をさせながら、笑顔ののだ
めがやって来た。
空色のワンピースの上にエプロンをつけ、麦わら帽子をかぶっている。
手に水の入ったバケツを
持っているところを見ると、珍しくも、庭の草花に水やりでもしようという気になったのだろうか。
その微笑む姿
は、初めて会った時と何も変わらない。
……まるで、あの頃のまま、時が止まってしまったかのようだ。
そ
して……自分も。
琴音が、のだめの腕にじゃれるようにして抱きついた。
「あ
のね、琴音が描いたシンイチくんの絵をリュカに見せてたの」
「そうデスか」
のだめがゆっく
りと微笑む。
「琴音も、ちょっとは絵が上手になったでショ?」
「あ……うん。よく特徴を捉
えてるよ」
そのまま、リュカとのだめの間には沈黙が訪れた。
涼しい風がさああっと吹いて、
庭の草木をざわつかせる。
そんな微妙な空気は琴音は露知らず。
「ねえねえ、のだめ!!。
リュカってシンイチくんのことよく知ってるんだよ!!」
「そうですネ。リュカはシンイチくんと会ったことありマスから……」
「えーっ
と、なんだっけ。
意地悪で、ねちねちして、しつこくて……それからえーっと」
「ちょっ……ちょっと琴音」
リュ
カは慌てて、琴音を止めようとしたが、その言葉は止まらなかった。
「あ!!そうだ!!。
ムッツリだ!!。
シンイチくん、ムッツリだって!!。
エロエロだって!!」
「琴
音!!。ぼ、僕、そこまで言ってないよ。
だいたい、エロエロってどういうこと?いったいどこでそんな言葉覚えて来た
のーーーーっ!!」
その時、リュカは背後に冷たい視線を感じた。
おそるおそる振り返ると、
のだめが鬼のような形相でリュカを睨んでいた。
「……子供になんてこと言ってるんデスか……」
「い
や、僕は、別に、その、あの」
「ムキャーーーーーーッ!!リュカ、許しまセン!!」
バシャ
ンッ!!。
冷たい水がリュカを濡らす。
のだめの持っていたバケツの水を、頭からかけられた
のだ。
そりゃないよ。
のだめ。
いくら気候がいいからって、あんまり
だ。
「今日の晩御飯抜きデス!!頭を冷やして反省してなサイ!!」
ケ
ラケラと楽しそうに笑う琴音。
のだめは、一生懸命怒ったフリをしてみせてるけど、みじめなリュカの姿に、ちょっぴりくすりと笑ったり
して。
そうなったらもう、びしょ濡れのリュカは苦笑するしかなくて。
本当にのどかな……の
どかな春の一日だった。
だけど、知らなかった。
そ
んな場面を写真に撮られていたなんて。
「ピアノ
の貴公子リュカ・ボドリーに熱愛発覚!!。
今度のお相手は、なんとあの、若くして死去した指揮者シンイチ・チアキの未亡人!!」
そ
んな記事が週刊誌に載ったのは、それから数日後のことだった。
続
く。