優しい人
…
先輩に…嫌われてしまった…。
のだめは、夜の街をとぼとぼと力無く歩いていた。
昼間に千秋
から言われた言葉が何度も胸をよぎる。
『もう家に来るな』
『ーうっと
おしいんだよ』
はあっと深くため息をつく。
今までだって千秋には叩かれたり蹴られたり、缶
詰食べさせられたりと様々なことはやられて来たが、
あんなにも、こちらを傷つけようとする明確な意図を持った言葉を言われたことはな
かった。
…何がいけなかったんデスかね。
思えば、朝から千秋の様子は
いつもと違っていた。
勝手に部屋に入り込み、ベッドの隣に潜り込んでぬくぬくしていたのがやはりいけなかったの
だろうか。
それとも朝食に、千秋がスクランブルエッグを作ろうとしていたのを、駄々をこねて
ベーコンエッグにし
てもらったことだろうか。
いやいや。
冷蔵庫にあったヨーグルトをこっそり食べたのがいけなかったのだろうか。
バ
レないと思ってそうっと持って帰った洋服一式がないことを不審に思ったのだろうか。
このあいだこっそりお風呂を覗いていたのが実はバ
レていたのかもしれない。
それとも着替えを盗撮した写真が見つかった?
それともそれとも。
ー
心当たりがありすぎて、原因がさっぱりわからないのだめであった。
『ー別に俺はお前とつき合ってる訳じゃないん
だぞ』
何度もリフレインする言葉。
ーわかってマスよ。
の
だめは心の中で呟く。
…そんなことくらい、わかってマス。
気を抜くとじわっと目元が潤んで
くる。
夜の街の灯りがにじんで、視界がとたんにぼやけてくる。
慌てて服の袖でごしごしと目をこする。
ー
その拍子に。
ドンッ。
前方から歩いてきた人物とぶつかった。
ど
う考えてもこちらの不注意だ。
「ご…ごめんなさい…」
思い切りよくぺ
こりと頭を下げて、その人物の顔に目をやると…
「…ふおっ… …多賀谷…さいこ…」
い
かにも上等な素材の上品なコートを着て、多賀谷彩子がそこには立っていた。
のだめが名前を呼び捨てにしたのを聞いてギロッと睨む。
「あ、
いや、多賀谷彩子…さん…」
のだめは慌てて、名前を呼び直す。
よくわからないけど、この人
物に敬称を略してはいけないという感じがあった。
記憶にはないが、どうやら防衛本能にインプットされているらしい。
「…
何か用?」
いかにも不機嫌そうに彩子は言う。
「えと…あの…用とか
じゃなくて…ぶつかってごめんなサイ!」
もう一度深々と頭を下げる。
「…
別にいいわよ…。ちゃんと前を向いて歩きなさいよ」
そう言って彩子は立ち去ろうとした。
ー
が、また振り向く。
「…だから何?」
「へ?」
の
だめは首をかしげる。
「…この手」
彩子の視線の先に、目をやると…彩
子のコートの裾をしっかりと握りしめているのだめの手。
無意識のうちに掴んでいたようだ。
「ふ
おっ…ごめんなさい!べっ別になんでもないんです!どうも失礼しましタ!!」
何度もぺこぺこと頭を下げるのだめ
を、彩子はしばらく呆れたように見ていたが。
「あなた…名前なんだっけ」
「あ、のだめ…野
田恵です」
「…私、そこのレストランに食事に行くんだけど…なんなら一緒に来てもいいわよ」
と
言った。
なんでこの子連れて来ちゃったんだろ
う…。
彩子はメインのステーキにナイフを入れながら思った。
この店のタルタルステーキは柔らかくてジューシーで
おいしい。
…なんだか…あんな街角で…捨てられた子犬のような顔して…すがってくるから…つい。
彩
子は、気まぐれで自分勝手なお嬢様といったイメージを世間一般に持たれてはいるが、
実は目の前の困っている人間をほっとけない姉御的
な性分でもあった。
ー当ののだめはというと、最初は聞き慣れない呪文のようなメニューにとまどって頭を抱え、結局彩子が
見
かねて同じものを頼み、今は使い慣れないナイフとフォークに苦労しながらガチャガチャ音をさせている。
…マナー
がなっちゃいないわね。
真一はいったいどういう教育をしてるのかしら。
でも…この子…とてもおいしそうにものを
食べる…。
なんとかかんとか苦労して切り刻んだ肉の欠片を、のだめははぐっとフォークで口に入れる。
とたんにに
こおっと笑う。
とても至福の表情で。
こんな表情をして自分の作った料理を食べられたら、食べさせる側としてはた
まらないだろう。
「彩子さん、彩子さん、これおいしいデス!」
「…うるさいわね。そんな大
きい声出さなくても聞こえてるわよ。恥ずかしいじゃない」
「…すみません、普段食べ慣れないものだから興奮して…」
首
をすぼめて恐縮しているのだめにちょっといじわるしたくなってしまって言う。
「そ
ういえば…ここには真一と来たことあったなあ…」
とたんにのだめの肩がピクリと動く。
かな
り正直なたちらしい。
「真一って…千秋…先輩…のことですか?」
「そうよ」
と
たんにのだめのナイフとフォークの手が止まる。
あれ、もしかして禁句だったかな。
「…し、
ん、い、ち…しんいちって響き…やっぱりいいデスね…はぅん」
「…は?」
恍惚の表情で遠く
を見やるのだめを見て、彩子は怪訝な表情になる。
「真一…いやシンイチクン…なんて呼んだりして…ゲハーッ
そんなっ幸せ過ぎて思っただけで鼻血出そうです!!」
…変な女…。
完全に自分の世界に行っ
ちゃってるのだめの姿に思わずひく。
「…別にシンイチでも、シンイチクンでも…あなたの呼びたいように呼べばい
いじゃない」
よく冷えたワインを口にしながら彩子はためらいがちに言う。
「あ
なた達、…つき合ってるんでしょう」
とたんにのだめが首をかしげる。
「え…?
イイエ?」
「……え?」
彩子は驚いた。
ーだって
彼女と千秋は、いつも一緒にいて半同棲のような状態だと大学中の噂の的だ。
…それに…あんなすごい息の合った演奏をして…。
大
学の教室でのラフマニノフの演奏を思い出した。
それで、つき合ってないっていうの!?
「つ
き合っていませんヨ」
「………は?」
「のだめは先輩の妻デスけど、つき合ってはいません」
やっ
ぱりこの女は頭がどこかおかしいんじゃないだろうか。
…あまり近づかない方がいいかも知れない…と思った瞬間、ポツリとのだめが言っ
た。
「だって…今日だって言われましタ…『ー別に俺はお前とつき合ってる訳じゃないんだぞ』って…」
「…」
「あ
と『もう家に来るな』とか『ーうっとおしいんだよ』とか…」
「ひど…!」
肩を落として消沈
するのだめを見て、相変わらずな千秋の人道非道ぶりに腹が立つ。
私ならともかく、こんな子供みたいな子にそんなコトを言うなんて…。
ダ
ン!
テーブルを叩く。
「あなたはそんなこと言われて腹が立たないの!」
突
然の彩子の剣幕にのだめはびっくりする。
「どどどどどうしたんですか。彩子さん、何をそんなに怒ってるんデス
か…?」
目をぱちくりとさせているのだめを見て彩子は息を吐いた。
「…
そうよね…私がどうこういう筋合いのものではないわね…」
「…」
「ーそれよりもあなた」
「ハ
イ」
「いいかげん私のショール返してくれない?」
「…は?」
「この間貸してあげたショール
のことよ」
のだめは心底わからないといったように首をかしげる。
「…
なんの話デスか?」
彩子の目がだんだんきつくなる。
「…あなた…まさ
か覚えてないっていうんじゃないでしょうね!」
「え、えーと」
「ちょっと!」
ダ
ン!
もう一度テーブルを叩いた。
ーさすがに周囲の視線が気になって、赤くなって声をひそめる。
「卒
業式の日に、カラオケのトイレであなたに貸してあげたショールのことよ」
「…あー」
のだめ
は思い出したように手をポンと叩いた。
「いつの間にかのだめがカーディガン無くしちゃって、代わりに着ていたあ
れですネ!。
あの時のだめ、すごく酔っぱらってて全然覚えてないんですヨ〜。
彩子さんのだったんですネ!。
ど
うもありがとうございました!」
なんだか頭痛がしてきた。
「…ちょっ
と待って。あなたあの日のこと覚えてないんだったら、見知らぬ私に今日どうしてついてきたの?」
「…別に知らなくないですヨ」
そ
うよね。名前をちゃんと呼んでるし(呼び捨てにしかかったけど)。
「…その…先輩と…とても仲がいいみたいだか
ら…」
「…」
「…それにご飯おごってもらえるし」
「は?」
「ちょうど
お腹空いてたんデス」
「ーちょっと…私おごるなんて一言も言ってないわよ」
「えーっっ!!おごりじゃないんデス
か!」
ガタンっとのだめが立ち上がる。
「こんな高そうなお店で払える
ようなお金、のだめ持ってないですヨ!」
大声で叫ぶのだめに店内の視線が集中する。
ウェイ
ターの冷たい目に耐えられなくなって、慌てて彩子はのだめの袖を引っ張った。
「わかった、わかったから。ちゃん
とおごるから、静かにして!」
「本当ですか!」
にっこり笑うのだめを見て、彩子は彼女を連
れてきたことを心の底から後悔した。
「彩子さんって声がとても綺麗で
すよネ」
デザートの苺のソルベとショコラケーキを幸せそうにつつきながら、のだめが言う。
「学
祭でやった『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージ見ました!
とても素敵で感動しましタ〜」
「…それは
真一と観に来たの?」
知らず知らずのうちに口調がきつくなる。
「い
え?のだめは一人で観に行きましたヨ〜」
「…そう」
「舞台の上の彩子さん…とても綺麗でお姫様みたいで…」
の
だめはうっとりと記憶に思いを馳せる。
「美人で…才能もあって…世の中にはこんなに神様に愛されている人もいる
んだなーと思いましタ」
「…何、言ってるの…」
「え?」
神様に愛され
ているのは私じゃない。
何もかも思い通りに行かず、一番大事な人との関係もうまくいかなかった。
ーあなたがそれ
を言うの?。
「…真一には不評だったわよ」
「え?」
「…私は何を歌っ
てもキレーなお姫様っぽくてつまらないって」
「あー先輩、音楽のことには厳しいですからネ」
「…厳しすぎるわ
よ…」
彩子は下を向く。
「…あんなに音楽に対して貪欲な人いないわ。
自分にも…他人にも厳しくって…
音楽をやっている上で一緒にいると、息がつまりそうになる…。
完
璧を求められすぎて…」
本当はもっと普通の恋人らしくいたかった。
音楽なんて関係なく、普
通に笑い合って普通に会話して、もっとお互いに自然に一緒にいたかった。
「…結局、真一は私の声しか認めてくれ
なかったような気がする…」
容姿とか性格とかそんなもの彼にはどうでも良かったんじゃないだろうか。
た
だ、自分の「声」を気に入ってくれた。
幼い彼女にはそれが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
もっともっと認めら
れたいと思い、努力して頑張ってこんなところまでやって来た。
だけどいつしかそれだけでは物足りなくなって。
もっ
ともっと自分を見て欲しい。
声だけではなく私自身を愛して欲しい。
そんな気持ちが強くなって…。
だ
けど。
音楽という檻に縛り付けられていた彼の心を、どうしても解き放つことが出来なかった。
鍵
を持っているのは彩子ではなかった。
「…あなたは不安にならないの?」
「え?」
「も
しかして真一がそばに置いてくれているのは、自分のピアノの才能のせいだけだからだって…思わない?」
嫌な質問
だと思った。
完全に八つ当たりをしている。
のだめは眉を寄せるとうーんと考え込んだ。
「の
だめ…何にもできないんデスよねー」
「は?」
思わず聞き返す。
「頭
も良くないし、彩子さんみたいに美人じゃないし」
…確かに知的な美人という感じではないかもしれない。
「ス
タイルも良くないしーあ〜こないだくびれがないって言われましタ!。失礼ですよネ!」
「…」
「料理も出来ないか
ら、ご飯いつも作ってもらってばかりだし。おにぎりと鍋は失敗しないんですけど、
毎日そればかりって訳にもいけないし…。掃除だって
得意じゃないし洗濯もあまりしないし、
いつも水道とガス止められているからお風呂借りっぱなしだし」
…
それは女としてどうかと思うけど…。
「あんまり気が利くほうじゃないから気持ちがわかってあげられなくて、先輩
いつも怒ってばかりいるし。
それに、よ、よ、よ」
のだめはどもる。
「よ、
夜のお世話もしてあげられないし…」
ーどうしてそこで赤くなる?。
「の
だめ、先輩に何もしてあげられないんですヨ」
「…」
「…だから、もし先輩がのだめのピアノを好きだって言ってく
れるなら」
「…のだめが先輩に何かたった一つでもしてあげることができるのなら…」
「…」
「そ
れは…とても嬉しいデス」
とのだめは笑った。
「のだめは例え片手一本
になったとしても、先輩にピアノを弾いてあげたいです」
彩子は目を閉じた。
真
一が彼女を自分の手元に置いているのは、ピアノの才能のせいだけではないのかもしれない。
ー例え本人がそうは思っていなくても。
鍵
を持っているのは…彼女だ。
どうして自分にはこの強さがなかったのだろう。
相手に愛情を求
めてばかりで、与えることなど考えもしなかった。
もしも、あの時に違う道を選んでいたらー。
…
そこまで考えて彩子は苦笑する。
そう思うのは、もうやめにするのだった。
あ
の日、あの時にそう決めたから。
「あなた…」
彩子は口を開いた。
「確
かに…あなた頭悪そうだし、美人じゃないし、服装のセンスも悪いわよね」
「…自分でわかってても他人から言われるとすごく腹が立つん
ですけど…」
のだめはむっとして言う。
「性格も抜けていそうだから、
真一、苦労してそうよね。すごく可哀想…」
「あのー…もしもし、のだめの言うこと聞いてマスか?」
「…でも、あ
なた…」
「あなた…可愛いわ…それに…とてもいい子ね」
と彩子は微笑
んだ。
それを聞いてのだめは何故か赤くなる。
もじもじとしながら俯いた。
「さ…
彩子さんって、そういう趣味が…」
「…は?」
「大変…申し訳ないのデスが…のだめには先輩という心に決めた人
が…」
「はい?」
「…でも…彩子さんみたいな綺麗な人に…そんなこと言われたら…のだめ…その…」
「ちょっ、
ちょっとなんの話を」
のだめは意を決したように向き直る。
「ーお姉
様って呼んでいいデスか!!」
ぶわあしいいいいん!!
「ー何考えてん
のよっ!この変態っ!!」
「痛いデス…彩子さ
ん…」
殴られた頭を押さえながらのだめが言う。
「うるさいわね!変な
こと言うからよ」
つんと冷たく言う彩子。
ふと、のだめの前に置かれたワインがほとんど手つ
かずであることに気づく。
「ーそれより、あんた全然ワイン飲んで無いじゃないの!せっかくおごってあげるんだか
ら
ちゃんと飲みなさいよ!」
「あー、のだめはお酒に弱くって…すぐに潰れちゃうので、先輩から自分がいない所で
は
飲まないようにと強く釘を刺されてマス」
「何…あいつ、彼女とは認めないくせにそういうところだけは拘束して
るってわけ?」
嫌な男ねー!と憤慨する彩子を見て、のだめがクスッと笑った。
「やっぱり先輩と彩子さんって似て
ますよネ」
「な…何よ!私があんな冷血人間と一緒だっていうの!」
「えー、先輩は優しいですヨ」
口
を尖らせてのだめは言う。
「優しくって、頼りがいがあって、面倒見が良くって…そのくせ照れ屋さんで」
「は
いはい」
ここでのろけを聞かされてはたまらないとうんざりする彩子に、のだめは
「ー
そういうところが良く似ていマス」
と笑って言った。
次
の日、大学の構内を練習室に向かって歩いていた彩子は、前を歩いていた千秋とのだめに気づいた。
のだめが笑いながら、何かを話しかけ
ながら千秋の腕にすがりついている。
千秋は迷惑そうな顔をしながらも、振りほどこうとはしない。
ー以前なら目を
そらしていたかもしれない光景。
でも、今はひけめを感じない。
「のだめ!」
彩
子はのだめの肩をポンッと叩いた。
「あー、彩子さん」
振り返って彩子
に笑いかけるのだめに、千秋がえっという顔をした。
それを無視して彩子はのだめに話しかける。
「あ
んた、私のショール持ってきた?」
「ハイ、今教室に置いてありますから、取ってきますネ!」
「ちゃんとクリーニ
ング出した?」
「は?クリーニング?」
「あのねえ、人に借りたものを返す時にはクリーニングするのが礼儀で
しょ」
「はうぅ…すみません…」
しゅんとなるのだめにため息をつきながら彩子は言う。
「…
もう…いいから、取ってきなさいよ」
「はーい」
教室に向かって駆け出すのだめ。しばらく
行って不意に振り返る。
「彩子さーん。また一緒に飲みましょうね!」
ま
るで小学生みたい…と苦笑しながら見送る彩子に、腑に落ちないと言った顔で千秋が言う。
「お前ら…何でつるんで
るんだ…」
「あら、いいじゃない。真一には関係無いでしょ」
「…」
「別に真一が困るような
ことは言ってないわよ」
「…」
「だから何よ、その顔は」
「…別に…いいけど…その…お前ら
が俺の悪口言ってそうで…なんかやだ」
「何、言ってるのよ」
心底呆れたように彩子が言う。
「私
とあの子で、あなたの悪口以外、何の共通の話題があるっていうの?」
なんともいえない複雑な表情をした千秋に、
彩子は思わず吹き出した。
終
わり。