bitter and sweet 〜時には溶け合うように〜
nouvell
淡
い月明かりが彼女の白い肩を照らしている。ぼんやりとした意識の中で、右側のその柔らかい造形を眺めていた。
ーいつの間にか眠って
いたんだ…。今、何時なんだろう…。
しばらく宙を眺めながら、意識の焦点が合ってくるのを待った。そして、そ
れと共に右側の痺れと全身の倦怠感を覚えるようになった。
ーあ…。
目を見開き右側の存在をしっかりと見た。彼女はうつ伏せになって顔は向こう
を向いていた。真っ白な背中にブロンドのウエーブした髪が肩甲骨までかかっていて、月の青白い光を反射していた。
…身体の奥がカッ
となり電流が流れるような感覚を覚えた。
…なんで…
上体を少し起し精一杯腕をを伸ばして、ベットの下に落ちていたボクのシャツを 拾い上げた。
…なんで…
腰の辺りまで下がっていた薄手のブランケットを、まだ眠りの中にいる女性の 裸の肩まで引き上げて掛けた。ボクはシャツの袖に腕を通した。
なんで、こうなったんだろう…。
* * *
ボクに家庭教師が付いたのは3週間前の事だった。それま
でピアノ以外の勉強は通信教育を利用して学習をしていた。それなりに良い成績を納めていたので、何も不足はしていなかった。
南仏に住んでいる父の知り合いの娘をしばらくの間うちで預かる事になった。地元の大学に通う20歳の学生。数学を専攻していて常に首席を保ってる「才女」
という話だ。旅行が趣味で今回は夏休みを利用してパリ巡りをする事が目的らしい。どんなインテリが来るんだろうと皮肉めいた想像しかしてなかったのだが、
実際の彼女は想像とはかけ離れた人だった。
「はじめまして、リュカ。しばらくの間よろしくお願いします。」
エマは小柄で細身の朗らかな女性だった。白い透明感のある肌は化粧っ気なく
鼻の周りの茶色いそばかすが目立ってい
た。細身の眼鏡越しに見える瞳は淡いグリーンで真ん丸で小さな目が可愛らしい。肩にかかるブロンドの輝く髪は軽くウエーブがかかっており、額の真ん中で分
けられていた。幼い顔立ちとはにかんだような笑顔から、実年齢より若く見えた。
裕福な家庭育ちらしいが、外見からはごく庶民的に見
えた。親しみやすい性格でボク達家族とはすぐ打ち解けて、あっという間に仲良くなった。
そして、話の流れからボクの勉強を見てもら
うことになった。
「数学は神様の秘密を1つずつ解いていくような楽しさがあるのよ。鉛筆1本と紙だけでね。」
そ
う言った彼女は本当に楽しそうに話す。
「リュカのピアノもそうなんでしょう。神様の秘密を音楽で解いていく…。素敵な事よね。」
そんな彼女の言葉にドキドキしてしまった。いつも通りの勉強も、ピアノの練習も、不思議とキラキラと輝いて見える。いつもの家でいつもの毎日を過している
のだけど、彼女がいるだけで何もかもが新鮮に見えてくる。
そんな彼女は誰かさんと重なるような…気がす
る…。
* * *
「家庭教師ですか?」
いつもの学校のカフェテリアでボ
クとのだめは会っていた。学校はバカンス中ではあるものの、来年度は最後の年。勝負の年でもあるので、度々学校へ通って練習をしていた。
「まあ…成り行きでね。でも、特に苦手なものとかないんだけどね〜。」
ずずずっと砂糖をたっぷり入れたブラックコーヒーをのだめは
すすると、感心したような目でこちらを見た。
「ちゃんとピアノ以外の勉強もしているんですね。」
「当たり前
だよ。音楽以外の勉強だってちゃんとやっておかないと…。のだめだって学校で勉強してきたんでしょう。」
「ぎゃぼ…。ま、まあ、そ
うですね〜やってきましたよ…。」
って、目を逸らしながら段々声が小さくなっていってるんだけど…。
「でも、
数学は専門なだけあって、やっぱり為になるよ。それに音楽に無関係ではないしね。」
ちょっと誇らしげに言って、少し冷めたココアす
すった。
しばらく雑談を交えながら課題曲の話や今日の練習の話をした後、お互い家路に向かう為に学校を出
た。のだめはいつもと一緒で、鼻歌交じりにスカートをなびかせてちょっと前を歩いていた。空はすっかり日が暮れて、東の方には1つ2つと星が輝いていた。
「夕方になると、さすがに涼しくなりますね〜。」
そう言って、ボクの方に顔を向けた。
そうだね…って言いか
けた瞬間、のだめは少し見上げるようにボクの顔をみつめた。
「…リュカ。大きくなりましたね。いつの間に。」
えっ?突然そんな事を言われて一瞬戸惑った。のだめは動きの止まったボクの横にすっと立った。
「背、追い越されました。手だっ
て…。」
そう言ってボクの左手を掴んで、自分の左手と合わせた。
一センチくらいボクの方が大きくなってい
た。
「そっ、そうなんだ…そう言えば、最近、弾ける曲がグンと広がったような気がするし…。」
ちょっと照れ
ながら早口でそう言うと、真横に並んだのだめの姿を見下ろすように眺めた。
「ずるいですね。男の子は。」
ちょっと見上げたのだめはそう言って、唇を尖らせた。
* * *
「本当は宇宙飛行士になりたかったの。」
夜、一緒にテラスに出て星を眺めながら、エマが言った。
「子供の頃、背が小さくて分厚い眼鏡をかけていた私は、よく同級生にからかわ
れていたの。家では優秀な兄弟といつも比較されていて…親戚からも『お馬鹿な子』って言われていたのよ。」
意外な話にボクは目を丸
めた。「何で?頭いいんでしょう。優等生だって…。」
彼女は笑いながら首を振った。
「私なんて、みそっかすなの
よ。兄達はみんな医者を目指したり、法律家を目指したり…。私みたいに星を見ながら神話を読んでいるような子はいないのよ。」
だから
ね…と言うと、彼女は空に向かって指を指した。
「宇宙からそんな人たちを見下せたら、どんなに気持ちいいかな〜って思って。」
彼
女は大きく笑った。ボクも思わず釣られて笑ってしまった。
「パリはあまり星が見えないわ。リュカも、今度、是非うちの田舎へ来て
ね。たくさんの星にビックリするから…。」
彼女は一生懸命目を凝らして空を見上げた。
コンプレックス…ボクもずっと抱えてきた。
音楽の事ならば年上の同級生には負ける気がしないくらい自分の才能に自信を
持っていた。でも、どうしても年齢の差で敵わない事がある事を知った。
肉体的なコンプレックス。弾いてみたいけ
ど、まだ弾けない。手がまだ小さいから…。早く、成長したい。早く、大人になりたいと思った。でも、それはいずれその時がくるのだから、大したものではな
い。
早く大人になりたい…この思いを何よりも痛感したのは、彼女に出会ったか ら。
初めて恋を意識した、10歳年上の東洋人。
最初は音楽院で初めてできた仲良しの友達に過ぎなかった。栗色の瞳はいつも
澄んでいて、どんな話題でも興味津々に
目を輝かせていた。いつもどこでも楽しみを見つけ、幸せそうに笑っている。子供っぽい遊びも真剣に付き合ってくれて(いや、本当に好きなんだろう)、そん
な彼女と会う事が毎日の楽しみになった。今日は何を話そうか…そんな事をいつも考えていた。彼女と仲良くなってからの学校での日々は、キラキラと輝いてみ
えた。
彼女と過した初めてのノエル、ドキドキしながらディナーに誘ったのだが…ふられてしまった。
彼女には恋
人がいたのだ。新鋭指揮者の日本人。音楽の才能が溢れ、何より大人の男。
生まれて初めての恋はシャボン玉のように儚くて…あっけなく
壊れてしまった。
その衝撃は思いのほか大きかった。その後のディーナーの味が分らなかったくらいだから…(ヤスは最後まで慰めてくれ
たんだけど)。